『ちょっと昔の私が書いた文章』

ある子ども達が寝静まった夜。


私はアレを見つめにいく事にした。


どす黒く、私の紛れもない一部であるどうやっても剥ぎ取れないアレを。奥底に追いやられそうで、もう見えなくなりそうなアレを。


最後にスケッチする事にした。


もう、奥に奥に食い込んで新しい私に覆い隠されて完全に見えなくなる前に。


勇気を出して…。


夜の空の真っ暗な部分よりも暗い暗い場所を覗きこむ。

遠く遠く深く深く覗き込む。出来るだけ手を伸ばして、奥へ奥へ入って掴もうとするのだけれど、いつも輪郭のピントが合いそうになると怖くなって引き返してしまう。これ以上近づくと今いる場所には戻れなくなるような気がして。


でも今回はなるべく奥へ勇気を出していってみよう。


もうそろそろ届かなくなってしまいそうだから。

 

もぐって、もぐって、もぐって…


ぼんやりとモノクロの街並がみえてきた。


あ、あ、体が軋むほど残酷なあの…





私は無表情で街の中で自転車を走らせていた。

目の前が真っ暗になって、自分が一体どこにいっているのかわからなくなる。


車がビュンビュンと走っている大通りの横の道を。側から見たら、どこにでもいる青春真っ盛りの女子大生だろう。


キラキラとした大学生ライフ。


でも、真実は中身は真っ暗闇で、死の縁ギリギリで綱渡りしているなんて、誰が想像できるだろう。


普通に街中を自転車で走っているだけなのに、意識が遠くなりそうなほど、絶望している。


孤独で虚無な…。まるで、たった一人で火星で自転車をこいでいるような…。


涙なんて出ない。


少し間違えれば、死の深淵に落ちてしまいそうな…。


私は生まれてから今までずっと、ずっと、一人ぽっちだった。心が。


それでも今までなんとか生きてきた。本当だよ?一人で頑張ってきた。だけど今は限界なんだ。


なんで…なんで、こんなになった?


どこをどう間違った?


未来が全く見えない。

そしてこの窮地を誰一人知らないんだ。


昔のモノクロ映画のような世界を、ただ自転車をこいでいる。


真っ暗闇にフェードアウトしそうになっていく。世界が歪んでるのか自分が歪んでいるのか分からなくなる。


ぐにゃり。


ああ、死神が微笑みかけている気がする。


そして、モノクロの家へといつものように吸い込まれていく。


私は何処にでもいる自殺願望のある女子大生だ。





私は幼い頃から周りが怖かった。なぜって?理解できないからだ。

幼稚園でも、小学校でも。とにかく周りのみんながまるで宇宙人のように思えた。いや、自分が宇宙人か?


どちらにしても、周りが笑っていたり興味があることに、ほとんど共感できなかった。


なにがそんなに面白いの?


なんでそんなに笑えるの?


なんでそんなにアイドルに夢中なの?


なんでなんでなんで…。


でも、仲間外れにされるのは怖い。一人は怖い。


だから合わせる。周りが笑っていれば笑う。興味があるなら興味がある。ムカつくならムカつく。それは紛いものだけれども。


みんなに同調したように見せる能力は知らない内に磨かれていった。


だから作り笑いに興味があるふり、なんか実は面白い人じゃん?を目指す道化師。


そう、道化師だ。太宰治の『人間失格』の幼少期のような。


素顔を隠した道化師。ピエロ。


そして、そのピエロは今までずっとピエロで人生を過ごしてきたので、本当の自分の居場所がなくなったのでありました。


そう、ピエロのあいだは愉快な仲間達と、愉快な音楽と、愉快な舞台セット。作られた虚構の世界。


観客達はその舞台を見て、「なんて愉快なんだ!」って笑う。


でも、舞台が終わったあとの、暗い顔の素顔のピエロの存在なんてだれも知らない。


まさに、私はそんな舞台が終わったらどこにも居場所のない、ピエロだ。


そんなピエロは舞台裏で太宰治の『人間失格』を読んで驚嘆した。時空を超えて仲間に会えた気がした。そしてひそかな心の支えにすることにした。





真っ暗な街を自転車で走り抜け、家に着いた。私は自宅生で自転車で大学に通っている大学4年生だ。一軒家の家に母親と父親と私の3人で住んでいる。


私の今までの大学生にいたるまでの流れは全て母親がつくってきた。私は母親に逆らえなかった。細かく言うと、逆らう気力が無駄なことを知っていたから諦めて従うしかなかった。私の母親は私が逆らおうとすると、ヒステリックに喚く。その喚き声を聞くうちに、その甲高い雑音に耐えれなくなり、「わかった、わかった。言う通りにすればいいんでしょ!」って流れで大体終わった。そのパターンで今まできた。父親も母親には逆らえなく、無口で自分のこと以外は無関心な人だった。私とどこか似ていて嫌悪感を抱いていた。


我が家は母親が絶対君主で、自分の思い通りに事が運ばなかったらヒステリックを起こす。そんなだから、母親以外、なんとなくみんなが無気力な性格を漂わせることになった。


だから私には「自分が我慢してなんとかなることなら、我慢するのが当たり前」という精神が根本に流れている。


荒波を立てるぐらいなら、私が喜んで我慢しますよ…と。


そして、母親の敷いたレールを一生懸命外れないように歩いてきた。


そのレールからはみ出ないようにするので精一杯だった私は、大学というゴール地点に到達した途端、途方に暮れた。


そう、私は今まで精一杯頑張ってきたつもりだったけれど、地獄のようなモラトリアムは始まったばかりだった。


山の頂上だと思っていた場所は、ただの「頂上みたいな場所」だった。







家に着いた私はいつものようにガランとした真っ暗なリビングに入った。


無駄に広い、見栄を張って建てた一軒家は家族の中で私がいちばん滞在時間が長いようだ。

母親は最近仕事が忙しいみたいだが、楽しくてたまらない様子だ。

いつも20時ぐらいに帰ってきて、暇があれば私に自分の職場での栄光をノンストップで話す。

私は何処かの国の哀れな女王をみているようだった。

夕食はもっぱら個人の自由。家には何も用意されていない。惣菜か、外食か。しばらく母親の手料理は見ていない。良くいうと自由。悪くいうと放任。


そう、私は自宅生だったけれど、家でも「本当の私」の存在できる場所はなかったのだ。


母親も父親も一緒に同じ屋根の下で住んでいるのに、全く私を見ていなかった。見えていなかった。


目の前の娘が、生きるのがしんどくて、息絶え絶えなのに、何一つ気づかないのだ。


あまつさえ、母親は自分の職場での自慢話の独壇場。 


私は目の前の母親に、なんだか道すがら道を尋ねられた赤の他人程の距離を感じた。


あぁ、一緒に住んでいて毎日一応顔を合わせているのに、何もわからないものなんだな…親子とかそんなの一切関係ないんだな…と、この時確信した。


何にもわかり合ってなくてもルームシェアはデキルノデス。


見つめあっただけで心が通じるなんて、どこの歌手がそんなこと言った?


