18 ペルソナ|PPとPQ

 定例理事会は、幹事企業であるパステルハウス本社の一角、アラハバキ企業組合事務局にある応接室で、安東理事長、二階他一名の専務理事、そしてその他五名の理事が参集して執り行われていた。

 四つあった審議事項、期末決算報告、事務局職員人事、そしてリモート対策改訂要綱の三つを終え、最後の事項に入っていた。議題は、「マジカル・ドットコム日本支社、特定組合員加入承諾について」だった。

 司会役の安東静香が発した、「審議をお願いします」の声にうながされて、最初に手をあげたのが、総務担当専務理事を兼務する大泉商事代表取締役会長、大泉敬一だった。

「申請のありました当該社について、興信録取得の依頼をしていたところです。先ずは事務局より、調査結果を報告させていただきます」

 大泉のことばを受けて、マイクを手にとった事務局員の総務担当が口をひらいた。

「資料4をご覧ください」

 資料をめくる音が、応接室内を一斉に立ち上る。

「マジカル・ドットコム社の本体は、皆さまご存じの通り、ネット通販を基幹とした情報産業開発企業です。現在は、デジタルマーケティングを利用した、独自のソリューション開発に基幹事業をシフト中です。売り上げは至極好調で――」

 マジカル社の興信録の報告が終わり、大泉は、事務員から戻されたマイクを口元にむけて言った。

「報告にありましたように、マジカル社本体、そして日本法人共々、とくに大きな問題はないものと評価しております。本件について、当方としてはとくに異論ございません」

 応接室のテーブルを囲む理事たちから、「異議なし」との声が次々に発せられた。二階は黙考していた。

 アルバート開発の裏にある疑惑は晴れてはいない。とはいうものの、その存在は、安東が指摘するまでもなく、これまでのマーケティングのあり方を、大きく変革させる可能性を秘めていた。それは間違いないことだった。今現在、開発が不調だからといって、それを今切り捨てることは、大きな可能性を捨て去ることと同じだった。そして「危険を承知で、可能性を信じる」――二階がそう結論したのは、事業に対する安東のポリシーを改めて聞かされたからだった。故人である社会心理学者、鬼川秀一との関係を打ち明けられたのはその直後だった。

 「アラハバキ経済システム」の理論的創始者であり「社会史健忘症」の学説を立てた、元武蔵野経済大学客員教授、社会心理学者だった故鬼川秀一は、安東静香の実の子だった。そのことを二階に打ち明けさせたのは、鬼川が遺していた「星屑」だった。安東はその実物を二階に差し向けながら語りはじめた。

「鬼川の死の理由は、今もって不明なのよ。でもね、明らかなことがある」

 それが何であるのか、二階は聞き漏らしてはならぬと聞き耳をたてた。明らかなこととは、自らの死を予感していたことだった。鬼川の研究室に遺されていた星屑とは、予感を伝えるための辞世の品だった。星屑とは、「黒曜石」だった。鉄が伝わる以前、古代において、それは経済システムの基盤だった。その基盤は、その後、銅となり、鉄になり、そして化石燃料へと変遷していった。その後に「情報」へと移り変わった経済基盤は、さらに進化を果たし、情報を「第三の産物」という生き物に変えた。経済システムの進化のすがただった。しかし考えなければならないこととは、進化の裏側にある退化のことだった。人間が、進化の過程のその裏で、鋭敏なる五感を退化させていったように、経済システムが進化してゆく中で、退化していったものたちがあった。黒曜石――その存在が、アラハバキ経済システムを完成させるために、なくてはならないものだというのは、経済システムが進化していった裏側で、失っていった無限の時間を、それら星屑たちが貯蔵していたことだった。星は時間なのだ。それを記憶してきた存在が星屑だった。黒曜石だった。アラハバキにとって、なくてはならない理由とは、それこそが、アラハバキを動かす「化石」燃料だからだった。

