11 安東静香とアラハバキ

 黒い封筒を手にした二階恵介は、二つ折りのパンフレットを取り出し見ひらいた。会場へのアクセスを確認して、眼前に建つビルを見上げた。会場は池袋西口公園の向かいに建つビルの中にあった。エントランスホールに足を踏み入れる。目的階をビル案内で確認してエレベータホールへと足をすすめる。きたエレベータに乗り込む。到着音がなってドアがひらいた。面前に立っていたのは黒色のスーツを身をまとった男だった。

「招待状を確認させていただきます」

 黒い封筒を差し向けた。招待状を兼ねた封筒だった。誘われた通路右手奥へと足をすすめる。セミナー名が立てかけられた会場入り口には暗幕が垂れ下がっていた。それを左右に割って中を覗き込んだ。薄暗い会場にはすでに聴講者が着席していた。会場を確認した二階は、暗幕から身を引き戻し、通路突き当たりの窓辺に向かった。スマホのメールを確認しながら窓辺に立った。眼下を覗きこんだ。建ち並ぶビルの蝟集を丸く切りひらくようにして、真新しい野外劇場グローバルリングがあった。池袋西口公園、というよりもストリートギャング系ドラマ「池袋ウエストゲートパーク」の舞台として有名を馳せた公園入口付近に、新設された野外劇場だった。

 ――お集まりの皆様にお知らせがございます。本日の第二プログラム「アラハバキの社会心理学講義」の演者は、都合によりパステルハウス主宰、安東静香に変更させていただくことになりました。予めご了承くださいますよう、お願い申し上げます。

 ふいのアナウンスに、二階がパンフに目を落とす。第一プログラムにつづく第二プログラムの演者は、武蔵野経済大学客員教授鬼川秀一とあった。この手のセミナーでは、事情があっての演者代役はままあること。その場合、代役の名声や戒名が重要になってくる。無名に近い鬼川に代わって、かつてラジオパーソナリティとして有名を馳せた人物が代役となるアナウンスは、聴講者にとって、むしろ歓迎できる話だった。

 ――――

「逃げないで見てください」

 第一プログラム、「暗黒の時代に備えての心構え」冒頭のことばだった。プロジェクタ画面に映し出されていたのは『右/1990年』と『左/2025年』のキャプションが付けられた二つの人口ピラミッドのチャートだった。

「今から二十七年まえのことです」

 セミナーの専属インストラクターは、右のチャートを赤いポインターでまるく囲った後、「こちらが今より三年後」と告げてから、ポインターを左のピラミッドに合わせると、二度、三度、大きく上下に揺らした。

両者のチャートはそれぞれに、前後期高齢者人口、労働者人口、そして未成年者人口の三つの層に色分けされてあった。

「二十七年前、十二パーセントの高齢者を支えていたのが、六割にも及ぶ労働者人口、ここのところで少し飛び出している部分」

 インストラクターは言って、右チャートの中央で、一頭地抜け出た棒グラフをポインターで指し示した。終戦後の昭和二十二年から二十四年のあいだに生まれた、所謂「団塊の世代」だった。

「当時はまだ四十代の働き盛りで、所得税や住民税もたくさん納めていた人たち。この時代の高齢者たちは子供もまだ多かった。悠々自適の生活を送れていた。しかし2025年になると」

 ポインターが左にふられ、絞った声量がつづいた。

「――団塊の世代は、七十代半ばの後期高齢者になり、元気だった彼らも労働力が望めなくなって年金暮らしとなってしまう。すると人口ピラミッドは、高齢者人口が全人口の三十パーセントにも達することになり、それを五十四パーセントに減った労働者人口が支える構図に変わってしまう」

 そこで正面を向き直ったインストラクターは、腕を組み、右肘を左手で支え、頬杖の姿勢になった。

「2025年が暗黒時代のはじまり、つまりその後に暗黒がつづくという意味は、この団塊の世代を中心とした高齢者たちが、その後の二十年のあいだに全員亡くなったとしても、次の人口ピークである団塊の世代の子供世代たちが、新たな後期高齢者になってしまうからなのです。つまり暗黒時代とは、人口クライシスの波状攻撃のことを言うのです」

 暗黒の話はさらにつづいた。

「厚生労働省によれば、今現在、死亡される人々の七十五パーセントが病院内です。一般には、心電図のモニタに波形がなくなって、家族に看取られるわけですが、2030年にはこれが一般的ではなくなります。何故でしょう?」

投げかけた質問を、すぐまた引き取って、インストラクターがつづけた。

「――病院のベッドが圧倒的に足りなくなるからです。年間四十七万人が死に場所難民になり、自宅介護のまま死に至る。その一方、一般の人々は、普通の病気や怪我程度では入院できなくなる。そうはいっても病院は高齢者で満杯だからです。赤ちゃんが高熱を出しても入院できない。ガンになって入院しても手術ができない。この頃の病院は、爆発的に増える患者に対し、相対的に機材が枯渇するようになってきている」

 そこでインストラクターは、演壇に置かれたミネラルウォーターに手を伸ばして一口喉をうるおした後、「暗黒時代を招く原因は、産業界にもあるのです」と言ってボトルを元の位置にもどした。

