4 データ・サイエンティスト

 手渡された焙煎仕立てのコンビニ珈琲は、何時にもまして、身に染みてきた。二階恵介は、今朝、日課としている早朝スイムをスルーした。滅多にないことだった。

 原因は、面前のモニタ画面に映し出されてあるデータセットだった。婦人服を専門とする老舗の卸商社、梶山商事のものだった。いつにもまして手ごわい相手だった。徹夜厳禁が通達されていた。だから作業は家に持ち帰らねばならなかった。それからさらに二晩をかけた作業だった。それでもままならなかった。日課の早朝スイムはスルーするより致し方なかった。

「画面に顔、吸い込まれてるよ」のことばを受けながら、兵頭由紀子から白いグリシン紙の袋を受け取った。

「きな粉のやつだよ」

 二階が包みをひらく。中にはゴルフボール大のサーターアンダギーがあった。焙煎珈琲と共に、席をはずせない二階が、兵頭に依頼してあったランチメニューだった。

白くひかるグリシン紙の上部を五指でひろげた二階は、親指と人差し指で、中の一つをつまみ上げた。こんがり揚がったアンダギーの香りが嗅覚を突つく。左まぶたが細くなった。左が閉じる方向の動きに対照して、右目が大きく見開かれた。両眼の大小のギャップ。それは大きく感情が揺れ動くときに決まってあらわれる二階の癖だった。

 アンダギーの半分を口の中に頬張った二階は、ゆったりと顎を上下させた後、ふたたび焙煎珈琲を一口すすった。口の中で、曳きたての珈琲に浸された小麦粉の塊が、ゆったりと喉を下っていった。

 コンビニの、焙煎珈琲とサーターアンダギー――。二階がこの二つの組み合わせを、グローバル・マーケティングの最高峰だと絶賛するのには理由があった。優れたデジタルマーケティングとCRM(顧客戦略)に基づいてつくられたコンセプト。セルフ機能を充実させた中国製全自動コーヒーマシンのプロダクト改革。中東イエメン産アラビア珈琲豆と、南国沖縄産「いえじま小麦」とのデュエットを思い立った、ワールドワイドな発想力。そして、そうした特殊原料を、年間を通じて安定供給させるため、全世界に張り巡らされた知的流通システム。さらには、最新UXDを組み込んだ斬新なネット広告。すなわち、コンビニの、曳きたて焙煎珈琲とサーターアンダギーとの組み合わせとは、世界を跨いで形作られたマーケティング・ソリューションの結晶なのだ。二階が最高峰とする理由はそこにあった。

「あなた、コンビニ依存症だよね」

 満足げでいるところに向けられた兵頭の冷ややかなことばだった。

 指摘は当たっていた。人生の内に消費するほぼすべての食品と生活用品とは、コンビニだけで事足りる、と信じる二階だった。そしてそれを実践してきた。もっとも理由はあった。市場アナリストという肩書を持つ彼の実際は、データ・サイエンティストだった。――だから、自ら立てた分析結果やソリューションの効果を検証するのに、コンビニは適したフィールドだったのだ。

「でもさ、乗り遅れている側の存在も、大事な事業資源だということ、忘れちゃいけないんだよ」

 同僚、兵頭由紀子の諫言だった。

 二人が所属する、電報堂DXデジタル――その第二マーケティング部が任務としていたのは、所謂オフライン案件を開拓することだった。彼らが「デジタル」や「DX」の名の下に置かれてあるのは、事業開拓の武器やエヴィデンスとして、それを利用していたからだった。

 グローバル・マーケティングの完成形であるコンビニ。それが悠然と君臨している一方、しかし依然としてデジタルを受け入れられず、グローバルとかけ離れたところにある国内事業も数多いのだ。つまるところ、二階らが手掛ける相手とは、そうした「国産」だった。

「彼らと会話をしつつ、手を取り合って開拓を目指す。私たちの任務だよね」

 二階は、「ご忠告、承りました」と言い返して手の中に丸めたグリシン紙をゴミ箱に投げ入れた。

 ふっと溜息をついた。回転椅子をまわして、ふたたびモニタ画面に向き合った。梶商こと、梶山商事をもの語る数々のデータテーブルがそこに映し出されてあった。二階の眼には、それらを構成する無数のセルたちが、漆喰によって塗り固められたレンガの塊に見えていた。

 脳裏を、先日に梶山商事に出向いたときの光景が浮かび上がっていた。

 ――――

 卸町の名の通り、周囲を卸商社が立ち並んでいた。尤も「立ち並ぶ」といえば活気を感じさせるのだが、その光景は程遠かった。おとずれた日は曇天だった。だから余計に、陰鬱さが気にさせていた。

