第4話

 インターフォンを押そうとして、指が止まった。

 ホームに滑り込んできた電車に飛び乗り、都筑の顔を見たい一心でここまでやって来た筈なのに、急に怖くなったのだ。

 手を引っ込め、一歩下がる。このまま帰るべきだろうか。

 そう思い悩んでいると、ドアが開いた。

「やっぱり」

 ネクタイを外したワイシャツとスラックス姿の都筑が顔を出した。

「おかえり。遅かったね」

「まだ、押してないのに」

 驚く鈴音に都筑は微笑み、

「鈴音探知機が内蔵されてるの。俺は」

 そう言いながら、ドアを大きく開いた。

 だが、鈴音はドアの前に立ったまま動く気配が無い。

都筑は訝しげに鈴音を見た。

「どうしたの」

「う……ん」

 様子がおかしい。それは直ぐに分った。

 だが、一体何があったというのだろう。

「おいで」

 都筑は嘆息すると、鈴音を引き寄せた。

 ぽすっ、と鈴音がワイシャツの胸に転がり込み、都筑と鈴音の身体に押し出された空気が、都筑の鼻先をかすめる。

 と、途端に都筑が眉を顰めた。明らかに、自分のものとは違うコロンの匂いがする。

「俺のじゃない」

 ぽそりと呟くと、都筑は犬のように鈴音の首や髪、制服の匂いを嗅いだ。

 自分のコロンとは違う。だが、そんじょそこらにあるようなものとも違う、珍しい香りだった。

「俺のコロンと違う」

 鈴音の身体を離し、厳しい表情でその顔を覗き込む。

「鈴音、何処にいた?誰といたの?何してたんだよ」

 都筑は矢継ぎ早に追求を始めた。

 だが鈴音は答えない。ぎゅっと目を瞑ると、唇を噛み俯いた。

 誰かといた。

 それを肯定するような態度と、何かあったと確信せざるを得ない空気が、都筑の嫉妬心に油を注いだ。

「俺に言えないような事でも……してたの」

「そんなんじゃ──」

「じゃあ何だよ。してません、されました。ってヤツ?」

 鈴音は答えられなかった。

 ここまで怒りを露にした都筑を見たのも初めてだった上、どう言えばいいのか、どう説明すればいいのか分らなかったのだ。

 自分を見下ろしている都筑が怖かった。

「どうなんだよ」

「ごめん……なさい」

 結局、それしか思いつかなかった。

「そう。わかった」

「せんせ……」

「ちょっとおいで」

 都筑は鈴音の手を取ると、引き摺るようにバスルームの脱衣場へ連れて行った。

 ガッと乱暴にバスルームの折り戸を開け、電気をつける。

 そして、不安げに自分を見上げる鈴音を横目で睨むと言った。

「脱げ」

 都筑は戸惑う鈴音の制服を剥ぎ取ると、下着も取り、自分はワイシャツとスラックスのままバスルームに入った。

 コックを捻り、勢い良くシャワーを出すと、自分の服がずぶ濡れになるのもお構いなしに、鈴音の頭から掛ける。

 無言でシャワーを掛け続ける都筑に、鈴音はとうとう嗚咽を漏らし始めた。

 だが、都筑は止めようとしない。シャンプー取ると、鈴音の頭から乱暴にぶっかけ、全身を自分の掌で洗い始めた。

 髪についたコロンを洗い流す。

 首にこびりついた気配を洗い流す。

 都筑は無言で洗い流した。

 鈴音の全身に残る、誰かを。

「こっち向いて」

 シャンプーの泡が切れると、都筑はシャワーを止めた。

 小さくしゃくり上げ、未だ顔を上げられない鈴音の顎に手をかけると、それを持ち上げる。

 唇を噛む鈴音の目からは、次々と涙があふれ出ていた。

 それを苦しげに見詰めると、都筑はびしょ濡れのワイシャツの胸に、裸の鈴音を抱いた。

「ごめん。乱暴だった」

 鈴音の身体からは、都筑と同じシャンプーの匂いがする。

 都筑は安心したように短く溜息をつくと、鈴音の濡れた肩に唇を押し当て、聞いた。

「怒ってる?」

 鈴音はふるふると頭を振る。滴がぽたぽたと落ちた。

「良かった」

 ようやく都筑の顔に笑顔が戻った。いつもの、優しい目だ。

 そして何度も鈴音の濡れた髪を撫でると、未だ不安げな鈴音を見詰めた。

「鈴音。キスしていい?」

「ふえっ」

 もう二度と聞けないのではないかと思ったその言葉に、鈴音は溢れる涙を抑えることが出来なかった。

 都筑の唇が、濡れた額、瞼、頬と順に下り、唇に触れた。

「鈴音、口開けて」

「ふ……」

「もっと。もっと開けて」

 都筑の優しい声を聞きながら、鈴音は痺れる唇を開いた。




「鈴音は良く言えば無垢なんだけど」

 鈴音にバスタオルを掛けてやると、都筑はゴシゴシと鈴音の濡れた髪を拭き、隙だらけなんだよと続けた。

「ゴメンなさい」

 ぽそりと言うと、鈴音は再びふにゃふにゃと泣き出す。

「ダーメ」

 都筑は濡れたシャツを洗濯機に放り込むと鈴音を振り返った。

「そんな風に泣いた位じゃダメだ。たっぷり、時間かけて鳴かしてやる」

 そう言うと、都筑は鈴音の鼻の頭にキスをした。





 都筑は腕時計を見た。職員朝礼までまだ20分ある。

 白衣に手を突っ込み、スポーツサンダルをパタパタ言わせながら職員用のトイレに向かっていた。職員室に入る前に、もう一度顔洗って行こうと思ったのだ。

 昨日鈴音に会ったお陰で体調は頗る良く、身体はスッキリしているが、兎に角気分が良くない。

 原因は分っている。あのコロンの所為だ。

