5 デジタルマーケティング
卸町は、アパレル以外にも様々な業種の卸商が軒をつらねていた
卸町センタービルに向かう途中の菓子問屋の前だった。二階恵介はふと足を止めた。視線の先は、軒先に並べられてあった段ボールの一つに向けられていた。ポテトチップのパウチが山と積まれた段ボールだった。よく見ると、パウチの隅にアニメキャラのカードがオマケとして貼付されてあった。ひらかれたフラップには、「一個5円」という文字が、黒マジックで大きく殴り書きされてあった。二階がグローバル・マーケティングの完成形だと絶賛するコンビニでは、三十倍の価格で売られている商品だった。
「日切れ品ですね」
二階の視線に気づいた福山が言った。
「ひぎれ?」
「消費期限の切れた商品です」
それを売っている。(何故、五円で?)
二階の怪訝に思う気持ちを読み取った福山が、
「オマケのみを買え、そういうことです」と言って、目顔をおくった。うながされてその方に目をむける。「一個5円」の横に、赤マジックで小さく書き散らされた文字があった。赤字が段ボールの地の色に同化して見えにくい。目を凝らした。見えてきた。
――オマケをとって中身は捨ててね。
きょとんして見入った。背をふるえが駆け上った。何気ない光景の裏側に闇のようなものが蠢いているのを感じたのだ。主役が、寄生していたものにすり替わっている。二階の脳裏を食虫植物のすがたが浮かんだ。
「リアルの裏側は魑魅魍魎としています」
中小企業団体中央会に所属する、地域創生コンサルの福山が、涼しい顔でつぶやいた。
――――
「それはおもしろい話だ。三波春夫が日本で最初のマーケティング
ディレクターだったという説」
聴講席最前列の中央を陣取っていた梶商代表取締役会長、梶山信二朗は、背を反らせてゆったりと腕を組んだ。開催されていたのは電博堂DXデジタル期待のCRMデジタルマーケティング総合ソリューションシステム。その導入の売り込みのためのデモンストレーションだった。聴講者の顔ぶれが多彩だったのは、協同組合卸町協働センターの組合長である梶山に対して、電博堂側から、開催するデモンストレーションに合わせて「デジタルマーケティング」をテーマとした寄付講座の提案があったからだった。提案にのった梶山が、企業組合員に参加を働きかけていた。
三波春夫の話がでたのは、インストラクターを務めるAE小倉が、次第に「マーケティングとは」とある冒頭のパートを説明しているときだった。
かつては西篠文若を名乗る浪曲師の三波春夫だった。
観客を前にした浪曲師は、背後に金屏風と三味線曲師をしたがえ、べんべんと大仰に釈台を叩いて唄うのがスタイルだった。三波は、そのどこか一方的な唱法が、当時に鳴動しはじめていた歌謡曲と比して、時代遅れになっていると感じ始めていた。そしてそれを確信した彼は、浪曲師としての実績をこともなく投げ捨てて、演歌・歌謡歌手へと転身を果たした。その彼に、日本のマーケティングのルーツを小倉たちに感じさせるのは、観客、オーディエンスの重要性を意識した親しみやすさを前面に立てた「三波春夫」という軽やかなる芸名への改名と、あまりにも有名な「お客様は神様です」という独自のフレーズを連呼したことだった。
それは、マーケティングの理念「消費者志向」をあらわすこの上もない箴言だった。
冒頭のパートが終わり、マイクが二階に引き継がれた。二階は、第二のパート「マーケティングの変遷」の担当だった。
「マーケティングは、一九○○年代初頭の米国シカゴを中心としたフロンティア地区で生まれました。
当時のアメリカ中西部は、フロンティアの名が示すとおり、市場の開拓がおおきくすすんだ地域でした。そのことによる急激な人口拡大にともなって、生産者と消費者との関係性が大きく崩れ、両者のあいだに情報格差が生まれてしまった。
それを修正しようと、付加価値に関する理論がもとめられた。それがマーケティングの生まれた一つ目の理由です」
会場となった卸町センタービル五階にあるセミナー会場では、梶山会長が呼びかけた、卸商企業の幹部連が聞き耳をたてていた。
「二つ目の理由は、実務側の要請でした。
急激な人口拡大は、実際の流通業務に支障をきたすようになっていた。とくに腐敗しやすい農作物を扱う流通業者は、貯蔵施設がないところほど高いコストがかかるようになって、小売価格に転嫁されていた。その問題を解決するために、流通過程の最適化がもとめられた。
その役割を担わされたのがマーケティングだった」
その後、マーケティングの役割の重心は、課題解決型から商品やサービスの価値発生型に移り変わり、消費者志向(属性志向)、顧客志向(行動志向)と変遷し、今現在、マーケティングは、価値発生型をさらに押し進めた、価値主導型(心理志向)へと進化してきていることの説明がつづいた。
「価値主導型とは、企業と消費者とが、商品を介して共に感動し合い、その良さを第三者に推奨させようとする方向性です」
二階は言って、会場を見渡した。
「それを実現させるための、重要なキーワードがエンパシーになります」
聴講席から「シンパシーの間違い?」という声が投げかけられた。耳に入れた二階が頭を振った。