「鬼川はね、合理性を嫌っていたわ。アルバートが嫌いだった。でもね、その一方で、それらは、進化の過程にある必然なんだと、存在を認めていたのよ。つまり彼が達成したかったこととは、アルバートとアラハバキとの共生だった」

 謎が解けた気がした。疑惑が晴れた。安東静香が、不調であるアルバートを敢えて迎え入れようとする理由が明らかとなった。アルバートを招き入れること、それは実の子である鬼川秀一が、敢然と伝えたかった遺志だった。


 ――アラハバキの事務局応接室。燻っていた疑惑が晴れていた二階は、挑む目で安東をみつめていた。

「二階さん。議案に異論は?」

 決意を込めた声色だった。

「異議ありません」

「それではマジカル社の特定組合員資格取得について了承することといたします。ご審議ありがとうございました」

 直後に手をあげたのが大泉だった。

「突然のことで恐縮ですが、ここでご審議いただきたい議案がございますので、慎んで発議させていただきます」

 応接室にいる者たちの視線が一斉に大泉にむけられた。

「無事、マジカル社日本法人の特定組合員加入が了承されたところですが、そのことに関連して、同社代表取締役であられる黒森健氏を、アラハバキ企業組合理事長に、そしてもうおひと方、パステルハウスの新田真司氏を新理事とする人事を上げさせていただきます。ご審議のほど、お願い申し上げます」

 二階の表情が止まった。

 応接室全体が水を打ったように静まり返った。

「発議の理由を述べてください」

 冷静な声色を返した安東だった。しかし、その瞳はぎらり銀色に輝いていた。自らの喉元に突きつけられた剣先でひかる鈍色を、照り返しているかのような輝きだった。

 大泉は、太り獅子のからだをのけぞらせて、ゆったりとした口調で語りはじめた。

「ご存知かどうか。マジカル社の関係者、関連会社が取得しているアラハバキ企業組合の株式は、法人個人合算で、すでに五十パーセントを越えているところです。今後の組合運営を考えたならば、アラハバキにおける影響力を無視することは、組合発展を阻害するとされ、むしろ逆に大きな問題になります。この際、理事会を刷新したい、そういうことです」

 大泉は、それまでの慇懃無礼な口調を一転させて、おおぎょうな声色で発議の理由を語った。

「異議なし」

 声が発せられた方向に二階が目をふった。都内を中心として数多くのグループホームを経営する社会福祉法人、『土筆倶楽部』代表、本田実だった。二階はふいに思った。裏工作の存在だった。そしてその思いをすぐに振り払った。存在を否定したからではなかった。存在を確信したからだった。すでに工作が執り行われていた。でなければ、この場面で大泉が発議するわけがなかった。

 数を数えた。議案賛成者の数だった。応接室にいる理事らは理事長以外で七名。定款で決められている理事長改選に必要な賛成者数は過半数以上、だから四名の賛成があれば議案が通る。今議案賛成のこえをあげた者を含め、後二名。二階は無言になって目を閉じた。耳を澄ませた。「異議あり」の声は聞こえてこない。「他に、賛同者は?」質す安東のこえが聞こえて目をあけた。後二名の者の手があがっていた。すべて憶測通りだった。


「この季節、カエルも冬ごもりなんだろうか」

 独り言ちたのは、ウシガエルの鳴き声が聞こえてこないからだった。黒森健は、曇ったガラスを手で拭って、丸くひらいた視界から眼下を見下ろしていた。目にひろがっていたのは人工池だった。後方を振り返った。視線の先には、応接テーブルでコーヒーを啜る村上進がいた。

「でもたまに暖かい日、間違って出てきて鳴き出すやつもいるんだよ。今日のような日などに。でも大抵、そういう発達障害は、動けなくなって最後には凍死する」

 冷酷なことばを返した村上は、またカップに口を近づけた。テーブルに歩み寄った黒森は、村上の正面に腰をおろした。出されてあったコーヒーに手をのばす。目を細くして一口すすった黒森は、「例の件」と言って目をあげた。アルバートのことだった。聞き出したいのは、それを追いかけ始めた捜査当局のことだった。