そんな悪態を心の中でつきながら、私は愛想なく母親の独壇場の相槌をいつまでもうった。父親は遅くに帰ったらしいが、朝には仕事に出てもういなかった。しばらく顔を見ていない。


家にいても、1人ぽっちだった。例え、私の中身が他の誰かと変わっても何も変わらない日常を送れるだろう。


こんな、空っぽで絶望的な日常が続いた。


ああ、自殺する人ってきっと、こんな日々が永遠に続くと確信したからかな。


テレビの中で、どこかの大学教授がこんなことを言ってた。


苦悩−意味=絶望



こんなに生き続けるのがギリギリになってきたのは何でだろう。


死にたい、死にたいとふとした時いつも頭をよぎるようになったのは、いつからだろうか。


多分色々な事がスノードームの雪みたいに少しずつ少しずつ時間をかけてたまっていったんだと思う。


その雪が今、もう私の鼻のところスレスレまで積もってしまっている。


もう少しで息ができなくなりそうなんだ。


私は恥の多い過去を振り返った。


ああ、きっと始まりは初恋だ。


私の初恋は大学に入ってすぐに入ったサークルの先輩だった。


私は幸か不幸か、大学に入るまで、全く色恋沙汰とは無縁だった。


中学は不良だらけで、とにかく目をつけられないように、ゴキブリのようにコソコソ生きた。


高校時代は閉鎖的で、ジメジメとした救いのないハードな部活に入り、それだけで毎日が必死だった。


そして、まるでブラック企業のような部活をやめた後はしばらくふぬけ状態で、なんとか尻に鞭打ちながら、受験勉強スタートし、ひーひーいいながら大学に滑り込みセーフで入った。大学に受かったと知った時の心境はこうだ「やっと無事に終わった」


青春を謳歌する?一部はそうだったんじゃないの?知らないけど。


そんな感じで中学、高校時代は過ぎ去った。


青春映画のポスターを見ただけで気分が悪くなるようだった。


青春コンプレックスだ。


少年漫画のような熱いキラキラとした青春、少女漫画のような恋愛体験が喉から手が出るほど欲しい。そんな密かな密かな願望は発露することもなく、そして何も起こらなかった。


だからほとんど男性と深く関わることなんてなかったし、付き合うなんて「なにそれ、少女漫画の中だけの話じゃないの?」って感じで自分から切り離された世界の出来事のようだった。


そもそも外見もそこまで自信がなく、眼鏡にいかにも真面目ちゃんな雰囲気だったので、モテるはずもなかった。


そして誰も好きにもならなかったら、何も起こらないのは当たり前の流れだった。


悪口を言われなかっただけ幸運だったのかもしれない。


カッコいい男子を遠くから眺めるぐらいはしたかもしれないが、忘れた。


そんな、典型的な奥手な私は、大学のサークル勧誘でフレンドリーに接してくれたとても大人に見えた先輩に、気づいたら恋の沼にどっぷりはまっていた。







もう、不可抗力だった。これが恋なんだと完全に自覚した。


私はその音楽サークルに入り、管楽器の虜になった。


そして、そのマンツーマンレッスンの相手が、その先輩だったのだ。


ほぼ2人っきりの薄暗い廊下での、マンツーマンレッスンは、私には刺激的過ぎた。


真剣な眼差しが私の姿勢や、口元、指先に向いている。それを意識したら、体中を何か熱いものが走り回って、皮を破って出てきそうになる。でも、私はじっとしとくことしかできない。私はその緊張感に耐えれない。どうしていいか分からない。


先輩の指が楽器の上の私の指に触れる。


息と時が止まった気がした。


私は何かに吸い込まれていくような不思議な感覚になる。


ああ、恋に落ちていく。


止められない恋に落ちていく。


そんな音がした気がした。


私は先輩のその優しい眼差しや、笑顔にうっとりとしてそれだけで生きる気力が湧いた。


その時間の為に私の一日があったと言っても過言ではないぐらいに、そのマンツーマンの時間は特別になった。


まるで、少女漫画の主人公みたいに、恋に浮かれる自分。


そんな日々は嫌いじゃなかった。


世界がキラキラして見えた。


だけど、その恋心が少しずつ膨らめば膨らむほど、私の胸は締めつけられて苦しくなった。


何故なら、私と先輩が出会った瞬間から、もう先輩の運命の出会いは既に終わっていた。


そう、もう彼には熱愛中の彼女がいたのだ。


初対面のサークル勧誘で自然と耳に入ってきた情報。まるで、窓を開けた瞬間入ってきた虫みたいな情報。同じ楽器の同学年の彼女と熱愛中だってこと。


最初はそんなのどうでもよかった。彼女の存在なんてどうでもよかった。


でも、好きになれば好きになるほど、どうすればいいか分からなくなった。


何が正解かわからなくなった。


マンツーマンの時間が苦しくなった。優しくしないで欲しかった、近づいて欲しくなかった。自分のことが好きなんじゃないかっていう考えをとっぱらうのに必死過ぎて、余裕がなくなった。


そして、そんな「もしかして私のことが好き?」みたいなことを考えてしまう自分がどうしようもなく哀れな生き物に思えた。


そして、辛い恋のスタートは音もなく、確実にきていた。それを確信したのは、とある日のサークルでの飲み会だった。先輩の彼女が帰る時、先輩は何も言わずにスッと立ち上がり、彼女の後をついて外に出た。周りは「あの2人、ラブラブだねー」なんて酒の肴にしていた。私もいつもの虚構のピエロ顔でニヤニヤしていた。


これぞ、正真正銘の作り笑顔だった。内心は笑うより泣きたい気分だった。


その帰り道、集団で自転車で、駅方面に向かうと、その駅の外のベンチで2人は寄り添って2人の世界にはいっていた。


2人は周りのサークル仲間の集団も気にも留めていないか、気づいてないフリかはわからなかったが、2人の世界に終始入ったままだった。


私は一瞬でその横を通り過ぎたが、バッチリと見た。見せられた。嫌でも目に焼き付いて、なかなか離れなかった。


私は、その後家についてから、自分の部屋のベットに飛び込んで、突っ伏して泣いた。嗚咽した。結構声を上げたかもしれない。それこそ、まるで少女漫画によくあるように。もちろん、そんなの誰一人知らない。


分かってた。私は自分の恋が上手くいかないのは先輩に彼女がいるからっていうのは言い訳だって。本心は奪えるなら奪いたかったんだ。彼女のいる先輩にアタックするなんて、そんなのなし。身を引くのが道理でしょ?って。ものすごく正論だ。誰が聞いても正論だ。だけど、本心はそんなの心からどうでもよかった。本当は出来るなら、全力で奪い去りたかった。彼女に恨まれようが、殴られようが、悪口を言われようが、それでも手に入れたかったんだ。だけど、それをしなかったのは、ただただ自分に自信がないから。それだけの理由だったのだ。


脳裏にこびり付いた二人の残像はまるで、フライパンにぎっちりと焦げ付いた目玉焼きのように、取ろうとすればするほど、ぐちゃぐちゃになってどうしようもなく途方に暮れた。


