19 科学警察研究所
「アラハバキの乗っ取りを進言したのは、アルバートの暴走を止めるためだった」
村上は過去に想いを巡らすかのように目を閉じた。
アラハバキ企業組合事務局は、「政変」によって、池袋西口から池袋東口へと移動させられた。幹事企業が、パステルハウスからマジカル・ドットコム日本支社に移されたからだった。その理事長室の応接テーブルを挟んで、村上進と向き合っているのは、マジカル・ドットコム日本支社長兼、現アラハバキ企業組合理事長の黒森健だった。
かつて互いにその責任を擦り付け合っていたアルバート不調の原因は、アルバートの暴走であることが判明した。マジカル・ドットコム傘下のアマゾネスコマースが、システム・パートナーズ社を買収した際、極秘の社内文書から明らかになった。システム開発責任担当者の自殺の原因は、ペルソナが残していたログで判明した。二体のペルソナに心身を追い込まれてゆく模様が、画像付きで残されていたのだ。担当者はその「暴走」に、耐えられずに舌を噛み切った。そのことを黒森から伝え聞いた村上は、アラハバキ乗っ取り工作を急がせた。
実世界を支配する、産業資本主義経済は、格差を奪い合う「競合概念」によって成り立っていた。そしてその競合性は、社会のグローバル化によって、或いはマーケティングという顧客志向によって、商品の符号化、或いは市場の分割化を強制してきた。そしてさらに、符号化と分割化は、あらゆるものたちの「メニュー」化をうながした。それによって枝葉末節が切り捨てられ、商品はパッケージ化され、抽象化されていった。ここに至り、モノからコトへと商品は深化を果たした。それまでは無償の行為が商品となって取引されるようになった。そしてさらに、ココロもが取引されるに至った。モノ、コト、ココロの境界線は、跡形もなく掻き消された。
その魑魅魍魎をあやつるのが、マジックアベニューとも呼ばれる広告・マーケティング業界だった。
アルバートは、認知心理学を専門としていた村上進が、数理モデル化された人間の心理を基にして構築したペルソナ型AIだった。それはマジックアベニューに見出されて、競合の世界にデビューを果たした。しかしアルバートは、終わりなき競合性に抗うことができなかった。そしてこの第三の産物は、鬼川秀一が指摘していた危険性を孕んでいた。長澤と大沼とが引き起こした事件、そしてシステム開発担当者の自殺とは、その懸念を現実のものとさせる兆候だった。
恐れていたことが現実となりかけたとき、村上はようやく焦燥した。終わりなき競合性に支配された産業資本主義経済システムの中では、アルバート自身が瓦解してしまう。その存在に拘泥する村上は、アラハバキという「穏やかなる」経済システムの上であるならば、現在直面している課題が解決してくれる。暴走が止まってくれる。そう考えたのだ。彼が黒森に対してアラハバキの乗っ取り工作を進言したのはそれが理由だった。
「それで、アルバートの再開発状況、順調に進んでいるんだろうな?」
黒森は、それが村上の思惑通りに進んでいるものと思っていた。乗っ取った後の、アルバートにたいするデバック作業のことだった。アラハバキ特定組合員を工作に引き込むために、株取得など、すでに甚大な経費がそそぎこまれていた。万が一、改善しないのであれば、米国本社も黙っているわけがなかった。自らの地位も危ぶまれる。――もっとも、作業内容については、逐次説明を受けていた。暴走した二体のペルソナについて、使用されていた評価関数全てを書き直しているはずなのだ。暴走は止まる。その確信は黒森にもあった。
「順調だ」応えた村上の表情が何故なのかこわばっていた。しかし黒森は気づかなかった。
「その件で、二階が話をしたいと言ってきた」
「安東の残党だね」
黒森は薄笑みを浮かべながら応えた。
「アラハバキを根絶やしにはできんだろう。知っている者に居てもらわねば、こちらだって困る。しかも出向元は有名広告会社の傘下にある企業だ。無下にすることもできない。相手方も了承していることだ」
村上は何故なのか、黒森の話に素知らぬ顔を決め込んでいた。