 応えをためらう村上に、焦れた黒森が音を立ててカップをソーサーに戻した。

「村上さん、あんたのリスク管理におおきな問題があるんじゃないのかい?」

 鬼川秀一の事件再捜査のため。所轄の刑事が村上の研究室を再訪してきたのは一昨日前のことだった。再捜査をはじめた理由は、鬼川の死の直前を共にしていた大沼めぐみの供述だった。忽然と所轄にあらわれた彼女は、自身が鬼川をベランダから突き落としたのかもしれないと、自らの犯行を疑う供述をしたのだ。彼女が語った「意識が白濁していた中、何者かに操られていた」という状況が、長澤ゆかりの元パパ斬殺事件と酷似していた。

「責任をすり替えるのは止めてくれ」

 言ったのは村上の方だった。

「そもそも、適切な施術を実施してこなかった、あなたが管理していたセラピスト側の方にこそ問題があったんだ」

「何を今さら」黒森がさらにつづけた。

「エンパシー型が不安定になるだろうことははじめから予測できていた。そのためのデバッグ機能が、リズムヴィレッジという試験場だった。村上さん、あの施設はあなたの提案で開設したものじゃないか」

 顧客発掘から顧客育成へと、目的を進化させてきたマーケティング・オートメーションは、最新型アルバートを迎え、いよいよ、顧客操作へと、未知の領域へ差し掛かってきていた。様々提案されていた、そのアルゴリズムの中で、マジカル・ドットコム日本法人代表、黒森健が白羽の矢を立てたAIが、村上進とシステム・パートナーズ社とが共同で開発をすすめていた「エンパシー型」だった。

 それは、収集採取した膨大な顧客情報によって成形したペルソナに、ナビゲータ役のもう一体を寄り添わせ、二体を対話させることを特色とするAIだった。そのことによって、標的とした顧客を、商品へと誘導し易くさせるのだ。

 しかし一方で、「エンパシー型」による顧客操作は、二体の会話を基にするために、ダブルバインドの危険性をはらんでいた。その予防策をみつけだすため、エンパシー型を試運転する必要があった。リズムヴィレッジとは、そのためのテスト場であり、そこに通う人々は、テストカーだった。

 エンパシー型は、二体のペルソナによって構成されていた。

 五感と感情との管理を役割とするPPと、行動属性をコントロールする役割のPQの二体だった。その内のPPを形づくっている理論が、抹消説だった。悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しい、という箴言で知られるその学説は、生体反応や、視覚、聴覚などの感覚器官等、生体の末端・抹消が受ける刺激によって、感情が生起されるという理論だった。つまりPPとは、五感を操作し、感情を動かす役割のペルソナだった。そして後者PQは、動物の行動は、「威嚇と服従との二つ」であることを提唱したダーウィンの身体表現を受け継ぐ、ラバン身体動作表現理論、行動は「戦闘と陶酔との二極構造」であるとする理論だった。つまりPQとは、PPから受け継いだ「感情属性」を「行動属性」へと置き換える役割のペルソナだった。

 この合体理論が独自的であるのは、そのことによって、PPとPQとが、「感情」を介して、五感と行動とが、スムーズに紐づけられることだった。

 しかし村上は、当初から、この合体アルゴリズムの中で、PPからPQへの接続を懸念していた。感情情報を行動情報へと変換することを続けていると、経年変化が生じ、顧客本人に心理的弊害を及ぼすことを懸念していたのだ。その狂いを調節するために、楽器の調律に似たメンテナンスの必要性を、村上は感じていた。

 そして、その調律方法をさぐるため、マジカル・ドットコムの黒森が自分の研究に白羽を立ててきたタイミングを利用して、心理ケア施設の名のもとに、リズムヴィレッジを設立したのだった。