私は惨めで、夜の海の底へでも消えてしまいたくなった。





それから、私の恋はベクトルを変えた。いや、変えざるをえなかった。


方向を変えないと膨らみ過ぎた恋心は私を窒息死させそうだった。


だから、「嫌い」の風船に行き場を失った空気を入れることにした。


私をこんなにも苦しめる貴方を許せない。嫌いだ。楽器の教え方も嫌いだ。思わせぶりな態度も嫌いだ。何か少しでもきっかけがあれば、「嫌い」のこじつけにする。


これぞ「可愛さ余って憎さ百倍」

逆恨み。


私は先輩への恋心を見ないフリをして管楽器に熱中した。


その時は楽器に私のすべてを捧げていた。

大学3年生の秋に集大成の演奏会があるのだ。


私はそれに向けて全てをかけた。

時間もエネルギーもいっぱい費やした。

惨めだったけれど、明らかに上手な後輩に教えて欲しいと頭を下げた。


あまり練習に来ない同級生にも最大限努力して働きかけた。


「努力は報われる。」


その言葉だけを信じて、必死に頑張った。これ以上できないぐらい頑張ったのだ。


頭の中は演奏会の事でいっぱいだった。「私の人生=演奏会」だった。当時は本気でそう思っていたのだ。


だけど、その演奏会での演奏は無残にも散りさったのだった。





悪夢は前日のリハーサルから始まった。全く音が出なかったのだ。

その不安から、その夜は殆ど寝れなかった。

これ程、苦しい夜はかつてなかっただろう。

そして、悪夢の朝が来た。

そして時間はいたずらにすぎた。

あっという間に昼になった。

本番前の昼食は味がしなかった。

そしてその時が来た。

まるで、断頭台に立ったような気分だった。


そして、見事に本番はボロカスだった。


終わった後、あまり練習をしてこなかった同級生にこう言われた。


「全然音出てなかったじゃん!びっくりしたわ(笑)」



私は打ち上げの時、いつものピエロ顔ではしゃいでいた。


人知れず、ピエロ顔の下は始終泣いていた。


こんなに私は絶望に打ちひしがれているのに、世の中の人にとっては演奏会の存在ですらどうでもいいことなのだ。 


私の人生=演奏会=終わった=どうでもいい


私がどんなに絶望しようが世界は何一つ変わらない。日常も何も変わらない。


私というものはソンザイシナイノトオナジ。






私の中で何かがおかしくなった。







そうやって私の中のスノードームの雪は着実にかさをましていった。


それから、何かが本格的におかしくなった。


私の中にあった、「努力は報われる」神話は致命的なダメージをうけて、再起不能状態になった。


今まで、全てをかけていたサークルは終わった。


恋も何もならなかった。


何もかもが何にもならなかった。


今まで一生懸命積み上げてきたトランプタワーは音もなくさらりとすべて崩れ落ちた。


何もかもが信じれなくなり、私は立派なハリボテのようになった。


しかも今にも崩れそうなハリボテ。


燃え尽き症候群。燃えて跡形もなくなった。


そして、始まる研究室配属やらその他色々。


もう燃えるものは何もないのに、また燃やさなくてはならない。


一体何を燃やせというのだ?


自信も地の果てまで落ちた。


さらに私には手に負えないやっかいな怪物がいた。


それは、性欲だった。


初恋を拗らせて見て見ぬふりをしてきたが、知らないうちに、そうとう厄介なものになっていた。

私は性欲の処理が全くわからなかったのだ。この時の私は本当に無知だった。蛇口から絶えず滴る水は少しずつコップを満たしていき、気付いた時には行き場を失った水は惨めにチロチロと溢れ落ちるしかなかった。


その状態が知らないうちに体を蝕んでいたのだ。


だけど、どうやったらこんな悩みを打ち明けることができるだろうか?誰に?どうやって?


欲求不満なのは確実だ。

だけどどうしていいか分からない。


その状態はどう考えても不安定で不健全だった。私は抱えきれない処理できない色々な物を一人で抱えすぎていた。


私は人に頼ったり、甘えたり、弱音を吐いたりする事が、絶望的に下手だった。


本当の自分を見せて引かれるのが怖かった。ピエロのお面を外した死を帯びた顔をみたい観客なんているか?


そんなの、自分で自分の今まで汗水垂らして作り上げてきた愉快な舞台を自ら打ち壊すようなものだ。


そんなの耐えれない…でも、もうその舞台が今にも、ふとしたきっかけで、崩れ落ちそうなのだ。


だから、私の周りで恋愛関係の話題が勃発すると、全身に緊張が走った。一番脆い部分がそこにあるように思えた。自分のハリボテが崩れ去らないように、必死に体を硬直させる必要があったのだ。


そして、ピエロの自分と、ピエロの仮面の下の本当の自分とのギャップがどんどん広がり続け、もうどうしようもなく、崩壊寸前になった。


そして、これ以上この無理な舞台を続けるぐらいなら、全てを終わらせたくなったのだ。





そんな、毎日鉛のように重い体をなんとか、動かして自転車に乗り大学に行く日々。


日常をピエロの仮面をかぶって平然を装うだけで、瀕死状態だった。


誰が信じれる?大学生が普通に友達と日常をすごすのが、こんな苦行だなんて。


ピエロの仮面の下の表情は常に絶望的な表情なのに、何とか何とか1日を普通にやり過ごす。


そして、ピエロ顔で、友達と学食でランチ。


そして、モノクロの世界を自転車で走り抜ける。


そしてまた、誰もいない家へ吸い込まれて行く。


そろそろ限界は近づいていた。









その夜、私はこのままではいよいよ危険と感じ、母親に打ち明ける決心をした。

情けないことに、一番この危機を話せそうな相手が母親だったのだ。人のメールアドレスは沢山知っているけれど、気軽にメール出来そうな相手はいない事実。そんな大学生、世界で私一人だけなんじゃないか?…と考えるとより死にたい気分になった。


20時頃いつものように、家に母親が帰ってきた。


そして、いつものように職場についてのマシンガントークが始まった。


「私は本当にねーこの仕事天職だと思うのー。もう、今日なんかねー、こんなことがあって、こんなことをやって、(あーだ、こーだ、)もうっ、流石ね!って言われちゃって〜!ねー、(あーだ、こーだ、あーだ、こーだ、云々)どう思う?あなたは」


「へーすごいじゃん。そういうの得意だもんねー母さん」


「でしょー!さすが私だな!って思ってさ〜で…」


「ねぇ、…母さん…」


「ん?何…深刻な顔して」


「あのね、………………私、うつ病かもしれない」





言った。


とうとう言った。





「はぁ〜〜〜〜〜?!」


次の瞬間、お母さんの歪んだ顔が見えた。


「うつ病?!なんで?はぁ〜〜〜?!どうしてあなたがうつ病にならなきゃいけない訳?なんで?なんで?何が不満なの?私はこんなに頑張っているのに?」


その甲高い声で、いつものように条件反射で頭が痛くなった。


「…ごめん!やっぱり気のせいかも!」


「でしょー?うつ病なんかなったら大ごとよ、気のせいよ、…絶対そうよ。そんなに平気な顔してられないからね、うつ病は。」


「うん。そうかも。」


母親の顔からヒステリックの悪魔の形相がすーっと消えていった。


「そうそう!絶対そうだよ。でさっきの続きだけどさ、職場でさ〜」


星の綺麗な夜だった。


私は明日が見えなくなった。





私の頭の中には「死」の文字でいっぱいになっていた。

もうこれ以上は無理だ。無理だ無理だ。もう限界だ。苦しい。苦しくて頭がおかしくなりそうだ。

どうすればいい?私はどうすれば…。

この普通を装うのもいっぱいいっぱいの状況で、就活に、卒論?怒涛のようにやることが押し寄せてくる。…そんなの、どう考えても無理だよ。

私の中の溜まりに溜まったこのどうしようもないヘドロのようなお荷物はどうすればいいんだ?

誰か、教えて、私のピエロ舞台と全く関係ない、誰か…。


私は一人で声にならない声を叫んでいた。


あーもう楽になりたい。


し…………ぬ?