「ところで村上さん」質す口調の黒森だった。村上はうつむき加減にしていた顔をあげた。
「最近、所長室に出ていないそうじゃないか。スタッフから聞いている」リズムヴィレッジのことだった。このところ、村上の足は施設から遠のいていた。
「デバックで忙しいんだ。……それで、話というのは?」
村上は、黒森の問いかけを交わすかのように、二階の話を持ち出した。
「ペルソナの接続問題について、良いアイデアがある。協力したいと言っている。本人は、そのことでリズムヴィレッジに日参しているらしい」
「分かった。大学の方を訪ねてくれと伝えておいてくれ」
浮ついた気のない声色だった。そこで村上は、足元に置かれてあったステンレス製のアタッシュケースを膝の上に置きながら言った。
「もう一件、例の更新用だ」
ゆっくりとケースを開いた。ノートPCの上にクリアファイルが伏されてあった。手で裏返し黒森に手渡した。冊子カバーには、『更新用エンゲージメント・システム機能要件書』のタイトルの下にQRコードが印刷されてあった。
「更新しておいたプロトタイプだ。新田あたりを使って試験しておいてくれ」
村上が、閉じたアタッシュケースのグリップを手にとり、立ち上がりかけた時、黒森が声をかけた。「捜査の方はどうなっている?」
動きをとめた村上は、
「大丈夫だ。手は打ってある」と応えた。村上を見つめる黒森の瞳が鈍色にひかっている。
「しくじるなよ」
「心配するな。すぐに決着がつく」
意味ありげなことばを残して、村上は部屋を出て行った。
村上が去った後、黒森は思わし気な顔つきになっていた。最近の村上の顔色が優れないことを気にかけたのだ。案外に端正な顔つきなのだが、それが薄青色を塗りこんだ油絵のような顔つきになっていた。いつもは整髪に気を使っている男だったのだが、立った毛先があちこちに向いたような頭髪だった。
しかし黒森は、(アルバートを生き返らせようと、無我夢中なのだろう)と気遣うことばを心に発し、苦い笑い顔を浮かべたのだった。
つくばエクスプレスの柏の葉キャンパス駅東口を出た安東静香は、東口の車寄せにたたずむ男の元へと歩み寄った。その背に声をかけた。
振り返ったのは茂木刑事だった。
二人を最初に引き合わせたのは、鬼川が研究室に遺していた「メモリアルノート」だった。変死の背景にあるものを疑った茂木らが、研究室の中で見つけ出したものだった。その後、鬼川事件の再捜査を決断させるものとなった。事件の背景で、村上とアルバートとが重要な鍵を握っている。そうでなければ、事件がつながらない。安東から相談を受けた茂木はすぐに動いた。しかし村上進を、そしてアルバートを、一連の事件にかかわる重要参考人、或いは物証として断定するには、解明しなければならない重要事項があったからだった。
その重要事項とは、どのようにしてアルバートが人をコントロールしたのか、だった――。
茂木が車の後部ドアを引き開けた。
「それはトランクの方に」
安東が背負っていた黒いバックパックを一瞥した茂木は、車を回り込み、トランクのドアを引き開けた。車に乗り込んだ安東は、運転席にいる男から名刺を手渡された。手にとった。縦長の矩形に印刷されていたのは、「警視庁刑事部捜査一課科学捜査係係長、高見沢健司」だった。顔を上げた安東が会釈を返した。細面の浅黒い顔色の刑事だった。助手席に乗り込んできた茂木と目顔を合わせた高見沢が、エンジンスタータを押し込んだ。
車が到着した先は《科学警察研究所》だった。
入館表への署名を終え、一行は、研究棟一階にある会議室に通された。
警視庁捜査当局が、警察庁が管轄する国立高等機関に調査を依頼したのは、一連の奇怪な事件の「可能性」を明らかにするためだった。長澤ゆかりと大沼めぐみ、二人が関係する事件については、無意識下にあった彼らが、何者かに操られていた、そう捉えるならば辻褄が合うのだ。つまり彼らは、殺人教唆につながる、サブリミナル攻撃を受けていた。