 首を鳴らしながらトイレに入ると、先客がいた。

 英語教諭の藤堂がハンカチを口にくわえ、長身を折るようにして手を洗っている。

 鏡越しに目が合うと、藤堂はハンカチで手を拭きながらこちらへ向かってきた。

 ちらりと横目で都筑を見る。

「おはよう、ございます」

「おは……」

 挨拶を返そうとした都筑の顔が強張った。

 すれ違いざまに、ふわりと漂った藤堂のコロンの匂い。

 自分が洗い流した、あの匂い。

「あんたか」

 都筑は出て行こうとした藤堂の腕を掴んだ。

「何が」

 藤堂は驚く風でもない。いつもの冷めた目で、ほぼ同じ高さにある都筑の目を見返している。

 都筑は確信した。

 間違いない。この男だと。

「わざと証拠残したろ」

 怒りを剥き出しにする都筑の手を振り払うと、藤堂は両手を黒いパンツのポケットに突っ込み、くすりと笑った。

「別にわざとじゃないけど。でもまあ、あれじゃコロンが移っても仕方ないかな」

「あれって何だよ」

 都筑は奥歯を噛締め、殴り掛からんばかりに藤堂をねめつけている。

 しかし、藤堂は一向に動じない。それどころか、都筑を見るその目は嘲笑っているかのようだ。

 そして、都筑のイライラが頂点に達した頃を見計らうように、藤堂は爆弾を投げつけた。

「桜井、可愛いね。無防備で」

 言って、挑むように都筑を見た。

「あんな声出されたら、我慢出来ない」

 どかんと大きな音が響き渡った。

 都筑が藤堂の胸倉を掴み、壁に押し付けたのだ。

 校内で見せた事のない、理性を打ち捨て、激昂した姿。

 藤堂はにやりと口の端を上げた。

「そう言う顔もするのか」

「何した」

 都筑は茶化す藤堂を無視すると問い質した。

 事と次第によっては何事も辞さない。

「桜井から……聞いてないのか」

 藤堂は、都筑が何も知らない事に驚いたようだった。

 しかし、また直ぐに小馬鹿にするようなせせら笑いを浮かべる。

「フーン。じゃあ、俺も言えないね。それよりその手、離してくれないか。シャツが皺になる」

「鈴音に近づくな」

 息が掛かるほどに額を近づけると、都筑は言った。

 だが、藤堂は猛り立つ都筑の肩を押し戻すと、また冷笑を浮かべる。

「子供じゃないんだからさ。近づくな、触るななんて言われて」

 言って真っ直ぐに都筑を見る。

「約束出来る訳ないだろ」

「貴様」

 都筑は藤堂のワイシャツを力任せに引いた。すると、藤堂も都筑の胸に手を伸ばし、同じ様に都筑のシャツを引く。

 2人の教師は、再び至近距離で睨み合った。

「あのねえ、都筑先生」

 先に手を放したのは藤堂だった。

 ドンと都筑の胸を押して距離を取り、言葉を繋ぐ。

「誰かを想って、手に入れようと必死になる事が悪い事なワケ?」

「本気で惚れてるなら、思い遣るもんじゃないのか!」

「お生憎様。俺は手段を選ばないんだ」

 間髪入れずに言い返してくる都筑にそう言うと、藤堂は乱れたシャツとネクタイを直し、更に続けた。

「でも、良かったよ。あんたはあの子に本気で惚れてて、思い遣ってるんだろ。なら、彼女が最終的に誰を選んだところで、それを受け入れられるんだよな。流石だよ、温厚で紳士的。真面目で優しい都筑先生」

 藤堂は一気にまくし立てると、刃物のような鋭い目で都筑を睨んだ。

「どいてくれ。授業がある」

 都筑の横をすり抜け藤堂が出て行こうとすると、鼻眼鏡の男が入ってきた。

 のんびりとした性格の主任教諭、山田である。

「あ……あれ。どしたの、2人して」

 ただならぬ雰囲気に、山田はおろおろと2人を見比べている。

 その顔を一瞥すると、藤堂は面倒臭げに髪をかきあげ、歩を進めた。

「別に。なんでもありません。失礼します」

 藤堂の姿が見えなくなると、山田は長い溜息をついた。

「はぁぁぁ。相変わらずだねえ、藤堂先生は。ホント、なんでもないの?」

「ええ」

 都筑は山田に背を向けると、皺の寄ったシャツを直し、シンクに向かった。

 蛇口から勢い良く水を出し、バシャバシャと顔を洗う。

 そんな都筑をちらりと見ると、山田は便器の前に立った。

「ま、都筑先生が問題を起こすとは思えないけどさあ」

 言いながらチャックを下ろし、用を足す。

 年のせいか、最近はキレが悪い。山田は何度も腰を上下させながら、愚痴を零した。

「あー。まーた一日始まるねえ。参っちゃうよねえ、コーコーセーは扱いづらくて。特に女の子はもう……。ねえ、都筑先生」

 都筑に同意を求めるも、返答がない。

 山田はチャックを上げると振り返った。

「あれ?都筑先生?」

 トイレには、既に自分だけが残されていた。




 その頃、都筑は怒りに任せて廊下をドカドカと歩いていた。

 あの冷めた目、馬鹿にした口調、表情。全てが気に入らなかった。

 いや、本当はそんな事などどうでも良かった。

 自分以外の男が、鈴音に触れた。泣かせた事が気に入らなかった。

「あのヤロー……」

 準備室に戻り、唸るようにそう呟くと、都筑はスチール製の書棚を、片っ端から蹴り倒した。

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