10 鬼川の不審死

 ベッドに横たわり漆黒の宙に眼をただよわせていた鬼川の脳裏に浮かび上がっているのは、村上のヒステリックな笑い声ではなく、直前に刑事に打ち明けられた、社会史健忘症が疑われる女が引き起こした事件の方だった。

 その女が、リズムヴィレッジ会員、長澤ゆかりであったことを突き止めたのは、リズムヴィレッジが、村上らが主導する最新型アルバートの「実験場」であったのと同様に、鬼川にとっての研究フィールドでもあったからなのだ。

 鬼川が懸念する社会史健忘症の大元の原因を、電子的感染症が引き起こす「サイバーシャドウ」だと疑う彼は、数ある発生源の中にあって、最も重大な存在としてアルバートに目をつけていた。そしてその最新型の実験場を嗅ぎつけた彼は、彼女ら「感染者」たちに近づき、サイバーシャドウを観察しつづけてきた。

 そして図らずも、刑事の口から、懸念されていた事態を打ち明けられたのだ。鬼川は一過性健忘状態の長澤ゆかりが、元パパを斬殺した事件の背後にアルバートが関与していたことを確信した。それを確信させたのは、彼女が携帯していたスマホを、物証として、刑事から見せられていたからだった。それは、大沼が所持していたものと同じものだった。

 試用サービスの一環であることを名目にして、村上進から彼女らに貸与されたそのスマホは――詳細は明らかではないが――アルバートをつかさどる、システムの一個に違いないはずなのだ。そして、そうして標的に近づくことのできたアルバートは、彼女らの無意識下で、コントロールできる存在へと「育成」していたに違いないのだ。長澤が引き起こした事件とは、その結果の出来事だった。鬼川はそう確信していた。

 ――鬼川秀一は、漆黒の宙に眼をただよわせていた。

「先生、まだ起きてるの?」

 背後を大沼めぐみの声が立ち上った。直後に、サイドボードに立つスタンドに明りが点った。鬼川は宙にあった眼を彼女に寄せた。

「君は、村上に何故、あのようなメールを送り付けた?」

「迷惑だったでしょうか?」

「私のところに怒鳴り込んできたよ。凄い剣幕で」

「……だって、担当教員ですから、言っておかないと」

「恋人でもあったはずだ」

 鬼川の言葉に大沼の表情が停止した。

「それは違います。恋人とは違います」

「付き合っていたはずだろ」

「ええ」大沼は素直になって肯定した後、「先生のとは違うんです」とつづけた。

「私?」

「はい」

「ということは、私は君の恋人だというわけか。興味深いね。恋人と、そうでないとの違いは何なんだ?」

「先生とは、隷属された感じがあります」

「……?」

「支配されている感じです」

 深夜の部屋を、二人の会話が小さな火影のようにゆれている。

「村上も教員だ。しかも君の担当教員――。隷属感はもっと強いはずだろ」

「私のいう支配って、そういう枠にはまったようなものとは違うんです。今までに感じたことがない感覚です。束縛されているようで、一方で安定した感じもします」

 大沼の話に、鬼川は「もしや」と直感した。彼女が今感じている支配されているという感覚――、それは、外界に開こうとする人間が、その一方で、自己を閉じるための装置を身に付けたことの証に違いない。つまり彼女は今、外へ出るための防御服を身に付けたのだ。そのことは逆に言えば、今までずっと、閉鎖されていた回路の中に棲んでいた彼女が、外側へと一歩を踏み出そうとしている証でもある。そう直感した鬼川は、踏み出そうとしている彼女の背を押そうとことばをつづけた。

「人々には無限の個性があり、人類には様々な文化がある。その役割って何だか分かるか?」

「さぁ。考えたことありません」

「外へ向かって出てゆくための、防御服だよ。外との交流には、順応性ばかりでなく、一方で恒常性、つまりホメオスタシスが必要になってくる。外界の魑魅魍魎に埋もれないためにね」