私が自殺した後のことをぼんやり思った。



それはできない…。


私が死んだときの母親の顔を想像したのだ。


母親は私をなんだかんだいって、愛してくれた。この愛は本物だった。


その今まで与えられた愛の重さを考えると、それを無下にするような行為はできないと思った。


私を留まらせたのは、首の皮一枚を繋げたのは、その愛だけだった。


そして、私は気づいたらパソコンを開いていた。


そして、無心に出会い系サイトを探していた。









私は無駄に一人ぽっちでいるには広すぎる一軒家の日当たりの悪いがらんとした和室でノートパソコンを開いた。そして、驚くほどの平常心で、出会い系サイトを探し始めた。それがどんな仕組みか、どんな種類か、何もわからないから、とにかく何でも調べた。


インターネットは一人ぽっちで何とかする時の救世主だと心から思った。


そして、なんとか信頼できそうな出会い系サイトに登録した。


昔から、真面目で母親の言うことに従順で、誰から見ても「真面目でいい子ちゃん」な私が出会い系サイトで男性に会おうとしているなんて。


客観的に「すごく悪い事をしている」自分がいるんだなぁ、とぼんやり思った。


だけど、そんな事で罪悪感など感じる暇などなかった。


私は限界だったのだから。


そして、登録するとすぐに一通のメールが届いた。


「こんにちは。よかったら、友達になりませんか?」


私はドギマギした。

そして、凄く嬉しかった。21歳だから?女だから?それだけで優しくされる?どんな理由でも構わなかった。ピエロ以外の私の存在にやっと気づいてくれた。舞台の上じゃなく、ピエロの格好でもないただの私の元にメールが届いた。


「素の私」が存在できる場所を見つけた気がした。


それだけでもう少しだけ生きれる気がした。









その後、その男性とはメールアドレスを交換して携帯でのやり取りになった。


お互いに見た目はあまり自信がない事、性格や、仕事についてなど基本情報を交換しあった。


彼は工場で働いている事、35歳なこと、名前は「まさき」っていうこと、などなど。


その秘密の逢引のようなメールのやりとりは、今まで母親にとって「いい子」を演じていた私が「悪い子」になった気分だったが、不思議と罪悪感は感じなかった。


「自殺するよりましでしょ」


こんな開き直りみたいなヤケクソみたいな感情が根底に流れていた。 


もう私は後に引けない一歩を踏み出してしまった。

 

どんどん私を知って欲しいというとめどない欲望で溢れていった。


次の日もメールのやりとりが続いた。

大学生活の隙間時間のメールチェックが日常生活の一部となった。


講義が終わり、携帯に手を伸ばす。


そして、次の瞬間送られてきたメールを見て体が固まった。


「今晩会わない?」


心臓がドキンッ…と音を立てた。









その日の18時ごろ、私は一人ぽっちで電車の中にいた。

待ち合わせ場所はある駅を指定された。私はまるで、戦場に向かう兵隊のような、心境でその駅に向かった。家の最寄駅から5駅目。


電車の吊り縄を握りながら、虚な目はどこを見るでもなく、虚空を眺めた。薄暗い外の哀愁が漂った河川敷が目の前に広がっている。


あぁ、私は今何処に向かっているのだろう。


ガッタンゴットン


こんなおしゃれしてさ、高いヒールなんかはいてさ。


ガッタンゴットン


あぁ、私は一体何をしているのだろう。馬鹿か?馬鹿なのか?


ガッタンゴットン


これで騙されていたら?連れ去られたら?酷いことをされたら?ニュースで見るような事件に巻き込まれたら?


ガッタン…


どうなってしまう?


でも、メールのやりとりでは信用できそうだったよね。うん。


でも、確証は?


そもそも、私は何を基準に判断できるというんだ?ただの2、3日前に始めたばかりのメールで一体何が?


詐欺だって、十分考えられる。


しかも、車に乗り込むなんて。どう考えても無謀だ。


でも、もう私には進むしかない、戻る事はできない。


でも…怖い。すごく怖い。





ガッタンゴットンガッタンゴットンガッタンゴットン…





頭の中を2、3歩進んでは5、6歩戻るを全力で繰り返していた。


そんな頭の中がぐちゃぐちゃなうちに、駅に着いてしまった。私は改札口をでて少し離れた目立たなそうな椅子に項垂れるように座った。まるで断頭台の上にいるような表情で車到着のメールを待つ。息をするのも苦しい。


ブー…。


バイブが鳴った。携帯を見る。



「着いたよ。黒いクルマですぜ。」









私は無心で、駅の階段をスタスタ降りた。ただ、ヒール靴を動かす。

私はそのまま直進して駅前のロータリーで並列停車したクルマの列の横をスタスタ歩きながら車の色を見る。



灰色


白…


黒…あ、



フロントガラスの中の人影が手を振った。


私は、その黒い車の助手席のドアを開けた。









車の中から薄暗くなった繁華街を眺めるフリをする。


駅前のロータリーから離れていく。


「車わかってよかったよ」


「はい…すぐにわかりました」


「で、どこ行こうか?」


「…どうしましょう」


「とりあえず、車走らせるわ」


意外と普通に会話をしていた。


気づいたら極度の不安感は無くなっていた。


私たちは、道路沿いにある和食屋さんで食事した。


初対面なのに楽しく話せた。目の前の「まさきさん」が、メールのやり取りで作り上げた私の「イメージのまさきさん」と少しずつ重なっていった。


シンプルな服装、短髪で目鼻立ちはキリッとして線のようだった。でも、一般的にイケメンかそうでないかと言われたら、良くわからなくなってしまう。工事現場にいそうな感じ。


私たちはすぐに打ち解けた。特に大した話をしてないが、まさきさんの素敵な笑顔に安心した。それだけで十分だった。勇気を出して会ってよかったと心から思った。


食事後、また夜のドライブが始まった。私は少し浮かれた。なんだかドラマや小説の中の世界みたいっ…て。


「車大きいですね、家族連れがよくこんな車乗ってますよね」


「あー、…実は子供が2人いる」


「え?」


「嫁さんは出てった」


「…………じゃあ、今子供さんは?」


「大丈夫、ばぁさんがいるし、一番上の娘はしっかりしてるから、まるで俺の嫁みてーによくしてくれるんだよ、あいつは」


まさきさんは、携帯の待ち受けを見せた、2人の子供の屈託ない笑顔がそこにあった。


「まぁ、2人も子供がいたら結婚してくれる嫁さんなんて多分いねーよなぁ」


その横顔は何処か寂しげだった。


その後自然と恋愛の話になった。


「え!今まで彼氏いた事ないの?」


「…はい」


「それは良くないよ」


「良くない?」


「うん、良くない」


「………そう…ですか」


「じゃあ、性欲とかどうしてるの?」


「え?…………」


なんだか、まさとさんといると、話が不思議な方向にいった。

まるで、保健体育の先生と話しているような、エロおじさんと話しているような…良くわからない変な気分になった。


ただ、はっきりと分かったことはまさきさんは凄く真面目な人だった。そして、私には持ち合わせていない、人のことばかり気にするタイプだった。


「俺、エロい話も真剣にしちゃうから全然エロくないって言われるんだよな。論理的に話しちゃうんだよ」


「そうなんですね」


「とにかく、性欲をためるのはよくないよ。知り合いで、自分の子の性処理を母親がしばらくしてたって人もいた」


「………!それってかなり特殊じゃないですか?そんなことって本当にあるんですか?」


「まーあるんだろうな」


私は混乱した。こんな話をしてこの人は私をどうしたいんだろう。よくわからない。


けれども、私の悩みの根源を絶妙に突いてくるのは確かだ。


この人ならなんとかしてくれるかもしれない。


その日、家の近くのコンビニで私を下ろしてくれた。


もちろん、家に帰っても、その夜の私の変化なんて、誰も全く気づかなかった。









次の日、まさきさんからメールが届いた。


「オナニーした?」


私は青ざめた。


何なの一体?変態なの?それとも、本気で心配して言っているの?


