第2話

 雪乃の告白現場を目撃してから数日が経った。

 当然と言えば当然だが、あれ以来雪乃は元気が無い。昼食を済ませると鈴音を残し、ふっと1人で教室を出て行くようになった。

 そして鈴音が1人教室に残されると、決まって倉木が鈴音の前の席を陣取る。

 今日も例外ではなく、ぼんやりと文庫本を捲っていた鈴音の前に、倉木が座った。

「ナニ読んでんの?恋愛小説?」

「ホラー」

「マジ?」

 覗き込んで来る倉木の前でパタンと本を閉じると、鈴音は握った両手をこめかみにあて、ぎゅっと目を瞑った。

「怖い……」

「おいおい。大丈夫?」

 鈴音は酷く怯えている。倉木は身を乗り出すと、鈴音の耳元に唇を寄せた。

「抱っこしよっか?あだっ!」

 倉木は情けない悲鳴を上げると、椅子ごとガタガタとひっくり返った。

 鈴音に文庫本でバシリとはたかれたのである。

「怖いっつーから慰めてあげようと思ったのにぃ」

「怖いの、本じゃないもん」

 椅子を起こしながら抗議する倉木を上目で睨むと、鈴音は頬を膨らませた。

 この子供のような膨れっ面が、倉木の心拍数を上げてしまうなどとは知りもせずに。

「な……何が怖いの、鈴音ちゃんは」

 今心拍数を図られようものなら、即刻入院を勧められるであろう心臓を押さえると、倉木は座りなおした。

「……藤堂先生」

 それだけ言うと、鈴音は口を噤んだ。

 ここ数日、藤堂の冷たい視線が気になって仕方がないのだ。

 授業中は本より、教室の移動中、他の教師に呼ばれて職員室へ行った時。挙げたらキリが無い。

 倉木は合点がいったとばかりに「あー」と間延びした声を上げると、鈴音の小さな頭をそっと撫でた。

「気をつけろよ?ま、俺が指一本触れさせねえけど」

 決まった。倉木の心の中は、そんな思いでいっぱいだった。

 鈴音もじっと倉木を見詰めている。

 教室だけに2人きりとはいかないが、これはまたしてもチャンスである。

「あのね」

 鈴音が意を決したように切り出した。

「なにかなー?」

 もじもじしている鈴音に、倉木がそう促すと、鈴音はぽそりと言った。

「先生には言わないでね?」

「そっちかよ」

 倉木は途端にぶすっとした。

 「倉木君頼りになるー!」とか、「優しいのね!」とか、上手く行けば「好きになっちゃったかも!」なんていう台詞を口にするのではないかと期待していたからである。

 しかし、現実はあくまでシビアであった。

「だってね、イジワルって言うか、睨まれてるなんて言ったら、絶対心配するもん。あれで結構心配性……」

「あーあ」

 倉木は鈴音の言葉を遮った。

 鈴音はそんな倉木をきょとんとして見ている。

「桜井って」

 倉木は、どかっと鈴音の机に肘をつくと顎を預けた。

「ニブッ!」

「何よう!」

 ぷうっ。

 鈴音の白い頬がまた膨れ、それがまた倉木の起動ボタンを押した。

「でも、そんな桜井が好きなんだよーう!」

 次の瞬間、しんと水を打ったように静まり返った教室で、鈴音がパンパンと手をはたく音が響いた。

「すびばせんでした」

「分って貰えればいいの」

 ふっと嘆息する鈴音の前で、顔中を叩かれた倉木が崩れ落ち、教室中がどっと沸いた。




 放課後。

 鈴音が出席簿を返しに化学準備室へ行くと、都筑が机に齧り付いていた。

 机に肘をつき、額を掌で覆っているその表情は真剣そのものだ。

「出席簿、ここに置きますね」

 言ってそっと机の隅に出席簿を置くと、都筑は机に広げた表のようなものに目を落としたまま頷いた。

「ん。倉木は?」

「そこの廊下で先輩に捕まって、部活」

 倉木はサッカー部のエースだ。

 夏の大会が近づいている今、部活をサボる訳には行かない。それにも拘らず、部活を後回しにして鈴音について回っていた所を捕まり、半ば無理矢理引き摺られていったのだった。

