7 青色のペルソナ

 ハンガーにかけられてあったコットンジャケットを手にした二階に向けて、兵頭が問いかけた。

「今日はどこまでだい?」

「レインボーブリッジまでを予定しています」二階は応えて、手にあるジャケットを背後に投げ上げ、ブルックスブラザーズの白いポロシャツの背に垂らした。

「天気いいんだからお台場まで渡ってこい」

 芝浦からお台場まで全長三・七キロを誇る巨大吊り橋を、兵頭が渡れと言ったのはジョークではなかった。レインボーブリッジは、上層に首都高、下層にゆりかもめの二層構造だった。その下層中央にわたされたゆりかもめの両側南北には、一般臨海道路が敷設されてあり、さらにその外側それぞれに、南北二つの遊歩道、プロムナードが併設されてあった。昼間の時間帯であれば一般でも歩行できるのだ。オフィスから遊歩道までの大凡三キロは、二階のウォーキングコースの一つだった。

「CJMしてきます」

「いつものペルソナに、よろしく伝えておけ」

「了解です」

 今度言った兵頭由紀子のことばは洒落だった。口にしたペルソナとは、実在する人物の名ではなく、心理学的用語とも違っていた。彼女が言ったのは、CJM、カスタマージャーニーマップ上を動かすツールの呼称だった。顧客心理を分析する際の、ツールの一つだった。「メドゥーサの力」の攻略が、考察すべき課題の一つとなっていた二階は、気分転換を兼ねて、その分析作業をおこなおうというのだった。

 エントランスのセキュリティを出た二階は、複数の高層ビル群を繋ぐペデストリアンデッキに歩み出た。周囲をかこむカーテンウォールの照り返りがウッドデッキに光のまだら模様を描いている。二階は、『イレヴン』のロゴが飾られたコンビニに足を踏み入れた。いつも立ち寄る店だった。

 店内奥に設置されたリーチンイン・クーラーに足を進めた二階は、習慣である週次一回のリサーチの目を巡らせた。先週から棚落ちしていたのは、清涼飲料3種、ビール系アルコール飲料2種、その他ノンアル3種だった。入れ替わった新製品に目をうつした。全体が竹のようなボトルに注目した。緑色のシュリンクラベルの光沢が他よりもやけに鈍いからだった。本物の竹のように見えた。クーラーのドアを引き開け手にとった。商品名『バンブーティー』――。一般では困難な印刷術にみえた。ふと「お目が高い」という声が背後をあがった。

 振り返った。長髪をポニーテールに束ね、顎髭を生やした男が立っていた。グレーのリネンのジャケット下に、黒いタンクトップをのぞかせていた。SP局クリエイティブディレクター、菊池重信だった。

「よく気づいてくれました。それ、リヴァーシブル印刷っていう手法。私が開発致しました」

 二階は手にある新製品にふたたび目を落とした。

「ほら、ここのところ、分かる?」

 菊池がボトルを指し示した。

「これ、わざとなのね」

 ボトルを這う菊池の細い指先の先端は、所々掠れた印刷になっていた。一般的にみれば不良品としてラインから弾かれてしまう品質レベルだった。

「……種明かしすると、これ、艶の無い特殊インクをつかった表面印刷なのね。ふつう、裏側なんだけどさ」

 菊池の声色は、低いテナーを響かせているのだが、口調は、体躯に似ないコミカルな韻を含んでいた。別列にある炭酸飲料を手にとった菊池は、二階が手に持つものと比較して見せた。

「自然な感じ、成功してるでしょ?」

 同意を求めることばに二階は「ホントっぽい」と言って頷くと、菊池は満足げな顔を急にふつうにして、

「ところでさ、君、苦戦してるんだって。聞いたよ、梶商の件」と言って、黒い胸倉のまえで腕を組んだ。二階は肯定の相槌をうった。

「おだてて抑え込むような寝技が得意じゃないからねぇ、君たちは。――おっと、分かってますよ。統計を駆使してきっちりとした数値で白か黒かを示そうとするその姿勢。りっぱです。それが君たちの存在理由だもの」

