8 社会心理学者|鬼川(きかわ)秀一

「問題の特異な点は、周囲の環境変化の速さと人々が感じる体内時計とが負の相関関係、つまり反比例になる点です」

 鬼川秀一の話にメモをとっていた今北刑事は、難しい顔で「変化の速さと反比例?」と訊き返した。

「社会的規模の一種のホメオスタシス・モデルだと考えています」

 鬼川が専門用語で応えたのは、この社会心理学者が得意とする焦らし効果を狙ってのことだった。

 今北が詳細の説明をもとめた。

「……外気温が下がれば皮膚が収縮して体温低下を防ぎ、その逆に外気温が上昇すれば毛穴が拡がり発汗が促進されて体温が下がる。そういった体温調整の例や、生体内における酸アルカリ中和現象で知られる酸性アシドーシスと塩基アルカリ性アルカローシスとの均衡調整機能、もっと単純なところでは、暖房装置におけるサーモスタット等がその典型例で、つまり、向き合う互いが矛盾したような場合、その緊張を緩和させようという緊張緩和モデルで説明できます」

 客員教員の合同研究室の窓から望める人工池からは、モウモウとウシガエルの鳴き声が聞こえていた。都の警察医会から捜査協力の要請を受けた鬼川秀一は、合同研究室に招いた二人の刑事に対し、「社会史健忘症」についての解説を行っていた。それは、昨年末に学会発表された鬼川本人の学説だった。今北が確認の問いを返した。

「つまり、環境変化の速度が速くなればなるほど、先生がおっしゃられるホメオスタシスがはたらき、人々の体内時計が遅延してゆく、そのことが、この奇妙な健忘症性を誘発させる……と?」

 今北の問いに鬼川は小さく頭を振って応えた。

「現在は、互いが相関関係にあることを見出しただけで、環境変化の速さが健忘症を増大させる直接的原因、つまり互いが因果関係にあるとは断定できていません。ただ、ICT・デジタル社会と言われ、急速な変化を強いられている現代社会において、その傾向はいずれ顕在化してゆくものと予想しています」

 長澤ゆかりが元パパ立花巌を殺害した事件について、動機解明の捜査を行っていた茂木、今北両刑事らをはじめとする捜査当局がこの学説に注目したのは、鬼川が言う「ホメオスタシス」が、人々に対して微細な外傷性危害を発生させているのではないかという仮説を立てている点だった。

「論文で指摘されています外傷性について、具体的外因は突き止められているのでしょうか?」

 今北の問いに鬼川はゆっくりと頷いて応えた。

「ショック症状の一つだと見通しています」

「ショック症状といえば、出血やアナフィラキシー、つまり薬物によるもの等、いろいろあると思いますが」様々な殺傷事件をとりあつかう刑事の立場上、そのことを知っていた今北だった。鬼川はこくりと一つ頷いてから、

「一種の感染症に似た現象だと見通しています。ただし、ここでいう感染症というのは、細菌性とは異なります」

「と言いますと?」

 鬼川は面前のテーブルに置かれてあったコーヒーカップを手にとって一口すすった。そしてまた、置かれてあった位置を確かめるようにしてカップをソーサーに戻すと、やや身を後方に反らせて、「電子的なものです」と応えた。

 意外な応えに静まり返った研究室室内は、ホメオスタシス現象が作用したかのように、モウモウと鳴くウシガエルの鳴き声を、一段と大きく響きわたらせた。聞き取りを今北に任せ、人工池を物憂げに眺めていた茂木が、ゆっくりとした動きで鬼川に目をふった。その意外な応えが、困難な事件の謎を晴らしてくれるものと直感したのだ。「電子的感染症」――それが証明されるならば、長澤ゆかりの奇怪な殺人行為が、何者かによって操られていた可能性を引き出させてくれる。

「先生がおっしゃられる電子的感染というのは、電磁波によるものなのでしょうか?」

 質問をむけた茂木の頭の中には、かつてモスクワの米国大使館員にむけて使用されたと疑われている電磁波兵器、モスクワシグナルの名があった。後に電磁波と脳との研究が飛躍的に進化したのは、そのトラブルがきっかけだった。そうした研究テーマの中に、電磁波によるマインドコントロールがあったことは疑いようがなかった。

