わすれられたところ
第1話 迷い込む
人には誰にでも、忘れることのできない光景がある。
御年百歳のひいばあちゃんは、生まれたころに建てられた国一の電波塔の展望台から見た夜景を今でもたまに思い出すという。
現総理大臣は、昔一度だけ暮らしていた田舎で見た大きなかまくらの中で祖父母や家族と団欒をしたあの頃は幸せであったと語る。
もうすぐ四十路を迎える叔母は、今はもうない北関東の故郷を懐かしむ。少子高齢化の影響を受けて今はもう存在しないらしい。
そしてもちろん僕にもある。
それは、一言で言うと美しかった。
稲が、夕暮れの陽光を浴びて黄金に輝いている。風とともに漂ってくる自然の香りは日頃過ごしている東都の空気とは比べ物にあらないほどきれいでいいものだった。稲穂がゆれることで聞こえてくるその音は、どこか懐かしくそして新しい。
もう一つある。
鳥居も、そして中にあった建物もすでにボロボロだったにも関わらず、入るだけで身震いする荘厳な雰囲気の場所。普段では見ることのできない大きな鈴、特徴的な装飾があり、そこだけまるで別世界だった。そしてあの日、そこで一人の少女と出会った。
その二つの光景が今でも忘れることができない。あれから十年経った今でも、心惹かれる光景だ。
なぜそう思うかはもう考えていない。理系の人間である僕は決して非科学的な感覚が優れているとは言えず、そもそも、そんなものの存在を本気で信じてはいない。
しかし、これは、これだけは。
きっと運命の出会いだったのだ、と信じている。
それはある秋の日。
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林間学校の途中で僕は残念ながら、ハイキングをしていたクラスの団体とはぐれてしまった。
残念ながらはぐれてしまった理由は周りの景色に見とれた、のような可愛い理由ではない。むしろ逆ともいえる。
そもそも林間学校という行事の存在自体、僕にとっては忌々しい行事に他ならない。それは、僕が極端なインドア派というわけでも、自然なんてクソくらえだ、みたいなことを思っているというわけでもない。
中学校では、自然を直接体験してその偉大さ、美しさを体感してほしいという意図で林間学校なるものを行うらしいが、そんなもの、百年も昔ではないのだから、行く必要性が感じられない。
自然の景色が見たかったら、インターネット画像検索すれば出てくる、偉大さは知識でわかっている。そもそも、森は様々な生物の生息地であり、最近猛威を振るっている、毒を持つ新種の蚊を例にとっても、その数は膨大で会わずに済むわけがない。他にも生命を脅かす危険な存在がたくさんいるのに、なぜそんなところにわざわざ行かなければならないのだろうか。どうしても見せたければ、ヴァーチャルリアリティを使えば、現実と見分けがつかない上に、体感もできるので行った事と対して変わりはないし、命の心配もない。
などなど、顔をしたに向けてからいろいろ愚痴を吐きまくっていた。そしたらいつの間にかはぐれてしまった。
現状、クラスのみんなに追いつこうと必死歩き回っている。
指輪型の携帯端末を見て驚く、すでにはぐれてから二十分が経過し、団体とは大きく離れてしまっていることが用意に想像できる。
森の危険生物ではなく、単なる遭難で命に危機である。
「やばいなぁ、マジで命の危機だ」
とつぶやき、たびたび駆け足になった時に使った体力を回復するために、ため息をつきながらその場で座りこんだ。
その時。右から足音がした。
「あ……」
人の声。僕ではない、女の子のような声が聞こえた。そして、右に続く道の奥に走り去っていくように感じた。
僕はその足音がもしかしたらクラスのところへ僕を誘ってくれるのではないか、という何の根拠もない考えを思いつき、その足跡の方向に再び進み始める。
雑草は生い茂り、たびたび道の脇から尖った枝が進路をふさいでいる、木陰で薄暗い道をひたすらに進んだ。足跡は不思議と度々聞こえてきて、その方向に僕は足を進めた。
しかし悲劇は起きる。その足跡が聞こえる方向に進み続けると、急に道がなくなり、急な下り坂が目の前に現れたのだ。勢いに乗っていた体はバランスを崩し、倒れ、そしてそのまま坂を転がり落ちた。
その後の記憶はなく、僕はその時初めて自分の死を覚悟した。
しかし生きていた。
「い……てて……」
とつい口から出た言葉。しかし、まず生きていることに安心した。横たわっていた体の上半身を起こし、目を開けて全身至るところに痣が多くできているのが分かった。体を動かそうとするが。激しい痛みを感じた。
しかし、そんなことがどうでもよくなる怪奇現象が起こっていることに気付く。
体を覆うように柔らかい羽毛が入った布袋が、僕の体を覆っていた。
「なんだろ……これ?」
布袋をはがして立ち上がった。周りを見渡して状況を確認する。
