6 メドゥーサの魔力

 お台場のスカイラインを背景に、切り立つビルの間を、ゆりかもめの軌道が円弧を描いていた。汐留地区を林立する高層ビルディングのカーテンウォールは、窓から見える景色を電子映像のようにきらきらと瞬かせていた。二階恵介は物憂げだった。窓の外をのぞむ痩身の後姿を形作っているのは、ブルックスブラザーズの白いポロシャツとタータンチェック柄のタイトなコットンパンツ。そして素足に履いたこげ茶のローファーだった。

 第二企画案が却下されたという連絡は、小倉を介して先ほどにあった。そのことの意味を知っている二階だった。社内が期待するCRM総合ソリューションシステム導入の契約はなされなかった。暗然と予測していたこととはいえ、落胆の気持ちは小さくはなかった。二階の背後を、「生きてるか」という声が立ち上った。振り返った。

 兵頭由紀子が、コンビニ焙煎珈琲のカップを差し向けながら立っていた。素直になって手にとった。

 ブースを囲うパーティションの内側には、制作した第二企画案のプレゼンボードが立てかけられてあった。《オーガニック・ワンツゥワン》とは、服飾コンシェルジュを立てた、カウンター形式のワンツゥワン型セレクトショップだった。商品ラインナップをオーガニックという地味な仕様に特化させたことで、件の染色の課題が解決できること。梶商が保管してあるテキスト情報すべてをCRMに取り込み、AI解析した結果、「ストーリー・マーケティング」の有効性が明らかになったこと。それらを反映させた企画案だった。

 兵頭由紀子は提案に目をほそめながら言った。

「相手も罪づくりだよね。良くできた企画なのに。でもね、ボツった理由の直接の原因だったというわけでもないんだから」

 企画案が、フリーミアム、つまり本営業に付属した、無料のノベルティサービスであることを指摘する、二階を気遣うことばだった。

「背景には、既得権益とか陋習とか、拭いきれない固定観念とかさ、いろいろあるんだろうな。分かっていても決断できない理由が」

「何勿体ぶってるの?」

「彼らを動かなくさせてしまう正体のことだよ。それをAI分析で明らかにしようとしてるんだが、分析するための評価関数が浮かんでこない」

「その正体について、俺も見覚えがある」

 ふと背後から声がかかった。二人同時に振り返る。デジタル局第二マーケティング部部長、上司の石橋晃司だった。

「二階、今回の件で反省会をやるから来てくれ。兵藤も一緒にだ」

 ――――

 レインボーブリッジが望める側のオープンスペース――。

 冒頭、石橋が口をひらいた。

「米国ポラロイド社を知ってるよな」

「もちろんです。二十世紀には、全世界の写真フィルム業界を寡占していたエクセレント・カンパニー」

 兵頭が勇んで応えた。

「しかし、二十世紀末に起きた所謂IT革命後に急激に業績を落ち込ませ、二○○七年からわずか二年で、続けていたオリンピックのワールドワイド・スポンサーを降り、本体を大幅に縮小。その後わずかな印刷ソリューション業務を残して実質的には消滅してしまった。不思議だったのは、IT革命によって自社が窮地に陥ることは、斜陽となる三十年以上も前、すでに社内コンサルに指摘されて知っていたことだった」

「しかし対応しなかった?」

 探る目で訊いた兵藤だった。

「そうとも言えないんだ。何故なら、IT革命が及ぼすだろう問題に関しては、デジタル写真フレームやコピー印刷機等の新規開発に取りかかっていたし、フィルム業務に関しても、新規ポケットカメラの開発等、対策計画は立てていた。しかし達成できなかった」

 兵藤が押し黙った。

「何故だか分かるか?」石橋の問いかけだった。

「巨大になりすぎていたとかですか?」

「もちろんそれも理由としてあっただろう。しかし直接的な理由じゃない。ポラロイド社を消滅させてしまった最も大きな原因は他にある」憶測を否定された兵頭は、二階に向けて、

「何なのでしょうか?」と質問をふった。思わし気な表情の二階からはことばがでてこない。まもなくして石橋が口をひらいた。

「メドゥーサの力なんだよ」

 二階と兵頭とが目顔を向き合わせた。

「ギリシャ神話、ゴルゴーン三姉妹の一人、メドゥーサだよ」

 二人の脳裏に、メドゥーサが放つ恐怖の様相が、それを見る者の全身を麻痺させ、石化させてしまう光景が浮かび上がっていた。二階がふとつぶやいた。

「恐怖による麻痺」

 石橋が点頭を返した。

「地鳴りを耳にして、巨大地震が襲ってくることを察知した人々にも当てはまる心持ちだ。来るのが分かっているのにも関わらず、よりどころなく耐えている、そんな心境さ。そこには信じたくないという気持ちもあるだろう。どうにかなるという楽観もある。それらがない交ぜとなって、魔力を生み出す」

 はっとひらめいた顔の二階だった。卸町でひらかれた勉強会。そこに集まってきた者たちの光景が浮かび上がった。石橋は遠くを見る目になっていた。

「俺たちの世代は皆、メドゥーサの魔力によって石にされた」

 意味ありげにつぶやいた。彼の脳裏には、かつて仕事をともにした同僚の姿があった。昭和末期の石油ショック直後。一九八○年代初頭から十年間のあいだに社会に出た世代は、入社しばらくはバブル景気の恩恵に浸っていた。しかしその放蕩の災いが祟ったためなのか、九十年代、バブルは弾け、勢いは急激に衰えていった。四十代は辛うじてしがみ付いていた。しかしやがて、リストラの憂き目にあっていった。彼らの現在は、皆見る影もなかった。六十歳定年と言われて入社してはみたものの、実のところ、彼らのほとんどすべては、五十間もない年齢でリストラにあっていた。それが現実だった。