「そう」

 鈴音は都筑のリアクションに拍子抜けした。

 倉木がいないと分った途端に、いつもの調子で纏わりついてくると思ったのだ。

 それが、気のない短い返事をしただけで、未だ作業を続けている。

「先生、何してるの?」

「うん、指導計画書をね」

 一応律儀に返事を返してくるが、やはり顔を上げない。

 鈴音は、黙々と仕事をしている都筑の横顔をじっと見た。

 都筑は、授業中や書き物をする時、家でTVを観る時や本を読む時などは眼鏡をかける。オーバル型の、繊細なノンフレームの眼鏡だ。

 鈴音は眼鏡をかけた都筑も好きだった。眼鏡が都筑の知的さをより際立たせるからだ。

 暫くその横顔をドキドキしながら眺めていた鈴音だったが、一向に構って来ない都筑に、少し寂しくなってきた。以前の鈴音からは考えれない変化だ。

 ふっと小さく溜息をつくと、くるりと踵を返す。

「それじゃ、帰りま──」

 と、準備室を辞そうとした鈴音の制服が、くいと引かれた。

 振り返れば、都筑が机に肘をつき、その手に頬を預けてこちらを見ている。その優しい視線に、鈴音の心臓がドキリと跳ねた。

「もうちょっといてよ」

「でも……」

 都筑に向き直ると、鈴音はそう言って都筑をちらりと見た。

「邪魔じゃない?」

 こちらに目もくれずに仕事をしていたのだ。きっと忙しいに違いない。

 確かに寂しくはあったが、仕事の邪魔をするようなことはしたくなかった。

 でも。傍にいたいのも本当だ。

「鈴音を邪魔だなんて思うわけ無いでしょ」

 都筑は、2つの相反する気持ちの狭間で戸惑っている鈴音にそう言うと、それに、と続けた。

「最近あのバカが鈴音にへばりついてるから、なかなか2人になれなかったし」

 都筑の声で、鈴音の葛藤は打ち消された。

 傍にいてもいいのだ。

「うん」

 そう小さく頷く。いけないと思いながらも、頬が緩んだ。

「おいで」

 都筑が椅子に腰掛けたまま手を伸ばすと、鈴音は素直にいつものコロンの香りがする腕の中に納まる。

「んー。やっと独占」

 都筑は「ぽすり」と鈴音の胸に顔を埋めた。

「すずねー」

 都筑が鈴音をぎゅっと抱き締め名を呼ぶと、ふわりと甘い匂いがした。

「んっ?……チョコの匂い」

 言って、くんくんと都筑の頭の上で鼻をひくつかせる。

「鋭いね。青山先生の新婚旅行土産だよ。マカデミアナッツチョコ。超定番」

「えー。いいなあ。全部食べちゃった?」

 鈴音は本当に羨ましそうだ。今にも指を咥えそうなその顔に、都筑はくすくすと楽しげな声を上げて笑うと、立ち上がった。

「欲しい?」

 にっこりと笑って白衣のポケットに手を突っ込みかき回す。

 都筑の白衣のポケットは、魔法のポケットだ。

 ハンカチにクリップ、古い分銅や鍵、プレパラート、ビー玉、ガムにキャンディーが次々出て来たりする。

 どうやら今回はチョコレートが出てくるようだ。

 鈴音は両手を組むと、笑顔の都筑を見上げた。

「いいの?ホント?」

「いいよ。あーん、してごらん」

「あー……んっ」

 都筑の言う通りに開けた口は直ぐに塞がれた。

 それだけではない、大きく開いてチョコを待っていた口の中に、都筑の舌が入ってきたのだ。

 仄かに甘いそれは戸惑う鈴音を追い、そして捕まえる。

「んっ……ぐ」

 溺れそうなほど苦しいにも拘らず、ふわふわと水中に身体が浮くような浮遊感に、見開いていたはずの目はトロンと閉じ、膝の力が抜け、下腹部が「じん」と痺れる。

 だが、脳が感じる浮遊感とは裏腹に、身体は際限なく、どこまでも落ちて行きそうだ。

 鈴音は、ずり落ちて行く身体を支えようと、都筑の首にしがみついた。

 それが合図とでも言うように、鈴音の顎にかけられていた都筑の大きな右手がするすると下がって行く。そして、鈴音の制服の胸をすっぽりと覆った。

「むー!!」

 都筑に絡め取られたまま大きく叫ぶと、鈴音は両腕に精一杯の力を込めて都筑の胸に突っ張り、キスから逃れた。

 まるで徒競走の後のように、はあはあと息が乱れ、胸と肩が上下する。

 そんな鈴音を、都筑は満面の笑みで覗き込んだ。

「おいし?鈴音」

 鈴音はようやく図られたことを悟った。情けないほどに眉尻が下がる。

「ひょっとして、全部……」

「うん。食べちゃった」

「ずるいぃぃぃ」