「個性とか文化って、そのためにあると?」

「君が今感じている支配は、その個性や文化を創り出すための吸引力だ。しかし人の世の歴史は、自由の名の下に多くの良性の支配をもくだき、たくさんの文化を失わせてきた。しかし自由とは何かを真剣に考える必要がある。何だと思う?」

 大沼は首を横に振った。

「未来だよ」

 灯が点ったような顔の大沼は、

「……その未来のために、何が必要なのでしょうか?」と問いかけてきた。

「悩むことさ」

「悩むこと?」

「予測不可能であることを受け入れることだ」

「それが自由だと?」

「そうさ。未来がすべて合理的に予測できてしまうのなら、時間は必要ない。そうなれば未来も必要がなくなる。予測できないからこそ、未来がある。時間が動く」

「それ、名言です」

「今の世の中、あまりにも合理的過ぎる。そして未来を拙速に追いすぎる。自由を勘違いしているからだ。だから時間がどんどんと摩滅してゆく」

「社会史健忘症ですね」

 大沼めぐみは、愛おしむかのような声色でそのことばを発した。そしてまた眠りに入った。寝顔は逆に、覚醒したかのような爽やかな表情だった。鬼川はほほえんで。彼女の額に手をあてて、そっとみずからの唇を寄せてみた。

 ――未明のことだった。

 大沼めぐみを目覚めさせたのは、赤色の明かりだった。薄暗がりの部屋の中を赤い光が明滅していたのだ。発光の源が、窓の外であることに気づいた大沼は、隣に寝ているはずの鬼川の姿がないことに気づいた。しかしすぐ、昨晩に「早朝に出る」と言っていたことを思い出し、姿のないことの不審を拭い去った。そして赤色の発光源を確認しようとベッドから起き上がった。窓辺に歩み寄る。レースのカーテンを引き開けて眼下に視線を伸ばした。救急車両が見えた。「なんなの?」つぶやいた大沼は、サッシの窓を開けてベランダに出ると、白い手摺りから身を乗り出しマンションの真下を覗き込んだ。救急隊がせわしく行き来しているのが見えた。騒ぎを透かして、黒いヒトガタが垣間見えた。嫌な予感が大沼の背を駆け上った。

「まさか?」

 つぶやいて後方を振り返る。視線の先はベッドを捉えていた。その後方の壁面には、無いはずの黒いジャケットが、昨夜のままの状態で、吊るされてあった。どきどきと心臓の音が聞こえてきた。水中で聞くような大きな鼓動だった。

「ねぇ。どうしたの。ねぇ、私、どうしちゃったの?」


「一緒にいたことは認めるんだよね?」

 今北巡査部長の問いに、女はうなだれたまま「はい」と小声で応えた。

 部屋の壁面に小さく開いた窓からは、室内を整然と並ぶ作業机の島々が見えている。そのいくつかの島々の上を、PCが並んでいた。いつもの刑事課の光景だった。所在なげに眺めていた茂木刑事は、つまみ上げていた小さなカーテンの端を落とし、覗き込んでいた視界を遮った。ゆっくりと後方を振り返った。個室の中央にあるテーブルの向こう側で、うなだれた姿の大沼めぐみが座っていた。刑事課に隣接する取調室だった。

「……寝ていた?」

「正確な時刻は覚えていません。深夜に一度、声を交わしたとき以外は、ずっと」 力なく語った大沼だった。

「気が付いたら鬼川先生は、姿を消していた」

 証言を繰り返してつぶやいた今北は、茂木に眼をふった。未明に起きた鬼川秀一の投身死亡事件。その原因、動機を探ろうと、直前まで共にしていた大沼めぐみの聴取がおこなわれていた。

「立ち入った話で恐縮なんだが、君と鬼川先生との関係を教えてくれないか?」

 問いに両肩をすくめるようにした大沼は、少し間をおいてから「恋人です」と小さく応えた。それからややあって、決意したかのように背に力を入れ、うなだれていた身体を引き起こした彼女は、

「そのことに何か問題ありますか?」と眼を光らせて問いを返してきた。

 テーブルに片手をついて、大沼の顔を覗き込んでいた今北が背を後方に反らせた。独身の鬼川だった。二人の関係に問題はなかった。しかし恋人であるからこそ顕れ出てくる疑惑もあった。