私は、まるで汚らわしいものを見るかの様に携帯の画面を凝視した。


わからないよ。あなたが。


この時の私は全くこのような用語に免疫がなかった。


私のメール履歴にこの用語が記録されるというだけで、物凄い証拠を残してしまったと、平常心でいられなくなった。


そんな不安をかかえながらも、私はまるで逆らえない引力に引っ張られる様に数日後のある夜、まさきさんの車の助手席へ吸い込まれていった。









その夜は、どこか分からない田舎のコンビニの近くで車をとめて、お酒を飲んだ。


私は、お酒の力で饒舌になった。

「本当に私は駄目なやつなんですよ。何にも上手くいかない、なにもかもが駄目駄目なんですよ」


ああ、もう無理だ、今まで抑えてきた感情が溢れ出す。止まらない。


私はずっとこうやって本心を吐き出せる相手が欲しかったんだ。 


今まで本当の私がずっと言いたかった事をぶつけれる相手が。


私のピエロ舞台とは全く関係のない人が。


「私は、一人ぼっちなんです。ずっと、ずっーーーっと、産まれてから今まで」


涙が次から次に流れ出す。

反応なんてどうでもよかった。

ただぶつけたかった。今までなかったことになっていた自分の存在をなりふり構わず知らしめたかった。


「そんなことないよ」


まさきさんが、運転席から車の後ろの席に移動して私の横に座った。いかにも酔っ払らった女性を慰めるような対応をする。


「大丈夫、大丈夫、俺がいるから」


「ううんっ…。一人ぼっちなの、私はこれからもずっーーっと…ずっと一人ぼっちだ」


心からそう思っていた。


「そんなこというなよ、俺がいるだろ」


「違う!私は一人ぼっ…」


次の瞬間唇にまさきさんの唇が触れた。


しばらく触れたままだった。


時が止まった。


その瞬間、私の中のパンパンだったドロドロしたものが防波堤が決壊を起こしたように、溢れ出た。


「うぅ………!はぁ、はぁ、はぁ、う…はぁ、はぁ、はぁはぁ!うぅ…はぁ」


私は過呼吸になった。


涙が止めどなく溢れ、息が短くきれて止まらなくなった。


こんなこと生まれて初めての出来事だった。


しばらく嗚咽混じりの過呼吸は止まらなかった。


その横でまさきさんはずっと、さすってくれた。


しばらくして私の呼吸は少しづつ落ち着いてきた。


「あーびっくりした、もう大丈夫?」


「はぁ〜〜〜〜………はい、…自分でも…こんなに…溜め込んでいたなんて、びっくりしてます」


私は息切れ切れに答えた。


「あーもう、こんなになっちゃったよ、どうするんだよ」


まさきさんは、悪ぶれることなく、自分のあそこを見せた。


私は凍りついてしまった。


「………………」


「ちょっと触ってよ」


「………………」


私は無言で微動だにせず、彼のあそこを見続けることしかできなかった。


しばらくじっと、私を凝視したあと、まさきさんは、静かにしまい、車を走らせた。


なんとも言えない空気が流れた。


いつもの家の近くのコンビニでの別れ際、私はポツリと今まで気になっていた事を言った。


「まさきさんって、私の体目的ですか?」


「…………そんなんじゃねぇよ」


静かに、でも真剣に聞こえた。


「じゃあ、また」


私は、いつものように何も知らない家へと帰っていった。


忘れられない21歳の夜だった。









まさきさんとのキスは私の世界を変えた。歌とかで、キスは魔法とか、以前から色々聞いたことはあったけど、ディズニーの世界とかだけの話だと思っていた。

でも、私が経験したキスは本当に魔法のようだった。


私は、まさきさんに確かに救われた。「死にたい」という気持ちは気づいたら何処かへ行っていた。


今の私の世界はまさきさんを軸に回っている。


まさきさんの存在を支えにして毎日を乗り越えれる。


毎日頭の中は気づいたらまさきさんに繋がっていった。


まさきさんが私の唯一の支えだった。手放すことは考えれなかった。


だけど、この関係に不安がなかったわけではない。


一体私達はどこに向かっていくのか。

ずっと、こんな夜の逢引を続けるのか?昼間に堂々と35歳の人と歩ける日が来るのか?それを私は本当に望んでる?


私達が辿り着く場所はあるのか?


いつも、私の日常の後ろにはそんな不穏な影が横たわっていた。









その週末私はデパートの子供イベント会場の短期のアルバイトだった。映画公開記念イベントみたいだった。


ボールプールで遊べる時間をはかったり、アトラクションを動かすボタンを押したりした。


子連れ家族が沢山いた。色んな夫婦がいた。若い夫婦、落ち着いた夫婦、親バカ全開で我が子の写真を撮るのに必死なやんちゃなパパ。


そんな様子を眺めながらふと想像した。


今、まさきさんが、子供を連れてここにやってきたら…。 


ゾワゾワっとした。


私はどうする?


他人のふり?「どうも…」って話す?一緒に働いている学生のバイトの人になんて説明する?「知り合い?」って聞かれたら?


私は頭の中に黒い何かがプツプツと湧き出て止まらなくなった。


もし、今たまたま、まさきさんが来たらどうしよう…という不安が頭を支配した。


1日のバイトですらこんなに偶然会ってしまうことに恐怖を感じるのだ。


大学の知り合いにでも見られた日には…。


私はどうなってしまうのだろう。


そんな事を考えていくうちに、まるで自分がゴールの存在しない暗い迷路をさまよっているような、途方のない気分になった。 


目の前で、幸せそうな子連れの夫婦が沢山ざわざわ動いている。 


あーなんて幸せそうなんだろう。


なんで、私にはみんなが普通にもっている幸せが、こんなにも遠いのだろう。





車のガラス越しに過ぎ去っていく夜のネオンが光る夜の街を眺めていた。

黒い車の助手席に座るのもなれてきた。

車は明るい街を離れて薄暗い住宅街の静かな道を走っていた。


「どこにいくんですか?」


「秘密」


ドキドキした。私は何をまさきさんに期待しているのだろう。そして、まさきさんは私をどうしたいのだろう。その陳腐な答えなんかとっくに分かっていたけれど。だけど、自分に都合がいいように分かっていないことにした。


