第3話
職員会議が終わると、藤堂は素早く帰り支度を整えた。
「お先に」
すれ違う先輩教諭、金山花子に愛想の無い挨拶をすると、花子が藤堂の腕に手をかけ引き止めた。
「あら、藤堂先生お帰りですの?お早いんですのね」
「はあ」
藤堂は眉を顰めた。
花子は、女生徒を目の敵にしている生徒指導担当の四十路の古典の教師だ。
おまけに何かと藤堂や都筑の世話を焼いてくる。
都筑は愛想よく相手をしているようだが、藤堂は酷く迷惑していた。
花子はそんな事など露ほども知らない。赤いフレームのつり上がった眼鏡を押し上げると、もじもじと腰を振り、厚化粧の頬を染めた。
「あの、よかったらこれからお茶でも……」
「急いでるんです」
藤堂の視線は、花子ではなく、珍しく職員室の自席についている都筑に向けられていた。
自分とは正反対の、柔らかな雰囲気を纏った化学教師。
その横顔を憎々しげに睨むと、藤堂は花子の手を振り払った。
「失礼します」
「ご……ご苦労様」
ずり落ちた眼鏡を押し上げると、花子は咳払いを1つした。
この程度の事でいちいち凹むような女ではない。ブラウスの大きなリボンを直すと、直ぐにもう1人のお気に入りの元へと歩み寄った。
「都筑先生」
「はい」
都筑は走らせていたシャープペンを置くと、事務椅子を回転させて花子を振り返り、いつもの愛想の良い笑顔を見せた。
花子が「日本の微笑みの貴公子」と太鼓判を押している笑顔だ。
「もうお帰りになるのかしら」
「僕はまだ仕事が残ってますので、もう暫く残りますよ」
「お手伝いしましょうか?」
「いえ。お気遣い無く。仕事と言っても、先生のお手を煩わすほどの仕事じゃないんですよ」
早速世話を焼こうとする花子に丁重に断ると、都筑は書き込んでいた紙を掲げた。
「これですから」
「あら、指導計画書。本当、都筑先生は真面目でご立派ね」
花子は大げさなほどに都筑を誉めると、きょろきょろと周りを窺い、声を落とした。
「宜しければ、ご相談に乗りますよ。そうね、後ほどご一緒にお食事なんか……」
「すみません」
都筑はさも申し訳なさそうに眉を下げた。
「折角なんですが、家で子猫が待ってるんです。早く帰ってやらないと」
「まあ、そうなんですの。残念だわあ」
「ええ、また是非誘ってください。僕も久し振りに大勢で飲みたいですし」
都筑はにっこりと微笑むと、さりげなく金山との食事を大勢での飲み会にすり替えた。
学校から都筑のマンションへは電車に乗る。
しかし、まずい事に帰宅ラッシュにあってしまった。
津波のような人の波に車内の奥に押し込まれ身動きが出来ない。
その上、体中に人の熱を感じ、気持ちが悪かった。
車両が右へ左へと揺れ、鈴音の身体と、それに密着する人の身体が擦れ合う。
その時、鈴音の身体が車両の揺れと反する動きを感じた。
車両が水平に動くのに対し、それは垂直に動く。
それだけではない。終いには明らかな意思を持って、鈴音の身体の上をもぞもぞと動き始めた。
痴漢だ。
生温かく、じっとりと濡れた掌が、鈴音の太腿をまさぐり、やがてそれは内腿へと移動を始めた。 必死に足を閉じる鈴音の内腿の肉を楽しむかのように、やんわりと掴みさえする。
助けてと叫びたいのに、舌が縺れて声すら出ない。
鼻がツンと痛んだその時。
「何してる」
そんな冷ややかな声とともに男の手が掴み上げられ、車内の人の目が、一斉にそれに注がれた。
「こんな風にしか処理できないのか」
そう言い放つ声に聞き覚えがあった。
恐る恐る顔を上げる。
そこには、スーツ姿の中年の手を掴み上げる藤堂の姿があった。
「失礼な。なんだ君は!」
藤堂は、怒鳴り散らす男のジャケットの襟を掴んだ。
乱暴に引かれた襟には、小さな社章がついていた。昨今何かと責任追及をされている国営放送の社章である。
「今すぐ警察に突き出してもいいんだが……。あんたの会社、今トラブル起こされちゃ困るんじゃないのか?それとも、二度と出来ないように、この場で腕をへし折った方が良いのかな?」
そう言って藤堂が冷笑を浴びせると、男はぎょっと目を剥き、タイミングよく開いたドアから転げるように出て行った。
藤堂が人を掻き分けて数歩前へと進むと、痴漢騒ぎに気付いた中年女性に肩を抱かれ、震える鈴音がいた。
「桜井、大丈夫か」
流石に黙っていられず声を掛ける。
応えたのは中年の女性の方だった。
「あなた、彼氏?」
女性は、藤堂が鈴音の名を知っていた事と言うだけで恋人だと決め付けてしまっているようだった。
「だめよ、ちゃんと見てなきゃ。この時間帯は結構危ないんだから」
「すみません」
藤堂は軽く頭を下げると、鈴音を覗き込んだ。
「桜井」
こんな状況でなければ、藤堂に対して恐れしか感じなかっただろう。
だが、知った顔、そして自分を助けてくれたのだと言う事実が、鈴音を安心させたようだった。
「うえっ」
藤堂の顔を見た途端、鈴音は堰を切ったように泣き出した。
「ほらほら。もう大丈夫よ。彼氏サンが来たわ」
女性はそう言うと、鈴音の背中を何度か摩り、そして藤堂の胸に押し込んだ。