明らかに誰かがここまで運んでくれたはずだ。あの状況で屋内にさらにこんなにきれいに横たわることになるはずがない。体に泥や草がついていない。ここまで運んできてくれた人にはお礼を言わなければならないだろう。
ここが屋内であるのは間違いない。しかし、一言で言えば時代遅れの家というのが一番正しい。この部屋にあるものを知識だけでは知っているが実際見たことは一度もなかった。
まず、床が植物の茎みたいなもので作られている。確か、畳というものだ。百何十年前までは、日本で一般的に使われていたらしいが、今はもう見ない。床暖房つきのフローリングが当たり前だ。
さらに部屋の入口がドアではなく、髪でできた、スライド式の木の仕切りになっている。不思議な模様が描かれた紙があってあるのも印象的だった。取っ手のような場所に手をかけ、それを右にずらすと、奥にも同じような部屋があり、さらにその先にはキッチンのような場所があった。しかしそのキッチンもはっきり言って古いものだ。
この家は電気が通っているにも関わらず、IHヒーターではなく、ガスが使われている。今時ガスを使うとは本当に時代遅れで経済的にも最悪だ。近代史の中で五十年前のガス枯渇問題が起こってからは、ガスの値段は著しく上がり、今ではよほどのことがない限り、電気で調理の過熱は行うものだ。電気であれば太陽光や地熱や風など枯渇することのないエネルギーからつくることができるので、ガスのようになる心配がない。
さらに驚くべきはさらに、前の時代に使われていたような器具も存在する。よく時代劇で、木を下に引いてそれを燃やして炎を上げるアレだ。本当に存在することに少し感動した。
そして最も驚くべきことはこの家には、料理用のAIロボットがどこにもいないことだ。まさかここの住人は料理を最初から最後まで自分の力で行うというのか。
「信じられないな……」
キッチンを後にして、家全体を見て回ることにした。廊下や他、家の骨になる部分はすべて木造、これも百何十年前まではこれも一般的だったらしい。正気の沙汰じゃないと思う。日本は地震の大災害が二十年単位で起こっていて、純粋な木造建築は耐震性問題があり、今では原則禁止になっている。
家で一番大きな部屋に入ってみると、そこには、前に社会の歴史の教科書に書いてあった暖房器具が置いてあった。
「これ……こたつじゃないか?」
小学生の歴史の教科書で、近代史のところに書いてあった暖房器具。なぜかこれははっきり覚えている。確か、一度どれくらい温かいのか確かめてみたいと思ったのを覚えている。
「……ちょっと、いいかな」
他人の家のものを勝手に使うのは少し気が引けたが、どうやら家には誰もいないようなので、バレない程度で使ってみることにした。
中をのぞいてみると、なぜか電源がついていてオレンジの光がついていて、中から熱気を感じた。
足を入れる。
「あ、温かい」
まだ秋なので、そんなに体は冷えていないのでそんなに必要性は感じないが、冬なら話は別だ。中に入れている部分はすぐに温まり、よく冷える足先を温めるにはちょうどいい。教科書に冗談っぽく、入ったら抜け出せないと書いてあるが、床暖房がまだ一般的でない当時では、本当の話だったのかもしれない、なんて思った。
上の柑橘類の果実は何に使うのかは気になる。香水の香りつけに使われるくらいしか聞いたことがない。しかし、それでも、果実そのままということはないだろう。
その柑橘系を見つめながら思った。
不思議なところだなぁ、と。
ここまで昔のものがそろっていると、まるでタイムスリップでもした気分だ。知らない世界に迷い込んで――、
「あ!」
大事なことを忘れてしまっていたのは、とりあえず頭を打った影響にしておく。
ここはどこなのだろう。
指輪型の携帯端末で時間を調べるともう夕方だった。クラスのみんなとはぐれたのは二時だったので、すでに数時間は経過している。すでに遭難騒ぎになっているだろう。
もしここが全く知らない土地だったら、救助されるしか帰る方法がなくなる。さらに救助が来ないような秘境だったらもうお手上げだ。生きるには、この前時代的な家でタダ働きをしてでも生かしてもらう以外に方法がないのではないか。
「じょ、冗談じゃないぞ……」
今までは目新しいものを見てきて気が紛れていたのだろうが、今のこの状況は非常に危ないことこの上ない。
何か困ったときに頭を抱えるというが、この時ばかりは本当に頭を抱えてしまった。
「あ……」
女の子を声がした。弱弱しい声だった。
あまりに急であり、さらに自らの危機的状況に追い詰められていたことによる幻聴なのではないか。そう思ったが、その考えは、木造の廊下を駆けていく足音で打ち砕かれた。
誰かいる。
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