そして、ある一軒家の前に車を駐車しだした。


「ここ…まさきさんの家ですか?」


「いや、親戚の家。今日使わないらしいから、かりた」


ちょっとよく分からなかったが、とりあえず二人きりでいられるなら、経緯なんてどうでもよかった。


家の中に入った。


一般的な普通の家だった。まさきさんはテレビの前のソファーに座った。


「こいよ」


私は少し離れて座った。


目の前のテレビはバラエティ番組がながれているが、何を話しているか全く頭にはいっていかなかった。


ただ、テレビの方を見ていただけだった。


「酒飲みなよ」


私は缶チューハイに手を伸ばした。

あー二人ともきっと考えていることは同じだ。


ただ、私には前を向いて、缶チューハイを飲むことしかできなかった。


そのあと、経緯は忘れたがちょっとした口喧嘩になった、私の言い回しに細かく修正をかけられて私がイライラしたのだ。


まあ、痴話喧嘩のようなものだったと思う。


その私のイライラを引き金にして、暗い隣の和室の部屋に移動させられた。私達は服を着たまま抱き合った。


もしかしたら、これがまさきさんの女性と寝る誘導パターンなのかもしれない。…なんて、下世話な事をぼんやり思った。


でも抱き合ったと言っても、まさきさんは性的な事はほとんどしなかった。


ただ、お母さんが子供にするように抱きしめた。私は今までに味わったことのない安心感に包まれた。


私達は暗闇の中ぽつりぽつりと話した。


「なんで、奥さんは離れていっちゃったんですか?」


「わかんねぇ。まあ、俺は浮気されたんだよ。しかも俺の友人にな。二人で出ていった。それから音沙汰なしよ」


「そんな、ひどい話ってあるんですね」


「昔なんて、俺の爪まで切ってくれてたのにな」


二人の間に何があったのかは分からないが、私があまり深く聞く事は不毛な気がした。


「まさきさんは、それで子供2人を育てるなんてすごいですね」


私はとりあえず、当たり障りのない言葉を言った。


「…………俺はな、人のことばっかり考えてる。それは自分のことを考えるのが、怖いからなんだよ」


その言葉を言った真意がわからなかった。


でも、この時感じた。


私達はどこか似ているって。


孤独に押し潰されそうなのは、私であって、まさきさんは孤独とは全く別の場所にいるのかと思っていた。


でも、形は違うけれど、根底は二人ともきっと同じなんだ。


一人ぽっちで色々抱えて寂しい。ってこと。


「………で、やってみたかあれ」


「………またその話ですか」


「大切なんだよ、悪いことじゃねえ」


「………」


「やったんだな。どうだった」


「もう!いいじゃないですか」


私ははぐらかそうとした。それでもまさきさんの目は真剣に私を見ていた。


その真剣な目だけが本当の私をみていた。


今は私は一人ぽっちじゃない。まさきさんといるこの瞬間だけ、私は私でいられる。


私はこの世界に確かに存在しているんだ。


この夜、孤独な雪の降る冬に、穴の中で寄り添う二匹のウサギのように一緒の布団でねた。


そして家に帰った時には空は薄明るくなっていた。


いつものように、私の家の中ではなんの変哲もなく日常が流れていた。









まさきさんと夜会うようになってから、私の大学生活は変わった。私の中にあったヘドロのようなものを、少しずつ、少しずつすくいとってくれた。


普通ってこんなに楽なんだね。まるで足かせをとったようだ。


特に男の人と話す時楽になった。


前の私は必死に周りに囲いをしているようだった。私の中のどうしようもない、醜くて情けない怪物に気付かれないように、囲いより内側に入られないように必死になっていた。


そう、私は男の人が嫌いだった。自分を苦しめるから。でもどこかではすごく求めていたんだ。でも、無駄にプライドの高い私はそんな素振りすらできなかった。その狭間で地獄のように苦しんだ。


そんな思わせぶりな態度で近づくな!勘違いしちゃうでしょ?期待しちゃうでしょ?どうせそんな事、他の女にもやってるでしょ?そして結局、他の女の所にみんないっちゃうんだ。私が必死に勘違いしないように頑張ってるのに。邪魔しないでよ。私を苦しめる男は嫌いだ。


そして、一番嫌いなのはそう思うしかできない自分自身だった。


惨め過ぎて、自分で自分を踏み潰してぐちゃぐちゃにしたかった。


犬の糞みたいなプライドなんて、ドブに捨ててしまいたかった。


でもそのプライドは私にべったりとこびり付いてとれなかったから、共存するしかなかった。アホみたいにツンツンするしかなかった。


「ツンデレなんだよ、あの子は」


ズキンッ。


先輩があまりにも冷たい態度の私のことをこう言ってたらしい。



そんな可愛らしいものじゃないよ。その正体ははひどく歪んだ途方に暮れるほどどうしようもない黒い塊だ。それをひたすら隠したのが、それだよ。


でも、もういいんだ。


私の中の怪物は今落ち着いているから。まさきさんのおかげで落ち着いているから。


私の怪物を真剣に見つめてくれる。


私にはまさきさんがいる。


私にはまさきさんが…。


自分の周りに必死に囲いをする必要がなくなったら、一気に日常生活を送るのが楽になった。


自然に笑えた、自然に話せた、色々な事に集中できた。


特に同じ研究室のある一人の男の先輩と仲良くなった。こんなに意識せずに自然に仲良く話せる人は初めてかもしれない。


私の大学生活は明らかに変わり始めた。


だけど、やっぱり心のどこかでは不穏な闇を抱えたままだった。


まさきさんとのこの先を考えると、一気に真っ暗な世界に吸い込まれるようだった。


吸い込まれそうになったとたん、いつも、すっと蓋をした。見なかったことにした。


今の私にはまさきさんしかいない。


私はまた、夜の街に吸い込まれていった。







高速道路みたいな橋のような所を車で走っている。

窓の外を眺めると、メルヘンな世界を彷彿させるどぎついカラフルな光がポツリポツリと下に広がってみえる。


まさきさんは今日はなんだか素っ気ない。


何処に行くのだろう。


そのうちに、側道に入って低い場所へ走っていき、ある建物の前に車を止めた。そこは明らかにラブホテルだった。


私は体がガチガチになった。いよいよここまできてしまった。もう言い訳は何もできない。確信犯だ。


「ほら来いよ」


「…………」


私はついていった。まるで、ジェットコースターがてっぺんに登っていく時の心境のようだった。ガッガッガッガッ……って音を聞くしかできないあれ。


私達は部屋に入った。


まさきさんはベッドに腰かけた。


私は離れた椅子に座った。


まさきさんは目の前のテレビをつけた。


AVが流れていた。しかも最高潮の場面だった。


私はこんなの見たことがなかった。もう駄目だった。こんなの、私の中でどう処理したらいい?


「早速やってんな」


「…………そうですね」


蚊の鳴くような声でいった。最高に平然を装っていた。


リズミカルな声をBGMに私たちは会話した。


「俺はもうこんなの見てもなんも思わねーよ」


「そう…なんですか?」


「もう…な」


「………………」


二人テレビの方を向いたまま沈黙が流れた。


「来いよ」


私は黙ってベッドに行くしかなかった。


まさきさんは黙ったまま私の服を脱がした。

それからは、私はまるで幼い子供が全てを委ねて母親のいいなりになるように、体を開いた。


この時の私は自分の体なのに、まさきさんの物になったような、不思議な気分になった。


この時、私の全てを見せた。そして肌と肌を触れあった。


だけど、それだけだった。セックスするには私もまさきさんも状態としては全く不足はなかった。


だけど、私はやっぱり怖かったのだ。それをまさきさんは察知してそれ以上の事はしなかった。


私はまさきさんの裸の胸板に顔を埋めて抱きしめた。


こんなに落ち着く場所は初めてだった。


ここが私の本当の居場所だと心から思った。


大学じゃなく、ずっと住んでいる自分の家でもなく、自分の部屋のベッドの上にもなかった。どこか分からないラブホテルの、出会ったばかりの昼の顔をしらない男性の胸の中にやっとみつけた。


ずっと私はここに来たかったんだ。


「ねえ、まさきさん」


「ん?」


「私ね…………………まさきさんが居なかったら死んでたかもしれない」


声が震えて、最後の方は声にならなかった。涙が溢れ出した。


「言わなくてもわかってる。わかってるって」


そう言って強く抱きしめた。


「あのね、まさきさんを初めて付き合った人ってことにしていい?ファーストキスの相手が付き合ってない人って悲しいから」


「別にいいよ」


そうだ。私たちは互いに一度も付き合おうなんて言ってない。規格外の関係。だけど、そこらへんの適当な恋人達より強く結びついている自信がある。その結びつけているものが普通とは違っても、しっかりと結びついている事実には変わりないんだ。


私達は一緒に眠った。


こんなに、気持ちよく眠りの世界に入れたのは、いつぶりだろう。









朝になった。


ぼんやりと思った。

そういえばここ、ラブホテルだ。


ブー


バイブが鳴った。母親からのメールだ。 


“今日はどうしたの?"