 言いようのない薄暗さ。発生源は何なのだろう? 二階は周囲を見回しながらそんな疑問をいだいた。人通りの少なさが原因の一つだろう。灰色に塗り固められた、前時代的建物たちも原因の一つには違いない。しかしそれらは、ただ外見的な暗さの誘因でしかなかった。街に感じられる薄暗さは、もっと奥深いところから立ち上ってくるように感じるのだ。 

 梶商の本社に到着した二階は、入口に無造作に並べられてあったスリッパに足を忍ばせた。同行の営業担当、AE小倉と共に案内役の女性社員の後を進んでいった。薄っすら埃が浮いたフロアをすすみ、取り扱い商品がならぶショーケースの前を通り過ぎた。街並み同様薄暗かった。立つマネキンが身に着けていた衣服はどれも皆、色あせたような風合いだった。応接室へと通された。間もなくして室内に現れたのが地域創生コンサルの福山悟だった。プロジェクトのまとめ役、梶商と二階らとのパイプ役の人物だった。

 普段であれば気さくな人柄の福山が、妙に遠慮がちな足どりでテーブルをまわりこみ、二階の向かい側に腰を下ろした。そして気まずそうな表情で、テーブルの上に置いた手を、突然に直角にまげて頭を下げた。

「誠に申し訳ございませんでした。ご存知かどうか、この業界、いろいろと複雑でして、地元の産元筋から横やりが入ってしまいました」

 先方がまだ現れない時間を利用して、福山は先日に二階が提案した新規事業案が却下されたことの謝罪を言ったのだった。

 新事業が欲しい産元が、その企画案を、梶商を通じて電博堂側に打診してきた。それをフリーミアムで受けた案件だった。

 提案した「スポーティ・ライフウォーマー」発案のきっかけは、ダウントレンドばかりの折れ線チャートの中に、埋もれるようにしてあった、一本の右上がりのチャートだった。リブニット製の伸縮素材を使ったタンクトップだった。AE小倉を介して実物を手に入れた二階は、素材の伸縮性よりも保温性に着目したのだ。拡大するスポーツ&ウェルネス市場におけるテキスタイル製品生地の重要性を回帰分析した結果が、伸縮性よりも保温性であることを示したからだった。しかも、保温性と消費者の生活用品に対する期待度とを評価変数として、今後の有力市場を予測した主成分分析結果は、サポーターやニット帽、マフラーなどの日用小物ファッション衣類が最も高い主成分得点を示していた。裏付けに押された二階には自信があった。

「ニットに着目してくれたこと、産元さんも同意してくれたんですが、鮮やかな色合いが大きな問題だと」

「と、言いますと?」

 反問する口調の二階だった。

「梶商さんのような中央にいる卸商に対して、地方に居ついて、糸や布地などの原料生産側に立っている産元さんは、別名を産地織物商と言って、地域と密着した性格を持っているんです」

「地域創生プロジェクトにとって重要な存在です」福山の立場を思いやって言った小倉だった。

「そのような国内産地型の経済では、元来から素材品種毎、紡績、織布、染色と、明確な役割分担が受け継がれています。その中にあっては、豪農筋で、藍玉の製造販売を兼営していた染色屋さんの存在が凄く大きいんです」

「渋沢栄一の生家がそうですね」

 小倉の指摘に福山が肯定の相槌を返した。

「現在においても、染色加工業業界の発言力が強いのは、そういった歴史があるからなんです。――お気づきになりましたか?」

 福山が思いがけず質問をむけてきた。二階が表情のない顔で小首をかしげた。

「ショーケースに並んであったものたちですよ」

 眼の奥を薄暗い風合いが流れ去った。

「パッとしないですよね」

 小倉の指摘に小首を上下させ、同調を送った二階だった。

「じつは色のせいなんです」

「どういうことでしょうか?」

「染色加工品は生鮮品と同じなんです。鮮やかな染色を長く保たせるのは、色抜けするのでやりたがらない。抑えた色の方が、彼らにとっては都合が良い」

 二階の顔は思案気だった。とはいえ提案に反対する産元らの都合色に合わせることは、今あるサポーター類と変わらない風合いに落ち着いてしまう。提案したコンセプトは、普段着に重ね着させた、スポーツ性の高い日用ファッション衣料、『スポーティ・ライフウォーマー』なのだ。鮮度の高い配色は必須だった。だから二階は、表面を繕っての修正作業を良しとしなかった。