「共に相手を思いやるという意味のシンパシーとエンパシー。その違いは、穴に落ちた人を、穴の外から呼びかけながら思いやる型と、自分も穴の中に降りて、寄り添って相手を思いやる型の違いになります。
つまり相手の立場に立つ、という意識や行動にも違いがあるわけです。エンパシーとはその後者になります」
その後、価値主導型を達成させる手法として、二階はデジタルマーケティングの有効性を語り出した。
「今の消費者は広告が大嫌いです。それなのに、企業の多くは、とにかく商品を認知してもらおうと、ポップアップ型広告や、どこまでも追いかけてくるリ・ターゲティング広告などを出稿しているのが現状です。それらは、ノイズ型とよばれて消費者に忌み嫌われている。むしろ逆効果なのです」
ネット広告を、ビルに吊るされた袖看板程度の賑やかしとしか思っていなかった幹部連が、慌てた顔でメモを走らせた。
「ではどうしたらよいか? それを解決してくれるのが、デジタルマーケティングです」
そこで、二階がAE小倉に目顔をふった。小倉が立ち上がってマイクを引き継いだ。
「ここまでのご清聴、誠にありがとうございます。ここから我々にとっての本題、システムのデモンストレーションに入らせていただきます」
セミナー会場が溶暗し、前方のスクリーンに《最新型AIを搭載/CRMデジタルマーケティング総合ソリューションシステム》のタイトルが煌々と映し出された。
――――
勉強会の反応は、表向きには上々だった。梶山信二朗などは、終了後、「シンパシーよりエンパシー」を繰り返しハミングしながら会場内を歩き回っていたぐらいだった。しかし二階には気になることがあった。終了後にとったアンケート結果だった。「有意義だった」「分かり易い」「興味が沸いた」等、満足度をあらわす評価性質問においては、双極五段階評定中、いずれも平均4を超えていた。問題は、デジタルマーケティングを「今後に役立てたいか?」の回答結果だった。平均は2を下回った。無記名調査であったから本音があらわれる。表向きには評価していた裏側で、手のひらを返したように低い数値を出してきたことを二階は憂いていた。
関連してさらに気になったのが、彼らの奇妙な陽気さだった。明るさの中に薄暗さが滲んで見えていた。梶山はその典型だった。頬から顎にかけての下顔のシルエットはゆったりと円満な弧をえがいているのに反して、上顔の額は狭くこせついていた。にこやかにしている瞳であるのに、眉は両方から狭まって中間につくった皺を、時折びくびくと動かしていた。がははと笑う口元はすぐにまた一文字に戻ってしまっていた。
あの陽気さには、あきらかに矛盾があった。
「おそらく梶商との案件、ボツるな」
アンケート資料から顔をあげた二階が独り言ちた。
導入を働きかけていた総合ソリューションシステムの件だった。ビールジョッキをカウンターに戻した小倉が二階に顔をふった。不満げな顔つきだった。
「止めてくれ。縁起でもない。このプロジェクト、そもそもお前たちデジタル第二が無理に引き取っていった案件じゃないのか」
電博堂DXデジタルにとって、総合呉服卸、梶山商事という顧客は、本来はSP局が開拓して、小倉の所属する営業局に送ってきた送客だった。その顧客が、デジタル局のクロージング(顧客獲得の最終的打ち手を得るために、マーケティング側にフィードバックする役割)を担当する小倉にまわってきたのは、デジタル局第二マーケティング部の強い要求があったからだった。
クラフトビールを一口喉にながしこんだ二階は、苦い顔で応えた。
「お前には悪いが、しかし俺には感じたんだ。諦観の境地を」
「どういうことだ?」
「彼ら、妙に陽気だっただろ?」
言われてみれば確かに、卸町全体をただよう薄暗さとは真逆の明るさが、がやがやと参集してきた者たちにあった。
アドテクノロジーを駆使した、マーケティング・オートメーションの実演にしても、人工知能を使ってCGモデリングさせたペルソナを、5Aをパラグラフに立てたCJM上で購買行動をシュミレーションさせているときも、コンタクトポイントを介しておこなわれる、エンゲージメント・システムのマネタイズの仕組みを披露しているときもそうだった。
最新のデジタルマーケティングの成果を、圧倒的に見せつけられた彼らは、しかし皆妙に明るげに見えた。
オンライン通販の勢いに押され、かつての賑わいが消え失せた業界に棲む人々たちは、自らの地位をおびやかす、おそるべき脅威をみせつけられているのにもかかわらず、陽気であることの矛盾を、二階は指摘した。
「あれは、来る災害に直面して、成すすべなくやり過ごそうとする人間の防御のあらわれだよ」
「陰気臭いなぁ。お前らしくない」
「オンライン通販は三十パーに達した」
「でもまだリアルは七割ある。深刻になる必要もない」
「しかしいずれ逆転する。かならずだ。それなのに」
白いLEDに照らされた、真っ白い駅構内のエキナカにあるビアレストラン。そのカウンターの片隅で立ち上った憂国の言葉だった。
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