「二人の間にはどうだったの。何か問題はなかった?」

 単刀直入に問い質した今北に対して、大沼は焦れたように首を二度、三度横にふって、「ありません。何もありません」と応えた。

 そこでテーブルに歩み寄ってきた茂木が質問をむけてきた。

「最近の鬼川先生、何か悩み事とか、気にかけていたようなこと――なかったかなぁ?」

 柔和な声色だった。大沼はしかし、鬼川のことを思い出せないでいた。あまりに突然のことだったため、混乱した心の中の整理ができていなかった。彼女を支配していた男の死は、彼女を、糸の切れた凧のように宙を舞わせていた。しかしそれでも、大沼は必死になって、心の中で空を手でもがいた。拠り所となるのは、死んでもやはり鬼川秀一しかいなかった。彼と出会ったときの大沼は、やさぐれたような存在だった。そうさせたのは、周囲の自分を見る眼たちだった。それらの眼は皆、やさしい光を放っていた。しかしそれが、腫れ物を扱うかのような表向きのやさしさであることを察した大沼は、次第にみずからの中に閉じこもるようになっていった。

 そんな彼女がみずからの閉鎖回路に閉じこもったまま、村上の囲いに入ったのは、研究試料にしたい村上側の一方的な支配力があってのことだった。その囲いの中で、外界に出てみたいという動機など発生する余地などなかった。

 彼女を、外界へと導こうとしてくれたのは鬼川だった。もっとも、彼が自分に近づいてきたことの理由が、村上同様、研究試料であることは、知ったことだった。正直にそのことを告げられた彼女は、納得して契約を交わしたのだ。鬼川の大沼に対する気持ちが変化したのは、大沼が大学教員でもある鬼川に対して、「愛を盾にしている」と冷めた表情で追求してきたときだった。たしかにその直前に、鬼川は大沼に対して「愛」を弄した。そのことを大沼が冷ややかに指摘してきた直後、彼は変わった。長らく諦観に暮れていた人物が、それまでの薄暗さを覆して唯一光るとき、それは仄かにいだいた希望の光に違いなかった。そのとき鬼川は、その希望の光を大沼の眼にみた。やさぐれた大沼の瞳の中にそれまで見たこともなかった美しいかがやきを鬼川は見た。それを見入ったとき、鬼川の心に悟りに似た意識が生じたのだ。鬼川が大沼めぐみにたいして二度目に言った愛は真実だった。そして、大沼もそれを受け入れたのだ。

 空を手でもがく大沼は、懸命になって鬼川秀一について想いをめぐらせていた。彼の死の理由をたぐりよせるため。

 大沼の思わし気な表情がふいに何か思い出した顔に変わった。感づいた今北が視線の先を彼女の口元にむけた。微動した直後、その口元から発せられたことばは、「アルバート」だった。鬼川が事あるごとに口にしていた言葉だった。

「アルバート」おうむ返しにつぶやいた今北がメモにとった。

 懸命に思い出したのだろう、発したとたん、大沼は脱力してうなだれた姿勢になった。

「それは?」

 小声で問いただした茂木に、大沼は、「第三の産物」と応えた。

 合点を得ない今北は、「詳しく説明できるかい」と言って座り直す。重要事項に直面したと直感したのだ。大沼が口をひらいた。

「私たちをコントロールしている存在です。私たちの未来を」

 直後、大沼の口元から「ポチッ」というオノマトペが漏れ聞こえた。言わせたのが、自分たちをコントロールしている存在であることを自覚した後、ややあって、大沼は再び思い出した顔になった。その存在が、鬼川をベランダから突き落とそうとしているところを「見た」ことを思い出したのだ。「サイバーシャドウ」つぶやいた大沼の表情から色が消え失せていた。その無色透明が、焦燥の色へと移り変わってゆく。二人の刑事は、その変化を、ただ呆然と立ち尽くし、見つめる他なかった。

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