「勉強させてもらいました」

 事情を受け入れ、口惜しい気持ちを潔く拭い去った。梶商の窓口担当者が入室してきたのは直後だった。

「遅れて申し訳ありません。整理に想定以上の時間がかかってしまいました」

 申し訳を口にしながら、両手に大量の書類をかかえ持った担当者は、重たげな足取りでテーブルに近づき、腰を乗り上げるようにして書類の束をテーブルの片隅に置いた。

「これがリストになります」

一枚のプリントアウトを二階に差し向けた。

「お手数おかけしました」礼を言って二階が引き取る。提出を依頼してあったデータ群だった。

「古い社内報等、バックナンバーの揃えが悪く、ところどころ抜け落ちているところもあります。どうぞご了承ください」

 二階がリストに目を走らせた。社内報、沿革、IR情報、ヘルプデスク等の文字が目に付いた。依頼してあったのは、印刷物にされたテキスト情報だった。

「私ども、リストの分類作業だけで手いっぱいで、マーケティングにこれらを利用するなどとは、到底考えも及びません。それをどのように利用するのか、教えていただきたいところです」

 へりくだって言った担当者のことばだった。

 企業の社史や定款、消費者の苦情や要望などのテキスト情報が、商品開発やマーケティングの改善に役立つという話は知られたところだった。面前で自嘲の笑みをうかべる担当者も、実のところ、ヘルプデスクに寄せられてきたテキストたちが、何か役立つシーズになるのではと、見よう見まね、流行りだとされる分析ツールを使って、課員らとグループワークを試みていた。しかし、結論として出てくるのは、枝葉末節とよぶべき瑣末な課題の改善策ばかりで、大衆消費財という最大公約数の標的を狙うべき、おおきな視点に立った課題解決策には程遠いものばかりだった。社内は、文書データの有効利用に対して、次第に懐疑の目を向けるようになっていた。

 一方アナリスト側の二階らも、クライアント側が、テキスト情報をもて余している状況は知っていた。そしてその原因が、「人工知能」であるとか「ビッグデータ」であるとかの、抽象的過ぎることばにあることを見抜いていた。テキスト情報、すなわち質的データの本質が、それら抽象語に邪魔され見え難くなっている。二階が常日ごろ抱いていた見解だった。担当者が発した「それをどのように利用するのか?」という問いに、二階は「それを利用するのではなく、それが産み出された根源を探り、その大本を再生させます」と応えた。

 ふと表情をとめた担当者だった。社内に散らばってあるような些末な存在だと認識していた文書データが、意外にも、「根源」を知るために重要な存在だというのだ。その意味ありげな指摘をうけ、停止させた表情をじんわりと溶明させた担当者は、「根源」についての真意をうながした。

「マーケティングや商品開発とは、社会や個人の未来を最適化することと関係しています。そのことは、環境への適応という点で、生物の進化と似ている」

「マーケティングと生物の進化?」

 より一層引き込まれる話だった。

「生物の進化とは、淘汰をともなう最適化です。わたしが言った根元とは、その最適化をマネジメントしているものの正体なんです。それを明らかにすることによって、社会や個人、消費側がもとめているものが見えてくる」

 担当者は、その「根源」を探り出す手続きの説明をもとめてきた。

「最適化に必要となる淘汰の仕組みにとって、最も重要な要件とは何だと思われますか?」

 二階は説明を求めた側に質問を返した。しばし黙考していた担当者が、ひらめいた顔で勇んで応えた。

「量ですね。情報量です」

「ご明察。最適化とは、入力された情報を評価して、最適値を出力する作業です。つまり最適値の信頼性は、入力される情報量で決定する。だから関係する情報であれば何でもいいんですよ。ビッグデータの意義はそこにある」

「爆発的情報量?」

 AE小倉が発した合いの手のことばに、二階が点頭を返した。

「そこで問題となるのが、計算量です。単一のコンピュータの計算力だけではもはや間に合わない。必要となるのは、ビッグデータという爆発的情報量を計算する仕組みです。そこで考えられた数理モデルが、ニューラルネットワークだった」

「脳内ネットワーク?」

 自信無さげにつぶやいた担当者だった。二階は、励ますかのように肯定の相槌を繰り返した。

「脳は、マーケティング同様、生物の進化と似ているんです。脳を構成する神経組織は、情報を最適化するために動いている」

「脳神経は、ビッグデータ処理にマッチしている?」

「――というよりも、脳そのものがビッグデータのために生まれてきたというべきでしょう。全体が閉じられたように見える脳は、じつは逆に無限に広くに開放されているんです。その開放の窓口が、ニューロンと呼ばれる神経細胞だった――」

「ニューロンが、ビッグデータの処理に関わっている」

 得心した顔の担当者だった。

「ニューロンで入出力された情報は、その後、最適化のための評価作業に利用されます。その作業を担当する数理モデルが、人口知能の原型なんです」

 脳と人工知能との切っても切れない関係性について、理解を深めた担当者だった。

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