 鬼川は薄く笑って、

「それに近い話かもしれません」と応えると、背もたれに反らせていた上半身を前屈させて両膝に肘を立て、手のひらを組み合わせた。

「刑事さんは、TMS――経頭蓋磁気刺激法をご存じでしょうか?」茂木が頭を振った。

「電磁石を用いた、神経症状や精神学的疾患の治療に用いられている治療法です。すでに効果もあらわれている」

「たしか、脳梗塞、そしてパーキンソン病の治療に用いられている、ドーパミン不足による運動障害を、電気刺激によって治療する方法が、そのようなものだったはず」

 思いだした顔の今北だった。鬼川は感心した表情で、

「よくご存じですね」と言って返した。

 茂木が何か物思わしげな顔付きに変わった。くだんの事件現場には、大掛かりな装置は見当たらなかった。頭の中で、そのことを再確認する顔付きだった。

「何か?」

 反応に気づいて鬼川が問いかけてきた。聞き取りの目的とは、事件と関わりがあるかもしれない「社会史健忘症」について、詳細を聞き出すことだった。事件そのものについては伏せて置くべきことだった。秘匿事項を悟られたくない茂木は、問いを問いで返してきた。

「もし、そのショック症状を発症させたい場合、電磁波装置は大掛かりなものになるのでしょうか?」

 意図を察した鬼川は、大きく頭をふった。

「私が指摘しているところの電子的感染症は、一人の個体を狙い打ちして発症させるような、局所的なものとは異なります」

「というと?」

 困惑気な顔の茂木に、鬼川もまた問いで返してきた。意外な問いかけだった。

「刑事さんは、デジタルマーケティングが現在どのような状況にあるのかご存じでしょうか?」

「デジタルマーケティング?」聞きなれないことばを耳にして、訝る茂木に、鬼川が応えた。

「ネット広告を利用した様々な販促的施策のことです」

 その基盤技術がアドテクノロジーだった。アクセスユーザーの行動や嗜好を瞬時に解析し、ユーザーの面前に購買期待値の高い商品を表示させる技術で知られたアドテクノロジー。その活動領域は、一般の知られていない間に、そうとう広く深くに行き渡っていた。現在のそれは、AIを利用したマーケティング・オートメーションと呼ばれる顧客マネジメントを発生させ、ホットリードと呼ばれる優良顧客の獲得をも自動化しつつあった。

「アドテクノロジー?」

 鬼川の解説の中に出てきたキーワードを訊き返した茂木だった。

「元来はネット広告に利用されていた様々なネット広告技術の総称でした。しかし今現在、それは広告の領域を超え、世に流通する様々な情報を革新させた立役者とされています。その全体を管理するのが、アドテク第8世代をけん引するDMP、データ・マネジメント・プラットフォーム。そのプラットフォームを動かす人工知能が、デジタルを画期的に進化させたのです」

「画期的というのは?」問い質す口調の茂木だった。

「情報を生き物に変えました。第三の産物に進化させた」

 黒色の眼鏡の柄の奥に覗く鬼川の眼が、鈍く光った。腑に落ちない茂木が、「生き物」の意味をさらに問い質した。

「情報が自律的に動けるようになったのです。その動力源がビット市場だった。DMPを動かす人工知能は、その動力をリアルタイムに行える市場に変えた。ビット市場は、ニーズの発生が感知されたと同時に約定される瞬間的な速さを持った」

 ネット上を行き交う情報たち。その中で発生する需要と供給。その交換場となるのがビット市場だった。マーケティング・オートメーションを基にする、自動操作が可能なビット市場は、DMPを得て、人工知能を得て、それらの交換を自律的に、そして瞬時に約定させることを可能にさせた。その動きが、まるで生き物のように、縦横無尽に見えるところから、鬼川はそれを生き物だと指摘したのだった。

