12 社会心理学講義

「鬼川秀一著。アラハバキの社会心理学講義、第十講――人間非人情。一部改変。……人と人とのあいだに行き交っていた信頼や共感やシンパシー。さらには社会的な道徳観や正義感というものは、古代より綿々と受け継がれてきたはずの人が人であるべき、捨て難いなによりも尊いもののはずでした。

 しかしそれが、いつからか、合理性、効率性という名の下、権利と義務とを明確にした契約的社会制度や、需要と供給という双極システムであるところの市場経済における効率的交換制度が、徐々に支配的になってゆき、人間本来の特質を見えにくくさせてきたのです。そのことを、アラハバキは気づかせてくれるでしょう」

 そこでいったん朗読を止めた安東静香は、演壇の上に置かれてあったミネラルウォーターのボトルを手にとり、キャップをひねった。そして喉をごくりと鳴らして一口飲み込んだあと、

「ホッ、ホッ」と二度息を小さく吐いてからふたたびタブレットに目を落とした。

「……人間社会における交換制度は、戦争や略奪をのぞくならば、契約と市場、そして互酬という三つに大別できます。そのうちの契約制度が何かといえば、権利と義務とを甲乙に定め、公正な交換を保障することであり、市場はといえば、需要と供給とのバランスに則って、それぞれをマーケットと呼ばれるところのブラックボックスの中で交換するシステムのことである。

 このことから、契約も市場も、どちらの交換制度も、効率的かつ合理的なシステムであることが分かるのだ。しかしそこには、人が人であるべき尊い人間性を失わせてしまう構造的課題がひそんでいることに気づくべきなのだ。

 たしかに、契約によって、権利と義務とを明確化するならば、それらの交換時に誤解や争いは減るかもしれない。しかしながらそれらの恩恵が明らかにされたとき、当事者には精神的負い目は生じなくなる。何故ならば、権利を持つ者はその履行を要求できるし、相手は、権利を満足させる義務が生じるからだ。その関係性における重大な問題とは、義務を果たすだけの相手に対して感謝する必要もなければ恩を感じる必要も無くさせることなのだ。何故ならば、権利が行使される瞬間に、互いの関係は相殺され、当事者の付き合いはそこで終了してしまうからである。つまり契約とは、本来あるべき心と心とのつながりを、そこから排除し、モノや商品、情報の交換を可能にする社会装置に他ならない。

 一方、契約と同様、市場制度もまた、人間性を失わせてしまう装置だった。今や、経済活動の主役である市場と呼ばれるブラックボックスには、有形無形問わず、様々な種類の商品が投げ込まれ交換されている。需要と供給とのやじろべいと呼ぶべきそのメカニズムの特徴とは、商品購入時に正当な価格が支払われる限り、商品の手放しを売り手は拒めない。何故ならば、対価を与える限り、買い手は商品を受け取る権利が発生し、売り手はそれを手放す義務を負うからだ。したがって、売り手に対して買い手が感謝する必要は無くて良い。つまり、この双極のメカニズムは、人間性を失わせる装置だと言ってよい」

 再び朗読を止めた安東静香は、マイクから口を離し、ゴホゴホと咳き込んだ。そして小さく「ごめんなさい」と謝罪のことばを発した後、再開させた。

「ここで問題となるのが、市場を行き交う貨幣というものが、モノであることだ。貨幣として使われているモノに価値があるということを、すべての人々が信じていれば、貨幣の交換には人と人との間の信用というものがいらなくてすむ。しかしよく考えてみよう。われわれが普通一般に言うところの信用関係とは、人間と人間とのあいだの信頼、相手にたいする共感や同情、さらには社会的な公正観や正義感というもの、すなわちモノにはない、情念や情動が、必然的に介在するものなのだ。対して、貨幣を介在させた市場という交流の場合、「貨幣」というモノが価値あるのだという意識さえあるならば、人間がべつの人間と直接的に信用関係を結ばなくとも、交換やコミュニケーションを可能にさせる。だからそこでは、人間と人間との関係は直接的なものにならなくなる。情念も感情もその交流には必要がない。モノを媒介とする間接的な関係になるだけなのだ。否、間接的な関係であるからゆえに、逆に、関係の合理化が可能になる。つまり、現在の経済の契約と市場における人間との関係を問うならば、それは非人情の関係に他ならない」

 そこでマイクから口を遠ざけた安東は、息を整えるように肩を上下させ「ここからがアラハバキの本題ですね」と独り言ちた。

「しかしながら、経済をつかさどる三つの交換制度の内、現在はあまり顧みられることのない互酬、すなわち贈る贈られるという習慣は、効率性や合理性によって構築された契約や市場とは、おおきく性質が異なっている。互酬は、合理性をむしろ破る方向を基本としているからだ。贈る贈られるという行為に潜む価値というものは、贈り物そのものの価値でもなければ、交換する行為の価値でもない。互酬による収支決算は、贈り物の価値を差し引きしても出てくるものではない。相手が何をどれだけ必要としているか、贈る側にどれだけの能力や余裕があるかによって贈るべきものが決まってくる。つまり贈り贈られるものそのものの価値は関係ない。われわれが互酬について着目すべきは、贈り物のやりとりから間接的、心理的次元で生まれる「剰余価値」なのだ。その心理的相互作用が生じるとき、信頼が生まれ、人情が生まれてくれる。