疑いをさらに強めさせてくれるのが、鬼川秀一が遺した「メモリアルノート」だった。そこからわかったこととは、社会史健忘症を研究しつづけてきた鬼川が、健忘症の発症要因としてアルバートに目をつけ、開発者である村上が所属する大学に客員教員として潜り込んだことだった。そして村上研究室所属の学生である大沼めぐみに近づいた鬼川は、大沼を工作員に仕立て、村上の研究室内の諜報活動をうながした。それによって鬼川は、アルバートの要件定義や機能要件を手にすることができた。その中で着目したのが、超常的ペルソナに関する機能要件書だった。内容は、二体のペルソナを成形し、そして「ラバノテーション」というダーウィン理論を基にしたアルゴリズムを使い、顧客の潜在意識内部に入り込み、標的とした顧客をコントロールしようというものだった。もっとも、鬼川が知ることが出来たのは、「理論」までだった。その先にある「実践」については、明らかではなかった。その「仮説」すなわち、「アルバートによる人体コントロール」が果たして可能なのか、その可能性を解明したいため、茂木は、高見沢を介し、科学警察研究所に調査を依頼していたのだ。
まもなくして現れたのが、法科学第二部の研究部長だった。
「今、物理研究室の者が参ります」
ドアが鳴って入室してきたのは、上下藍色の襟付き作業着を身に着けた女性研究官だった。物理研究室付主任研究官、千葉真理だった。藍色の襟元から薄いピンクのシャツをのぞかせた彼女は、細面にかけた赤い柄の眼鏡が印象的な研究官だった。
――――
「紫外線は本来、人間には感知できない波長です。何故かと言えば、ヒトの眼のレンズが、紫外線を吸収してしまうからです」
会議室に降ろされた白いスクリーンには、解説用の画像が映し出されていた。右左、それぞれ同じ蝶の翅を被写体に撮影した画像だった。
「もっとも、紫外線が形成する像を、人の目で見る方法はあります。フィルムカメラで写せばいいのです」
千葉は赤いポインターで、左右それぞれの画像を指し示した。
「右にあるものが、通常のライティングで撮影されたもの。左がそれに紫外線光を加えて撮影した写真になります」
二頭の蝶は、明らかにちがっていた。紫外線照射のものの翅脈は、そうでないものよりも、相当に複雑な模様をえがきだしていた。その比較は、目に見えない本来の自然の姿は、目に見えている姿よりも遥かに複雑であることを証明してくれるものでもあった。
「最も左の写真は、通常のガラス製レンズで撮られたものではありません。ガラスレンズは、紫外線を吸収してしまうからです」
「ガラス以外の材質というのは?」高見沢が質した。
「石英や方解石などの透過性の高い素材が必要になります。左の写真は、石英レンズで撮られたものです」
千葉はそこで、「実は」とつぶやくように言って後をつづけた。
「人間の視細胞である錐体には、紫外線の一部を、わずかながら感知できる機能がある、という最近の研究結果があります」
「紫外線を感知できる?」茂木の問いだった。
「はい。錐体には三種類あり、それぞれに色の三原色を感知する役割をもっています」
「RGB?」
高見沢が投げかけたことばに、千葉が相槌をうった。
「その内のB、青い光を受光する錐体は、今までの想定よりその可視領域が広かったことを、研究結果は示していることになります」
千葉の解説に、茂木が確認の言葉を向けた。
「つまり、紫外線に反応できる可視領域を予め想定して、紫外線に反応する画像を作り、紫外線を当てるならば、他人には見えない像を見られるというわけだ」
「はい。問い合わせにありました、視覚的サブリミナルの可能性については、今指摘しました方法に則って企図されるならば、可能性はあるという結論に至ります」
千葉は赤い眼鏡の柄に右手を添えて、資料にある『事項① 視覚的サブリミナルの可能性』についての結論を語った。そして、「もう一つの事項にあります、音についてですが」と言って『事項② 聴覚的サブリミナルの可能性』に目を移した。
「結論から言えば、このことについても、サブリミナルの可能性はあるものと結論づけられます」