「可哀相に。震えが止まらないみたいなの」
女性の言う通り、鈴音の身体は、がたがたと激しく震えている。
藤堂は握り締めていた拳を開くと、おずおずと鈴音腰に手を回し、折れそうに細いその身体をしっかりと抱いた。
「ご迷惑をおかけしました」
「気をつけてね」
藤堂がもう一度頭を下げると、女性は小さく笑って背を向ける。それに従うように他の客も2人から視線を逸らし、車内は何事も無かったように平静を取り戻した。
だが、鈴音の涙は止まる事を知らず、藤堂のシャツに顔を押し付け、時折しゃくりあげては泣いている。
藤堂は短い溜息をつくと、鈴音の耳元で囁いた。
「次で……降りよう」
人気の無い駅で下車すると、藤堂はふらつく鈴音を引き摺るようにして、線路を渡る通路へと続く階段の下へと連れて行き、ベンチに座らせた。
「ほら」
ホームに設置された自販機でミネラルウォーターを買うと、鈴音に握らせ、自分も隣に腰を下ろす。
「少しは落ち着いたか」
鈴音はミネラルウォーターのボトルを力なく握ったまま頷く。
それを横目で見ると、藤堂は膝に肘をつき、両手で何度か顔を擦って長い溜息をついた。
「どうして直ぐに助けを呼ばなかったんだ」
「こ……」
「ん?」
「声、出なかっ……」
搾り出すようにそう言うと、鈴音はまた声を押し殺して泣いた。
震える肩。
流れ落ちる髪。
露出するうなじ。
白く細い腕に零れる涙。
藤堂の胸が、刃物で切られたように痛んだ。
「桜井」
手を伸ばし、鈴音の頬に触れる。
「泣くなよ」
指先が鈴音の涙で濡れると、また胸が鋭い痛みを発する。
その痛みに顔を顰めると、藤堂は繰り返した。
「泣くな!」
ごう。
轟音を轟かせ、直ぐ目の前をまた電車が走り抜けていく。
鈴音はそれを、目を見開き、しかし身動きできぬまま、藤堂の肩越しに見ていた。
きつく抱き締められていた。
「お前が泣くと……痛いんだよ」
鈴音の髪に唇を埋めるようにして呟くと、藤堂は身体を離し、両手で鈴音の頬を挟みこんだ。
「だから泣くな」
藤堂が鈴音の唇に自分のそれを押し当てると、鈴音の手からゴトリとミネラルウォーターのボトルが落ち、ホームを転がった。
「や……先……」
必死に訴えながら、鈴音の唇は空気を求めて喘ぎ、開く。
すると、それを待っていたかのように、即座にそのキスはより深いものに変った。
藤堂の胸を押す小さな両手を纏め上げると、何とか逃れようとする鈴音を背後から引き寄せる。
もう、藤堂は自分を止める事が出来なかった。
激しい動悸と眩暈の中、藤堂はスカートから露出した、自分の腕ほどしかない鈴音の腿に手を這わせた。
「どこ?」
「なに……」
「さっきのバカに触られたの、どこだよ」
藤堂の手は、まるで何かを拭うように鈴音の内腿の上を動いた。
「やっ、やめ……」
「都筑にも、こういう事されてるの」
鈴音の身体がびくんと跳ね、大きな目は驚愕に見開かれた。
「フーン」
そう言ったが早いか、藤堂はあっという間に鈴音の身体をベンチに横倒しにした。
「ここ、死角なんだよ。知ってた?」
「やめて!」
「いやだね」
藤堂は鈴音の手を取ると、ベンチに押し付けた。
「桜井、俺に言ったよな。あからさまに拒絶する事無いじゃないかって」
言いながら鈴音の顎から頬へと唇を滑らせていく。
そして耳へとたどり着くと、囁いた。
「ねえ。どうしてくれんの?」
「だからってこんな……」
「試してるんじゃない!」
吐き捨てるように言うと、藤堂は鈴音を睨んだ。
「言ったろ。俺だって……誰でも良い訳じゃないんだよ」
「……い」
「え?」
「先生、怖い!」
「おい、今の見た?」
ホームを通過する電車の中で、少年は隣で吊革を掴んでいる友人を肘で突付いた。
「見たって、なに」
「ホームに、スゲーいちゃついてるカップルがいた」
「マジ?」
少年はにやついた笑みを浮かべると、興奮したように何度も頷く。
「なんかもう、ホームでヤっちゃいそうな勢い」
「マジかよー。ヤベー。つか、オメー、もっと早く言えよ!」
「ムリだっつの。これ快速だし、あの駅通過すんじゃん。でもさ。あれ、ウチの女子の制服だったぜ?」
その時、少年の頭をこつんと叩く者がいた。
「こら。大きな声でなんて話してるんだ」
「げ。都筑……先生」
「回りに迷惑になるから、もう少し静かにしなさい」
「へーい」
首を竦める少年の頭をくしゃりと撫でると、都筑は窓の外に目をやった。
仕事は思ったより早く片付いた。
運のいい事に、快速にも乗れた。この分なら鈴音をそう待たせることも無いだろう。
都筑は腕時計を眺めると、目を細めた。
藤堂はベンチにぼんやりと座り、ミネラルウォーターのボトルを弄んでいた。
──怖い。先生、怖い。
鈴音の声が頭の中でグルグルと渦を巻き、鈴音の泣き顔がフラッシュバックする。
「何やってるんだ、俺は」
藤堂は、遣り切れない自身への苛立ちにギリギリと奥歯を噛締めると、中身が入ったままのボトルをゴミ箱に投げ捨てた。
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