 強い信頼関係がなければ、即時の決済が必要とされ、返済を確実に保証する契約を結ばなければならない。また、誤解を避けるために最初から細々とした取り決めをしておく必要も出てくる。しかし信用信頼はそれらの用心をすべて無用にしてくれる。互いを信じれば信じるほど、相互の交換において収支決済は曖昧で良くなる。誤解してはならない。信用がありさえすれば、公平な決済が保証されるというのではない。反対なのだ。収支の均衡が保たれているかどうかはもはや問題ではない。信用とは、収支の不均衡を積極的に受け入れられる状態を言うのだ。その信用・信頼を中心に据えた関係性こそが、アラハバキが目指す経済システムなのだ――」

 安東静香は、持っていたマイクとタブレットとを膝にすると、うなだれた姿勢になった。両肩が小刻みに上下しはじめた。

 むせび泣いているのだ。鬼川の突然の死を受け入れられず、彼女の心が混乱していることはあきらかだった。参加者がざわめきだした。しかし口元を手で覆いながら、「大丈夫よと」と気丈に反応した彼女は「少し落ち着かせて」と言って沸き上がってきた気持ちを放出しようと全身を震わせた。

 暫しのあいだ震えをやり過ごし、気持ちを抑え鎮めた後、白いおかっぱ頭を左右にふって上体を起こした。ふたたびマイクを口元に引き寄せた。タブレットに眼を落とした。

「相手が必要としているから、相手が困っているから、こそ、与える関係、与えること自体が喜びになる関係、それは経済的損失を心理的利益に変換してくれる。お菓子をあげて子供の嬉しそうな表情を見ると、自分の子供でなくても、嬉しくなるのは、それは何故なのか? 権利や義務が完全に履行されてしまうならば、人間の世界に信頼はもういらない。しかしそれは同時に、人が人たることをやめるときだろう。「不条理ゆえに、我信ず」――。言ったのは、キリスト教神学者、テルトィリアヌスだった。当然なのだ。正しさを保証する証拠があるならば、もう信じる必要はない。何故ならば、そうであれば、ただただ、結果に従うだけでよいからだ。つまり、合理的に判断する以上、信じるという飛躍は生じない。契約によって守られ、義務が履行される保証があるならば、そこに信頼はもう要らなくなる。人間とは、そうではないのだ。もしかすると裏切られるかもしれない。損失を被るかもしれない。その可能性を知りながらも、それでも信じ切る。信じるという行為は、とどのつまりは不合理なのだ。アラハバキ経済システムは、それを良しとする経済ネットワークを創造しなければならない。

 ――皆に問おう。はたして、合理的思考、合理性とは何なのか? 

 ――皆に応えよう。合理性とは、揺れる心、そんな心にしたがいながらも、そして、矛盾だらけの社会や歴史、文化という混とんに晒されながらも、それでも生きねばならない人間――。その尊き存在に対する侮辱、それこそが、合理性の正体だった。

 ――アラハバキたる者たちに言いたい。合理性に抗いつづけよ、と」

 朗読が終わり、会場に明かりが戻ってきた。

 しみじみと朗読の意味を感じ入っていた参加者の多くは、セミナーの常連が多いのだろう、内容に同意した顔つきだった。しかし二階恵介だけは違っていた。契約や市場原理にひそむ合理性を、人間への侮辱だと喝破するその内容に、データアナリストの彼は、違和感を感ぜざるを得なかった。自分の身近な生活に立ち返って考えるまでもなく、グローバル・マーケティングの完成形を慕う、コンビニストでもある彼のこと、鬼川の論を全面的に受け入れることはできなかった。しかし一方で、信じるという行為、合理的判断を停止させて信じること――そのことの価値というものには素直に同意できた。そしてその不合理性を良しとする「アラハバキの経済ネットワーク」というものに興味をいだいた。それが二階の今直面している課題、「メドゥーサ」を打ち砕いてくれるのではないかと期待したからだった。そんな心持ちを感想として形作ろうとしたとき、ふたたび安東静香の声が耳に入ってきた。

「鬼川さんは、わたしたちをここまで力強く導いてくれた恩人でした。そんな彼の死を、私はいまだに受け入れることはできません。しかし、彼の論が含有しているように、死という裏切りは、赦さなくてはいけない」

 そこでプロジェクタの灯りが、室内を舞う塵を白く浮き上がらせながら前方のスクリーンにむけて照射された。映し出されたのは、アラハバキのロゴマークと遮光器土偶を象ったシンボルマークだった。

「私は決意しました。鬼川さんが主張されるアラハバキの経済ネットワークを構築してゆく作業を本格的に開始することを」

 しわがれた声色ながらも決意のにじみ出たことばだった。

 会場がまたざわめきだした。アラハバキ経済プロジェクト計画の稼働を宣言したことに対する反応に違いなかった。会場のあちこちから口笛が飛んだ。「アラハバキ経済システム」――それは、今を支配する資本主義経済にはない、新しい指標なのだろう。それを支持する口笛に違いなかった。安東静香の所信表明がつづいていた。

「……暗黒の時代はもうまもなくして我々を飲み込むことになるでしょう。大きな脅威が、今訪れようとしているそのことを、真正面から受け入れなければならないのです。そのためには、今までにあったものを敢えて消し去ることをしなければならない」

 鬼川秀一の学説「社会史健忘症」は、環境変化の速度と人々の体内時計とは、ホメオスタシス・モデルに似た、負の相関関係にあるとする予測でもあった。

 二階にとって、その予測が、あながち的外れではないと思えたのは、社会全体に蔓延しはじめ、観測されはじめているその「ホメオスタシス・モデル」の一つに、「メドゥーサの魔力」があるのではないかと、感じていたからだった。

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