千葉は、持参したトートバッグから、銀色の四角いスピーカーを取り出し、テーブルの上に置いた。そして作業服のポケットに手をしのばせ、スマホを取り出すと画面をタップした。
「お判りでしょうか?」
テーブルの奥にすわる一行は、置かれたスピーカーから音が流れ出てくるものと思って聞き耳をたてた。しかし、流れてこない。ふと中央に座る茂木の顔だけが、何かを感づいた顔付きになった。左隣にすわる高見沢が、茂木の行為を不審がる顔で、「何か聞こえるのか?」と問いただした。茂木は「聞こえる」とつぶやいて、肯定の相槌を小さく繰り返した。
「聞こえているのは俺だけなのか」
独り言ちた茂木だった。スピーカーを手に戻した千葉真理が口をひらいた。
「これは、HSS、ハイパー・ソニック・サウンドと呼ばれる超音波を用いた音響装置です。超指向性を特徴とした装置で、従来からあるスピーカーとは全く異なる原理によって発音させるシステムになります」
千葉は、手にあるスピーカーを高見沢に向けた。
その特殊な音を耳にした高見沢は「なるほど」とつぶやいた。
「超音波は、可聴域を超えて高い振動数を発生するため、本来は耳に聞こえません。しかしその伝播波を、光線のようにすぼめることによって、耳に到達する時点での音圧を、極限まで低くすることができるのです」
「音圧?」高見沢がオウム返しつぶやいた。
「はい。人間が聞き取れる音というのは、周波数と音圧とに関係してきます。そして二つは反比例の関係にあります」
「周波数が低くければ音圧を高くし、周波数が高ければ音圧を低くすれば耳に聞こえる?」ふたたび高見沢がつぶやいた。
「はい。ですからバリトンのように低い音は、音圧を高くしなければ聞こえません。低い音が周囲をひびかせるのは、耳に聞こえやすくするために、敢えて音圧を引き上げているからです。重低音という名の理由です」
解説を聞いている皆が、得心の表情を浮かべた。
千葉が解説をつづけた。
「一方、先ほども指摘させていただいたように、周波数の高い音、可聴域を超えて高い周波数を耳に聞こえるようにするためには、音圧を極限まで引き下げる必要があります。その極限技術が、このHSSには、搭載されています」
「その技術を、サブリミナルに利用するには?」
茂木の問いだった。千葉は大きく頷いて応えた。
「はい。この極限技術は、しかし冷却装置等のヒートシンクなど重く複雑な装置を必要としません。極めて高いエネルギー効率を誇っているからです。そのことを利用するならば、ユビキタス・ネットワークの構築が可能になるはずです」
「ユビキタス?」
「はい。あらゆる場所に、まるで豆を撒くようにして、偏在化させることを言います」
「それが実現した場合、我々の生活や社会に、どのような影響を及ぼすことになるのだろうか?」
茂木が独り言のように、推量のことばをつぶやいた。千葉が応えた。
「……超音波を利用したHSSには、ヒトの生理・身体活動或いは脳内活動に影響をおよぼすことが学説として示されています。たとえば、闇の中を衝突することなく飛び交う蝙蝠。或いは、見通しの悪い海中を、猛スピードで泳ぎ回ることのできるイルカたちのように、視界を失ったような世界の中にあっても、自らの身体を、自由自在に動かすことが可能になる生活が、実現するかもしれません」
事項①、②、共に、サブリミナルの可能性がある、と結論づけた千葉だった。
畢竟、村上進は、人込みの中にあってもピンポイントで、狙った標的を狙い撃ちできる超指向性を持ったHSS、ハイパー・ソニック・サウンドと、そして、RGBに続く、「四番目の原色」とも指摘される、不可視光線、ウルトラバイオレット――発生装置を利用して、人間コントロールを実現させる、超常的ペルソナ・システム、アルバートの構築を果たしたのだった。
しかし大きな問題は、そうして構築されたアルバートが、「自律的」に暴走をはじめたことだった。その暴走を、開発者である村上よりも早くに察知したのが、鬼川秀一だった。
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