 そしてサイコセラピーの名に隠れて、様々なセッションを介し、「調律」としての最適値は何なのかを探りはじめた。長澤ゆかりが引き起こした「事故」は、その最中に生じたのだった。

 村上と黒森との二人の対立は、PPとPQとの接続時に予想される不調を、調律するための手段を探る過程で生じたものとする村上と、エンパシー型の基幹にあるアルゴリズムに、そもそもの欠陥があるとする黒森との撞着だった、しかし問題の本質は、それとはまったく異なるところで不気味に蠢いていた。そのことに最初に感づいたのが、村上と共同開発をおこなっていた、システム・パートナーズ社の開発担当責任者、自殺した三浦良知だった。

 ――――

 アルバートが映し出していたPQが、突如としてうなり声をあげたのは、深夜の二時過ぎだった。終わりのないようなデバック作業中だった。心身を疲弊させていた三浦は、朦朧となって、ユースケースに目を這わせていた。ふとポチポチと耳元で音が鳴った。何事かと目をあげた。キラキラと視界を色が瞬いた。突如、テキストエディタの黒い画面を埋め尽くす、白い文字列が弾き飛んだ。PQが眼前にあらわれたのは、直後だった。PQは、アルゴリズムにある戦闘意識を全身に顕して三浦に憑依した。そして、三浦を、上体を屈めた姿勢にさせ、「ぎゃっ、ぎゃっ」と不気味な咆哮を轟かせた。三浦は前屈の姿勢で室内を徘徊しはじめた。黒々とひかる二つの瞳は、獲物を探しだそうとする猛禽類のようで、ひくひくと震わせる五体の筋肉は、それぞれに独立した生き物のようだった。

 三浦を操作しはじめたPQは、動きを一旦静止させ、五体それぞれの部位を、性能を試すかのように、とりとめなくバラバラに動かしはじめた。真上に向けられていた頭部は、不気味に捻れて真横や真後ろに動きだし、蛇のようにゆったりうごめいていた両手は、突然に肩を基点にしてブンブンと大きく回転をはじめた。交互に足踏みをしていた両足は、左右バラバラになって、回し蹴り、膝蹴りのポーズをあらわした。三浦を統率していた身体のゲシュタルトは、完全に崩壊していた。

 しかし憑依されながらも、PQの暴走を察した三浦は、机にしがみつこうと、憑依されて震えだした全身に力を込めた。意思の力は、顔面を真っ赤に紅潮させ、脳内で発火したシナプスが、両眼を赤く染め上げた。

「やめてくれ!」

 制御を失った自らの五体にむけられた絶叫だった。全身のうごめきが止まった。しかし直後、今度はPPが襲いかかってきた。

 五感に飛び込んできたPPは、赤く充血した目の中の黒目を、きょろきょろ蠢かせはじめた。口元から大量の唾液がながれでてきた。静止した全身に、紫色の発疹が無数に沸き上がってきた。三浦は視界を失っていた。暗闇のなかに佇む感覚だった。気づけば聴覚も失っていた。なにも聞こえなかった。漆黒の中の無音の世界。感じられるのは、噛み締めた奥歯の感覚だけだった。しかしその感覚も次第に薄れていった。声も出ない。五感すべてを失った三浦は、感情も機能させていなかった。だから恐怖もなかった。浮遊物? そう感覚した直後、三浦は全身をかきむしりはじめた。えもいわれぬ感情が沸き上がってきたのだ。興奮が忽然と狂喜に、喜びが忽然と憎悪に、感情がルーレットのように回りはじめた。

 自身の中で、混沌として暴れだした想いを、身体に顕してはいけない。そう直感した三浦は、果敢に目を閉じ、両手で両耳をふさいだ。PPを防御する行為だった。しかしPPは、それを嘲笑うかのように、五感に向けて様々な刺激を与え続けた。情報爆発。もう限界だった。三浦は唯一残された感覚に任せ、奥歯に舌をのせ、渾身の力を込めて噛み切った。

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