 菊池は二階の反問を先回りして言った。

「でもときにははったりみたいなこと、必要じゃないのかなぁ。嘘を弄するようなこと」

「菊池さんたちのような?」

「あら、意外なお言葉」

 諫めることばに対して、二階は即座に斥けることばを返した。しかし菊池は意外にも、二階の反撃を受け入れることばを返してきた。

「君の指摘の通りかもね。我々クリエイティブは、嘘を如何にして事実らしく見せるかのフェイク作りそのもの」

 二階の手にある緑色のボトルに目を注ぎ込んだ。菊池が所属するクリエイティブ部隊は、デジタル局の存在が社内の中で急伸している現在、「イメージ広告」あるいは「イメージプロモーション」と呼ばれる新たな枠組みに括られていた。それが不明瞭であることを意味する「イメージ」という語で括られるようになったのは、デジタル局のアナリストたちが繰り出す様々な分析結果や提案が精緻を尽くされた明瞭な「数値」であることに対照させるためだった。

「君らは、人間の愛とか憎しみ、果てはロマンまでをも、数値にしてしまうんだろうねぇ」

 菊池が言ったのは比喩や皮肉ではなかった。二階らの操るデジタルマーケティングのツールの中には顧客心理を見通す予測術があった。そして今や、その予測の力は、「効果が無い」という仮説を棄却できることを――すなわち効果があることを――相当の確率で約束させていた。

「もちろん、君らの立場を否定するものではないんだけどさ。でも、世の中全部が明瞭になってしまうことに僕は反対しとく」

 菊池は清々しく言って去っていった。二階は菊池が残していったことばの意味よりも、その清々しさに心を奪われた。そしてそれもフェイクなのだろうか、手の中にあるボトルを眺めながら想った。


 岩崎美恵子(いわさき みえこ)

【生年月日】 一九八三年 三月二十七日 牡羊座

【出身地】 東京都

【職種】 技術系女性研究者

【経歴】 家電研究センターを経て現大学教員(助教)

【趣味&特技】 読書、早朝ランニング

【実績】(主要実績一部抜粋)

    特許取得 電子機器開発関連五件。

    論文ファースト(査読付き)四件。

【性格心理】 冷静沈着。人付き合いは好きではない。


 仮面と訳されるペルソナは、薄く色づいたレイヤーを、重ね着した透明人間に似ている。「レイヤー」とは、マーケティングであるならば、想定した見込み顧客を構成する様々な「属性」に、心理カウンセリングであるならば、患者の内に棲む、様々な「心模様」にたとえられる。今の二階が登場させたいペルソナは、考察をより深く行わせたいための「ナビゲータ」だった。着せたいレイヤーとして、特に重視したいのが、「冷静沈着」「頭脳明晰」「ちょっと冷たい感じ」だった。

 バンブーティーを片手にペデストリアンデッキに出た二階は、階段を下りて、人通りのない一画に足をすすめた。周囲に人影がないことを確認した二階は、立ち止まって、カーテンウォールに映る自分の姿に目を向けた。茶色いコットンジャケットに白いポロシャツ、タータンチェック柄のタイトなパンツに素足に履いたローファー。そんな「レイヤー」によって形作られた自分が見えていた。先ずは、この外観を見え難くさせることが、ペルソナを登場させるための最初の作業だった。見え難くさせる効果的方法とは、目を閉じることではなくて目を細めることだった。二階は目を細めた。次第に、目の前の鏡面化したカーテンウォールに映る風景が、周囲にある現実の風景に溶け込む感覚があらわれてきた。次にしなければならないのは、今立っている自分という意識を、鏡面の中の自分に憑依させることだった。二階は細めていた目をしっかりと閉じた。直後、「こんにちは、岩崎です」ということばが脳裏を立ち上った。

「お久しぶり」

 自分の声は、ペルソナに対して再会の挨拶を告げた。登場させたペルソナとは初対面ではなかった。

「お元気そうで何よりです」

「そちらこそ、お元気そうで」

「今日はどちらまで?」

「レインボーブリッジまで行こうかと」

「ご一緒させてください」

「いつもご協力いただき、ありがとうございます」

二階はペルソナの同意を受けて感謝の意を返した。

「ところで、今日はどのような課題でしょうか?」

「……考察したいのは、メドゥーサです」

「あら、それはまたいつになく難しい課題ですね」

「いつも申し訳ない」

 二階は、ペルソナと共に、ゆりかもめの軌道に沿って、南の方角に歩き始めた。四月下旬の周囲は、ところどころにツツジのピンクがあった。

「――なるほど、変に陽気な、気取りの無さ」

「ええ、大きな変化に直面して、気持ちが恐怖しているのだが、それを他人に見せたくないと無理に平静さを装っている姿」

「はい、分かります。その不安定な感覚。あなたはそれがメドゥーサの力のせいだと分析したのですか?」

「ええ、そう定義すると見えやすくなるかと」

「面白いですね。それで今回は、それをさらに敷衍させてその定義をより汎用性のあるものにしたいと?」

「はい、その通りです。流石に岩崎さん、理解が早い」

「分かりました。少し考えてみましょう」

 頭上にあるゆりかもめの軌道は、前方を大きく右に蛇行していた。キラキラと輝いて見えていた高層ビルたちは、知らぬ間に視界から消え去り、換わって倉庫群が視界を支配していた。明が暗に反転したような光景だった。臨海道路を走る車のほとんどすべてが、大型車だった。「それ……」――しばしの沈黙を突いて出たペルソナのことばは、通過する大型車の爆音にかき消された。