「とくに電子・電気関連の製造業、メーカーにいた連中は悲惨だった」

 自らも電子機器総合メーカーのブランドマネージャーとしてのキャリアを持つ石橋は、惨状の話をつづけた。

「俺が新卒で入社した八十年代前半は、バブルの恩恵を受けはじめていて、どの業界も繁忙を極めていた。今のようなデジタルを駆使した緻密なマーケティングを弄さなくとも、見込み通り売れてゆく時代だった。マーケティングは、数値など使わない職人芸の時代だったんだ。それでも数々の革命的ヒット商品が生まれた。なかには今もって、日本製品歴代1位というアワードを持つものもある」

「音響製品の革命児、ウォークマンですね」兵頭のことばだった。石橋は小さく頷きながらつづけた。

「その革命が、市場の勢いを削がした」

「……?」二人は押し黙った。

「ウォークマンは、それまで巨大市場を誇っていた室内オーディオ市場をぶっ潰した。当時に群雄割拠していたオーディオメーカーは、今は見る影もない。革命は常に、古いものを容赦なく根絶やしにしてしまう。アナログに対するデジタル革命もそうだった」

 二階と兵藤が眼差しを強くひからせて聞き入っていた。

「ポラロイド社ばかりじゃない。アナログ社会の上位にいた連中には恐ろしいような地鳴りが聞こえていた。しかし動けなかった。動こうとしなかった」

 石橋の耳の奥を阿鼻叫喚の声がこだましていた。それはIT革命が引き起こさせた戦火から立ちのぼる悲鳴だった。それは、その革命戦争によって、バリバリと音を立てて引き裂かれていった当時を生きた様々な「モノ」たちの慟哭だった。石橋が遠くにしていた目を面前に戻した。ミネラルウォーターが、ミーティングのガジェットととして円卓中央に備わっている。その内の一本を手に取った石橋がキャップをひねった。

「しかし石橋さんは、動けたんですね。メドゥーサの力を掻い潜って」二階がなげかけたことばだった。

 ペットを持つ手を止めた石橋が苦い顔をして、

「偶然さ」と応えた。一口喉にながしこんだ。もちろん謙遜だった。彼の今ある地位は、当時に行く末を察した彼が、デジタルを生きるための再学習を果たして勝ち得たものだった。そこで石橋は眼をひからせた。表情は薄暗かった。

「我々の社会を覆うメドゥーサの力は、企業側だけの話じゃない」

「どういうことでしょう?」兵頭が問いかけた。

「今、消費者側にもその恐怖の様相が襲いかかっている。団塊世代の後期高齢化、それによる医療費の増大、相反する税収の激減。そしてなによりもおおきな恐怖であるのが、少子化だ」

「2025年問題は最近よく耳にします」

 兵頭の言葉に石橋はうなずいて言った。

「それなのに政府は有効な手段をいまだ打ちだせないでいる。目先の対処療法的対策で時間をかせぎ、問題の本質を覆い隠そうとしている」

「まさにメドゥーサの眼によって石にされている」

 つぶやくように言った二階のことばだった。

「大きく言えば、俺たちの任務は、その難局に直面している社会からメドゥーサの力を削いでやることだ」

「まさか、石橋さん」

 何かを感づいた兵頭のことばだった。

「梶商の案件をプロモから奪うようにして二階くんに委ねたのは、梶商を動けなくしている魔力を、彼に体験させたかった?」

 石橋は問いには応えず、空になったペットボトルを宙に回せてまた手の中におさめると、すっと立ち上がった。そして円卓の淵をボトルでなでるようにして歩きはじめると、ボトルの底で、二階の肩をぽんと叩いて言った。

「二階、次のはさらに強力だぞ」

 石橋を振り返った二階の面前に、黒色の封筒が差し向けられていた。

「中を見てくれ」

 全面スミ色に印刷されたダイレクトメールだった。手にとった二階が、ミシン目に沿って封を開けた。口をすぼめて息を吹き込む。中をのぞくと封筒同様に黒一色にデザインされた二つ折りのチラシが見えた。それを摘まみだしひらいた。白い抜き文字のキャッチコピーに目をふった。

 ――経済情報セミナー/日本経済目前に迫る暗黒。その中に見える灯火(ともしび)主催アラハバキ。

 怪訝な顔付きの二階は、封筒を返し、表に貼られてある白いシールに目を落とした。宛名には、「デジタル局第二マーケティング部部長、石橋晃司様」とあった。

 石橋が説明をくわえた。

「俺のリードが加盟している企業組合が、会員限定で主催している経済セミナーだ」

「会員限定?」

「ああ、ちょっと珍しい内容だが、今、注目を集めている」

「リードとは?」

「パステルハウスだ」

 社名を聞いた二階が眉間に皺をよせた。かつてはラジオのパーソナリティとして名を馳せた安東静香が、今から四半世紀前、その地位をあっさり捨て去って起業した会社だった。その後マスコミと縁を切った彼女は、メディアでの露出を絶って独自の営業活動のなかで築き上げた会社だった。三年前になって石橋が新規顧客にと目をつけた見込み顧客だった。しかし未だに発注を取り付けられていない、梶商以上の難攻不落の企業だった。

「アラハバキというのは?」

「安東静香が音頭を取って設立した企業組合の名だ。パステルハウスで独自に培ってきたユニークな商法を、社外に向けて広めたい彼女の思惑から設立された」

 石橋ほどの男が食らいついて離れようとしないリード。それほどに魅力ある見込み顧客とは? そして、そこが主宰する「暗黒」の名のつくセミナー――。二階は興味をいだいた。

「ミッション、受けさせてください」

 石橋からの指示を先回りして、二階が言った。


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