だってさ。ははっ。真顔で心の中で笑った。私は特に動揺することなく返信した。


"友達と徹夜でカラオケ"


ブーっとバイブがなる。


"了解!"


まさか、娘がラブホテルにいるなんて夢にも思ってないんだろうな。知らないって罪だなって思った。母親は私にいつも言ってた「あなたは、ちゃんとやるって信じてるから」すべてこの言葉で片付けられた。ちゃんとしなきゃ!ちゃんとしなきゃ!というプレッシャーにどれほど苦しめられたか。

でも最近、それが考えるのがめんどくさい時の常套句として使われていることも知った。深夜に帰るのも、朝帰りも、全部「あなたは大丈夫だって信じてるから!」で終わり。本当は少しぐらい心配して欲しかったんだよ?気づいてた?


でも…もう気づかなくても大丈夫だよ、お母さん。私はちゃんと一人でやるから。安心してピエロの舞台だけみてて。


「………大丈夫か?」


携帯を眺めている私を見て隣のまさきさんが尋ねた。


「うん、大丈夫」


「そう」


私達はホテルから出る為に服を着て準備した。

静かな時が流れる。テーブルの上に飴が置いてあった。私はこそっとポケットに入れた。しばらくして二人は座ったまま無言でぼんやりした。私は、今ラブホテルにいるんだなぁ、と改めてぼんやりと思った。まだ夢の中にいるみたいだ。

次の瞬間隣にいたまさきさんがスッと立ち上がった。


そして、私の真ん前に立って、顔の前でパンツを脱いだ。あそこがあらわになった。


私は反応に困った。しばらくそれを凝視して、どうしようもなく、飼い主に機嫌を伺う犬の様な目で見上げた。まさきさんは無表情で私を見下ろしていた。 


無音の時が流れた。


それは一瞬だが永遠のように感じた。


薄暗いラブホテルに、哀愁を帯びたこげキャラメルみたいな朝日が横からさしていた。


しばらくしてまさきさんは無言でしまい、何事もなかったようにドアへと向かった。


私も静かにあとを追った。


薄暗いラブホテルでの朝の滑稽ともとれるその無音の時間は、まるで洋画の耽美でロマンチックなワンシーンのように私の脳に刻み込まれた。









大学の生活はいきなり順調になった。研究室も楽しかった。こんなに充実した大学生活は今までなかった。


なんでも一生懸命やろうと思った。私は死の淵から生還したと考えたらなんでも頑張れる気がした。


今を、一瞬一瞬を、命を燃やすように懸命に生きた。



仲良くなったあの同じ研究室の男の先輩がしっかりと教えてくれたから心強かった。こんなに信頼できて楽しく話せる先輩に会えてよかったと心から思った。こんなに気軽に話せる異性の友達は初めてだった。


ある時、ゼミ関係で遅くまで大学に一人でいた時、あの先輩がいきなり部屋に入ってきて、こう言った。


「あの…今彼氏っています?」


私は一瞬訳がわからなかった。


「いない…ですよ」


こういうしかなかった。


「じゃあ、俺アプローチしていい?」


私は雷に打たれたみたいだった。


「…はい」


こう言う以外なにがあっただろうか。

私は世界が変わる瞬間を見た気がした。


その夜は、何かが変わる期待で興奮して寝れなかった。こんなに、ドキドキとワクワクと希望で満ちた明るい夜は生まれて初めてだった。





次の日の夜、まさきさんに会ってラブホテルに行った。

特になにをする訳でもなく、ベッドで寝た。

「私、実は昨日告白されました」

「よかったじゃねぇか」

それ以上は何も言わなかった。


私は分かっていた。まさきさんはこういう反応をするって。


そして私達はいつものように抱き合った。まさきさんは言った。


「やってみようよ」


なんだかいつもと違うトーンな気がした。


「でも…まだ怖い…きっと痛いし…」

「そんなの頑張らないと、痛いままだ」


私の足を強引に開いた。

今までと違う対応に私はたじろいだ。


「いやだってば!」私は強く拒否した。


重い空気が流れる。


そのあと、まさきさんは私に背中を向けて寝転がりボソっと言った。


「頑張らない奴はきらい」


私は焦った。見放される。


「頑張るから、次は頑張るから…ねえってば」


体を揺すった。

泣きながら訴えた。

お母さんに見放された幼子のように。アホみたいに甘ったれた声で。

だけどいくら懇願して何度も呼びかけてもまさきさんが振り返ることはなかった。


一人で、ベッドの上で夜中、朝になるまでしくしくと泣き続けた。すごく惨めだった。


その時、王子様が突然カエルになったような幻滅を覚えた。

100年の恋も覚めるとはまさにこういう瞬間なんだと。


私はまさきさんと同じ空間にいるのに一人ぽっちに戻った。まさきさんはもう今までのまさきさんじゃなくなっていた。


私は今までまさきさんに、幻想を抱いていただけなんだ。自分のことを何でも受け入れてくれるって。私だけのスーパーヒーローみたいに、どんな時でもかけつけてくれるって。だけど、まさきさんもただの弱い人間だった。それは当たり前なのに、私は自分の都合のいいようにまさきさんという聖人を作り上げた。そして、そうじゃないと察知するやいなや勝手に幻滅した。身勝手なのはわかってる。でももう、前の様には戻れない。


さようなら。


心の中で呟いた。


長い長い夜だった。


朝になってまさきさんは、ホテル近くの駅まで車で送ってくれた。賑やかな大きな駅だった。


目をはらした私は言った。

「じゃあ、さようなら」


「…またな」

 

「…今までありがとうございました。………もう本当のさよならです」


「どういうこと?」


「……………さようなら」


「…………………じゃあな」


私は泣きながら駅へ向かった。涙が溢れて止まらない。さようならまさきさん。ありがとうまさきさん。本当に愛してたんだよ。嘘じゃない。あなたのおかげで生きれた。お別れだけど、あなたは私の一部だから。

周りの人から見たら、完全に失恋に打ちひしがれる女だっただろう。


自分で自分のことを「こんなシーンよくドラマでみるベタなやつじゃん」ってどこかで思った。でも、どうにも止められなかった。


電車の中でも家までの道でも泣いていた。家に着いてからも泣いた。


私は結局はまさきさんを利用したのだ。出ていったまさきさんの奥さんと何も変わらない。自分の幸せのために、まさきさんを踏み台にして、蹴り捨てて、振り返らずに走り去った。最後までまさきさんに甘えっぱなしだった。でも、まさきさんのおかげで生き続けることができた。ありがとう。