「えっ、今何と?」

 二階の問いにペルソナが繰り返した。

「それって、青色に似てます」

「青色?」

 ことばの意味を理解するよりも早く、色の感覚が脳裏を覆った。

「ええ、青色です。青色って不思議な色なんですよ」

「どういうことでしょう?」

「アンケートを取れば明らかなのですが、人々にとっての青色は好きな色の筆頭にきます。それは全世界の人々に共通することなんです。けれど……」

 考えを整えるかのように間をあけてから、ペルソナがまた口をひらいた。

「食欲をそそる色という設問になると、ずっと下がって最下位になります」

「青色は、食欲を失くす色だと?」

「ええ、考えても見てください。青い食べ物ってどうでしょう? 好きになれますか? 口に入れるものとして」

 二階は頭を振った。

「それって、とても奇妙なことです。人の生命維持になくてはならない食欲を、逆に減退させる色なんですよ。それが好まれることって、実に奇妙でしょ?」

「たしかにそうです」

 二階は点頭を返した。

「でも、その不思議、――つまり好きなのに嫌い、その逆に、嫌いなのに好きっていう、矛と盾との関係って、ストックホルム症候群という症例で説明できることなんです」

 二階は思いだしていた。かつてオランダのストックホルムでおきた銀行強盗事件を。事件が奇妙だったのは、人質とされた人々が、時間が経つにつれて捜査当局に対し非協力的になり、犯人を庇う態度になっていったことだった。その屈折した心理を説明したのが、恐怖を感じるより好きという愉快感情を抱いていることの方が人間の生存上合理的だという心理――ストックホルム症候群だった。

「そもそも古の人々にとっての青色は、稲光や深海、河川の深淵な底の深さを顕す、蛇に似た畏怖すべき色だったんです。しかし本来畏怖すべき色に対して、それを無理にでも好きになることで、生きることを合理的に営むように自らに仕向けた。そんな複雑な心理が人々の遺伝子に残っている」

 ペルソナは直後、「今日はこのへんで」と唐突に別れの挨拶を告げた。二階が顔を上げた。視界いっぱいに広がっていたのはレインボーブリッジだった。問わず語りに思いを巡らせていつの間にか一時間近くが経過していた。オフィスからの距離にして大よそ三キロ。全高一二〇メートルを誇る吊り橋を支える芝浦側のアプローチ部は、巨大な龍がとぐろを巻くような螺旋のたたずまいだった。二階は予定外にプロムナードまで足を伸ばした。

 ノース側とサウス側の二択を、前者に決めた二階は、エレベータに乗り込んだ。

 目的のフロアに到着した。エレベータホールを北側に向かった。暗い通路の突き当りに遊歩道に出るドアがあった。ドアを開くと強い風と共に車道の音が吹き込んできた。遊歩道はむき出しの鉄橋構造に直に併設された施設だった。お台場にむけて進行方向右、車道側に見るべきものはなかった。二階は防落用のクロスネットに覆われた北側に目をひろげた。青一色に染まった東京の街並みがそこにあった。遠方を立ち並ぶ摩天楼のシルエットは美しいスカイラインを描いていた。巨大な青色を発色させる東京は、巨大なコンクリートの色でもあった。その巨大コンクリートを剥がしてみたならば、本来何色だったのだろうか? 雑木林がひろがる緑だっただろう。ローム層が蓄積された茶色の時期もあったかもしれない。所々を河川の水色がゆるやかな円弧を描いていたかもしれなかった。一方、平和と真逆の色に染められた時期もあっただろう。脳裏を、焼き尽くされた街の、黒々とした墨色が浮かんできた。赤々と燃え盛る炎の色が、次に浮かんだ。

 ふと想った。今この青色を発色させているのは、この地にくりひろげられてきた、人々の様々な喜劇、悲劇を覆い隠すためのものなのかも、と。

 ――全てはなかったことにするために。

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