「国内産地化問題です。日本では、そのことによってグローバル化がまったくかみ合っていない」

 二階がはたと顔をあげた。梶山商事の一件を思い浮かべたからだった。

「日本の国内産地化の特徴は、素材、原料等の川上側、つまり産元側に明確な役割分担があるところです。その分担は、しかし逆に産元を強固な絆で結び合わせる力となっている。一方で、動脈硬化をひきおこさせる因習はそこから生まれ出てくる。その因習が強固な既得権益を発生させて、それがグローバル経済社会において、大きな障害となってしまう。まさに社会的ジレンマの連鎖がそこに引き起こされている」

聴講者が真剣なまなざしで聞き入っていた。

「その障害は、国内産地化の象徴であるアパレル業界にフォーカスして見れば分かりやす」

 プロジェクタ画面には、世界的ブランドのロゴマークが映し出されていた。

「国内産地化経済に対するグローバル経済。その成功例としてあげられるのが、アパレル業界における、ユニクロをはじめとするGAP、H&M等の所謂ファストファッションブランド。そしてまた、ナイキやアディダスといったスポーツブランドがあります」

 そこでプロジェクタ画面が世界地図に変わった。『サプライチェーン』の文字が見える。

「それらのブランドの成功は、世界各地に展開されているサプライチェーンを利用し、紡績、織布、染色、そして縫製などの工程を、広域かつタイムリーできめ細かな供給システムに換え、流通や陳列サイクルの超高速回転を可能にしたことにあります。それによって、染色問題など技術的な課題解決ができ、色鮮やかなデザインの多品種大量生産が可能になった。そうしたグローバルブランドが放つ煌びやかさは、既得権益に捕らわれている国内産地化製品を、より一層薄暗く見せてしまうのです」

 話はさらにつづいた。

「国内産地化の因習が障害となっている業界は、アパレルに留まりません。日本家電業界の斜陽についても要因の一端は、日本独特の国内産地化、すなわち家電量販システムの影響があるといわれている。そればかりではありません。今はまだ好調を維持している自動車業界においても、いずれこの問題が波及してくると予想されています」

「自動車業界が?」誰からともなく怪訝な声色があがった。

「原因はディーラーと呼ばれる自動車販売会社の存在です。それらの販売会社が、メーカーとは独立した別会社であることはご存知かと思います。しかし今後は、その独立した存在こそが業界にとっての脅威となってきます」

「どういうことでしょう?」参加者からあがった質問に、インストラクターが待っていたとばかりに頷いて、後をつづけた。

「今後にEV、電気自動車がグローバル化されるようになると、顧客がディーラーを介さずネットを通じて直接的にメーカーと取引ができるようになる。そうすれば現行ディーラーのマージン分、大凡二十から三十パーが必要なくなる。しかも購入後のメンテナンスはオンラインで対応できる。全てはネットで繋がるんです。やがては、国内外問わず、現行の自動車メーカーは苦境に立たされることになる。皆、国内産地化、つまりディーラーの存在が足枷になるからです。しかし、その危機が明らかであるのにもかかわらず、産業界において、統一的対策は何ら取られていない」

 二階恵介の脳裏を、あの「ポラロイド社」の文字が、亡霊のように横切った。

 ――――

 最初のプログラムを終え、第二プログラムがはじまるまでの休憩時間だった。一般の経済セミナーであるならば、プロジェクタを投影するために落とされていた照明に灯が入り、明るくなった会場のあちらこちらで参加者同士が名刺を交換する光景が見られるものなのだが、このセミナーは違っていた。照明は薄暗いまま、参加者の交流を敢えて自粛させているような対応だった。その理由は、後に明らかになった。

 第二プログラムの開始アナウンスがはじまると、薄暗かった会場がさらにその照度を下げはじめた。眼を凝らさないと視界が把握できないほどになったところで、演壇の横を黒い人影がゆっくりと横ぎった。人影は演壇よこに立つカウンターチェアのまえでその動きを止めた。

「こんばんは。安部静香です」

 低くしわがれた女の声だった。やや遅れて、白いスポットライトが人影を照らし出した。暗がりにポッとあらわれた人物は、亜麻布のたっぷりとした生成色のワンピースを身に付けていた。胸元に飾られた赤い素焼きのブローチが、スポットの明かりに照らされてきらきらと輝いている。白髪のおかっぱ頭をワンピースの丸首からのぞかせた六十代頃の女だった。裾からは、左膝に組み乗せた、右足に履いた黒い編み紐のサンダルが伸びている。かつてエリザベス・ヒミコの名のラジオパーソナリティで知られた、セミナーを主催するアラハバキ企業組合理事長、安東静香だった。

額を覆う真横一文字に切りそろえられた前髪の真下から、黒い大きな瞳をのぞかせた彼女は、丁寧に両手を添えて持つマイクに向けて口をひらいた。

「本日は、とても悲しいお知らせをしなければなりません」

 そこでいったんマイクを口元から遠ざけた安東は、両頬をまるく膨らませて、「ホッ」と息を吹きかけた。そしてまたゆっくりと語りはじめた。

「一昨日のことです。われわれアラハバキの会員であり、私たちの指南役のお一人、そして本日の講演をお願いしておりました鬼川秀一さんが、お亡くなりになりました」

 一瞬にして会場がざわめきにつつみこまれた。

「本日はお知らせにありましたプログラムを少し変更させていただき、鬼川さんの追悼の意を表し、彼の著作の朗読をさせていただきたいと思います」

 安東静香を照らしていたスポットライトが溶暗し、彼女の全身が、ぼんやりとした黒いシルエットになった。そこでふっと彼女の白い前髪が明るく点った。手にしていたタブレットの画面が点ったのだ。漆黒の会場を、しわがれた声の朗読がしずかに流れはじめた。

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