誰も知らない恋は、誰も知ることなく二人だけの中で終わった。


そして、この日を境に人生の色が変わり始めた。私は今まで喉から手が出る程欲しかった青春を怒涛の様に手に入れる事ができるのだ。


それこそ学生時代滑り込みセーフで。


もうすぐ死ぬから、神様がこんなにプレゼントしてくれたのかな?って浮かれたフレーズを本気で口走るぐらい、世界が変わった。まるで長い長い氷河期が終わったみたいだった。


それは偶然じゃないことぐらい分かっていた。


私とあの人と過ごした時間は物理的には短かった。だけど、まるで異次元の様に過ぎた、あの幻のような時間は私という存在に劇的な化学変化をさせた。それは私の人生をも劇的に変えた。


そして、その異空間での出来事はあまりにも密やかすぎて、現実だったにもかかわらず、夢との区別がつかなくなってしまうほど儚く消えてしまいそうだった。


でも真実は消えない。


例え、あの人の口から出た言葉が嘘であったとしても、体目的だったとしても、騙されていたとしても、そんなの私にとって大した問題ではなかった。


私の人生を救って、変えてくれたということだけが私にとって重要であり、かけがえのない真実だった。


そういう意味では永遠にあなたを愛しているのだ。



現実世界ではもう全く接点はないけれど、異次元ではあなたは「私という存在」と切り離せれない存在になってしまった。


でもそんなの関係なく、現実では時の流れと共に、容赦なく記憶は消えていく。


時々ふとした時、自分の部屋の机のすみに置いている安っぽい飴に目がとまる。記憶がよみがえる。涙があふれてくる。この飴だけが、あの日々が夢ではなかったとしっかり教えてくれる。今はまだこんなにもあの時の事を細かく思い出せる。


でも…いつの日か、見た夢を徐々に忘れていくように、なかったことになっちゃうのだろうか。











眩しい朝の光の中目が覚めた。

清々しい朝だ。

チュン、チュンと鳥の鳴き声。


あーあ…間違いなく幸せな日曜日の朝だ。


横を向いた。


スースーと寝息を立てて似たような小さな寝顔が2つあった。


その後ろに目をやると、夫が布団の中で携帯をいじっていた。


「起きてたんだ」


私は話しかけた。


「うん、昨日早く寝過ぎて早く目が覚めた」


「ふーん」


「まさみは?」


「夜更かしちゃったから、寝不足」


「へー」


夫は携帯電話を見続けている。


「なんか、昔の事を思い出してたら、眠れなくなってさ」


「……………」


「年取ったよね。もう30代なんて信じられないよ」


「そうだね」


「よーし、朝ごはんの準備するか」


私は布団から出てキッチンへ向かった。


昔の自分が今の自分の未来を想像できただろうか。


私は昔の自分のドロドロとした、黒いものをたくさん抱えていた日々を時々振りかえる。


情けなく、未熟で、だけど、汗水たらしてなりふり構わず、泥まみれになりながら必死で生きていたあの頃を。


太宰治の「恥の多い生涯を送ってきました」…だ。


昔を思い出すたびに、苦しかったけれど刺激的なあの日々を懐かしく、実は少し輝いてさえ見えてしまう自分に驚く。


きっと刺激的で濃い日々だったからこそ、忘れないように、何度も振り返ってしまうのだろう。


特に今が平穏で起伏の少ない水で薄まったような毎日だから、よりそう感じるのかもしれない。


だけど、確実に年を経るごとに、今の平穏な日々を積み重ねていくうちに、その記憶はぼやけていく。だんだん思い出せなくなってきているのを実感する。


昔の私は今の私を手の届かない世界と思っていたように、今の私は昔の私に手が届かない。


まるで、新しい島に行くために、イカダでその島を離れていくように。


少しずつ、少しずつ、離れていって、もう私が育った島は、ちっぽけな豆のようだ。


ああ、そうしてその島は夢幻のようになっていくんだろう。


ああ、未練がましくずっとイカダからあの島をみているのはなんで?


そうだ、忘れてしまったら、今のありがたさが分からなくなってしまうからだ。


人間は次の段階に行くために、「忘れる」ように神様がしたのかもしれない。


出産の痛みだってそうだ。


出産の痛みをいつまでもいつまでも、鮮明に覚えていたら、次の出産に挑めない。


痛みを忘れるから、挑戦できる。

次の段階に踏み出せるのかもしれない。


でも、「忘れる」という本能の対処法として形にして残す手段も人間は確かに持っているのだ。 


私の「苦しく辛く情けなかった日々」は完全に忘れ去ってしまってもいいものか、今の私にはよく分からない。


いや、忘れたくないんだ。あの日々は確かに今の私の一部だし、大切な宝物だから。


でも、容赦なく本能は忘れさせる。


そして、振り返るな、前を見ろ!っていうんだ。


だから、昔のあの時が、豆粒みたいな大きさの島になってしまった今、まだ何とか見えるうちに、何とか思い出せるうちに、形に残したい。人間にはそういうどうしようもない衝動があるのかもしれない。それが芸術ってやつ?


消えてしまったらいくらあがいても一生手の届かないものになってしまうから。


でも私には、その島を描く筆も無ければ、描き方もわからない。描いたとしてもどうしようもない。そして時間もない主婦なのだ。


もし、21歳の私がいた真っ暗な世界と同じような世界に今いる住人がいたら、私の「恥の多い真っ暗な日々」を知って欲しいと思った。


あの時の一人ぽっちの私が時空を超えて、誰かの心の支えになれたら、なんて素敵なんだろう。


だけど、その手段をもっていない私は今日も、日常生活を送るためにせっせとスーパーにいって値下げ商品を熱心に吟味しているんだ。


今の私には、もし昔の私のように密かに内に絶望を持った大学生が目の前を自転車で通り過ぎたとしても、ただの背景の一部になることしかできないのだ。通りすがりのスーパーの袋を下げた能天気な主婦にしかなれない。


ーとととと…バタン


「朝ごはんまだー?」


「あ、起きたのー。もう少し待ってね」


この5歳の子供にはどんな未来が待っているのだろう。


『人間失格』が心に響く時期がこの子の人生にはあるのだろうか?


別になくてもいいけど。この子の運命はこの子のものだ。


あの時は支えだった『人間失格』も今では全く心に響いてこないのが不思議だ。


その時のこの本に対する情熱にも似た思いをもう思い出すことがどうしてもできないのだ。


この本が私の心の琴線に触れる時期は過ぎ去って、手の届かないものになった。


それがいいか悪いかは分からない。


「ただ、一切は過ぎて行きます」


そう、一切は過ぎ去っていく。


確かに、その流れの中で辛いこと、絶望することは沢山あるかもしれない。


でもその反対も必ずある。


変わらないものなんてない、夜は明けるし、冬はいつか終わる。


生き続けたら、変わり続けることができる。


恥の多い生涯でもいい。生き続ければ。生き続ける限り何度だって滑り込みセーフできるのだから。


もしも、今の私が、21歳の絶望している私に、人知れず真っ暗闇の夜に一人ぽっちで枕を濡らしている私に時空を超えて会いに行けるなら、自信を持って輝いた目でこう話かける。


「努力は必ず報われる。とにかく生き続けて」って。



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