「社会史健忘症を引き起こしている直接的原因、つまり電子的感染症の原因が、生き物になったビット市場だと?」

 問いに肯定も否定もせず、鬼川は「先ほども申し上げましたように、本研究についてはまだ仮説を検証している段階です」と断りを口にしてから席を立つと、研究室の壁面に設えたスチール製のラックに歩みよった。そしてラック中段に収められていたファイルを手前に引き倒して両手にとると、背を返し、またふたたびテーブルに歩み戻り、二人の前に押しすべらせた。背に青い真四角のマークがある厚手のチューブ型ファイルだった。立ち上がって引き寄せた今北が表紙をおもむろに開いた。ファイルを構成する各ページは、厚紙の台紙が積層されたようにあって、それぞれの頁には、プラスチック製の色見本のようなものが複数個、貼付されてあった。

「それは、社会史健忘症が疑われる症状を発症させた女性たちの、直近数カ月間の色覚の変化を示したものです」

 茂木も今北と並びたち、ファイルに眼をそそぎこむ。鬼川が質問を向けてきた。

「分かりますか? 彼女たちの色覚が徐々に変化していることが」

 言われてみるとたしかに、各試料にある色票に対する被験者たちのそれぞれの官能検査結果は、どれもみな、濃から淡の方向へとグラデーションを示すように段々と色味を失わせていた。二人がその変化に感づいたのを見て取って、鬼川が言った。

「彼女たちの色覚、透明化しています」

 怪訝な表情で、ふたたび官能検査結果に眼を落とした茂木に向けて、鬼川がさらにつづけた。

「色は、一般のモノと違って、実体をもっていません」

 茂木と今北は同時に顔をあげ、質問の真意を無言で問いただした。

「……赤いバラは、花や茎、葉っぱという実体という存在があるのに対して、赤色という実体はないんです。色は、光の波長という動きと、人間の視覚神経との相互作用がもたらす現象だからです」「つまり?」テーブルに両手を立てて、ファイルを覗き込む態勢でいた茂木が、説明の、その先をうながすようにテーブルの向こう側に立つ鬼川をじろりと見上げた。

「つまり、強調したいのは、色のように実体なきものを実感させているのは、ヒトの意識だということなんです。赤を赤だ、青空を眺めてそれが青だと実感する。愛を愛だと感じる。実体なきものに対して感じられるそれらすべては人の意識によるものです。そのこころの現象は、合理的理屈だけでは到底説明できない。しかし一方、意識こそが、人間が人間であることを証明する唯一の存在なのです」

 鬼川が、眼鏡の向こう側でひからせる眼光の輝度をあげた。ファイルに眼を落していた今北がつぶやいた。

「その意識を、彼女たちは失いかけている」

「私が懸念しているのは、失いかけている意識の隙を突くようにして、電子的につくられた、異なる意識が入り込む危険性です。その影の意識のことを、私はサイバーシャドウと呼称しています」

「失われてゆく意識と擦り替わり、電子的意識が入りこむ。まるで食虫植物のような話が、実際に有り得るのでしょうか?」

 茂木の問いだった。

「そもそもヒトの意識には、欠けてないものを、あるもののように感じさせる能力があります。たとえるならば、三日月をみて満月を背後に感じられる能力。心理補色などもその例です。その欠落したものを補おうとする互酬能力が、寄生するものの温床となる危険性がある」

 懸念を口にした後、ふと鬼川の表情が薄暗いものに変わった。茂木は見逃さなかった。

「被験者たちのその後は?」

 問いには応えずに鬼川はことさらに腕時計に目をふった。聞き取り調査を終了させたい暗黙の表明行為だと察せられた。茂木は今北に目顔を送った。送られた今北が口をひらいた。

「私どもが担当している事件の被疑者は、そのサイバーシャドウに乗っ取られたのかもしれません」

 秘密にしていたものを打ち明けられた鬼川は、声を低くして、

「それは、どのような事件だったのでしょうか?」と問い返してきた。

「斬殺事件でした」

 今北のことばに鬼川は、黒眼鏡の奥にある黒い大きな瞳を鈍色にひからせた。

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