「ゴメン、ゴメン」

 ポカポカと都筑の腕を叩く鈴音を拝むようにして謝ると、都筑はポケットからキャンディーを出した。

「ほら、これあげるから」

 白地に沢山のピンク色のハートが散りばめられた可愛らしい包み。

 どうせ、女子生徒に貰ったものだろう。

 鈴音はじろっと都筑を睨み、ぷいっとそっぽを向いた。

「いらないっ」

「鈴音ちゃーん」

「……」

「すーずー」

 このパターンは以前にもある。

 鈴音は不貞腐れると口を利かない。ぷうっと頬を膨らませる所は子供のようで、そっぽを向きながらも、手を伸ばせば届くところにいる辺りはへそ曲がりの猫のようだ。

 都筑は、ふと自分の手の中のキャンディーを見た。

 ハートのプリントの可愛い包み。

 1年の女子生徒が「おすそ分け」と称してくれた物だ。

「はー……ん」

 都筑はピンときた。原因はチョコでもキスでもないらしい。

 合点が言った都筑は、未だ頬を膨らませている鈴音の前に回りこんだ。

「鈴音、ひょっとしてヤキモチ?」

「しらな……きゃっ」

 あっという間の早業だった。

 覗き込んでくる都筑から、更に身をかわそうとした鈴音は、いとも容易く、リノリウムの床に押し倒されてしまっていた。

「鈴音、可愛い」

 唇を尖らせ睨む鈴音も、都筑は可愛くて仕方が無い。

 何より、ヤキモチを焼いているのだというのが嬉しかった。

 白衣を引っ張る鈴音の首筋に唇を押し当てると、舌先で耳までなぞる。

「やっ」

 鈴音は小さく抗議の声を上げると、首をすくめた。

「あれ。イヤなの?」

「だって……」

 その先を聞かず、都筑は鈴音のブラウスをスカートのウエストから引っ張り出すと、裾を捲る。

白く滑らかな肌が露になった。

「ちょっ……待っ……」

「ダメ。待ったなし」

 都筑の頭が、鈴音の視界から消えた。と、突然腹にぬるりとした物を感じ、全身が粟立った。都筑が鈴音のヘソを捕らえたのだ。

 ヘソのくぼみに舌先を差し入れる。舌が動くたびに、下腹部がぴりぴりとした。

「いっ……」

 下腹部の痺れが痛みなのか何なのか分らない。だが、白衣を握り締め、食いしばった歯の間から耐え切れない声が漏れ、背中が反る。

 都筑はすかさず床との間に出来た隙間に手を差し入れると、鈴音の背に掌を回した。

 指が、下着のホックに掛かる。

「ダメだってば!」

「鈴音は良くてもダメって言うでしょ」

 ぷちん。

 言い終わるより先に、鈴音の胸を覆う小さなプロテクターは弾けるように外れた。

「お願い。ホントにダメだって」

「はいはい」

 胸を庇おうとする鈴音の両腕を広げると、都筑は容赦なく鈴音の胸に口をつけた。

「やっ……やんっ!」

「しーっ!」

 鈴音の声に、都筑は慌てた。

 がばっと身体を起こし、唇の前で指を立てる。

「鈴音、声大きい」

「だって」

 都筑は半べそをかいている鈴音の制服を下ろしてやると、抱き起こした。

「ごめんごめん。俺がいけなかったね」

 言いながら乱れた髪を直してやると、鈴音は黙って都筑の胸に顔を押し当ててきた。

 その身体をそっと抱き締める。

「ねえ、鈴音」

「ん……?」

 ブラウスの下に手を入れ、外したホックをつけてやる。

「今日、ウチ来る?」

「ううーん」

 鈴音は都筑にしっかりと抱きついているものの、返事は曖昧だ。

 都筑は繰り返した。あれで満足出来るほど年を食ってはいない。

「おいで?」

「うーん」

 鈴音の眉間に皺が寄る。

 と同時に、都筑の眉間にも皺が寄った。

「鈴音」

「ん?」

「来ないなら、今ここでするぞ」

「わかった。わかったから!」

 再びブラウスの裾を捲り上げようとする都筑の腕を掴むと、鈴音は慌てて了解した。

「よしよし」

 がっくりと肩を落とす鈴音の頭を撫でると、都筑は嬉しそうに鈴音の頬にキスをした。

「合鍵で入ってて。残務処理したら直ぐ帰るよ」



「フー……ン」

 準備室のドアの横に寄り掛かり、忌々しげに宙を睨む男がいた。

 そのまま忙しなく爪先を上下させ、中の様子を窺う。

「そろそろいいか」

 準備室が静かになり、中から2人の取りとめのない話が始まったのを確認すると、男はドアをノックした。

「はい」

 都筑の声だ。

 男はドアを開けると、冷たい笑みを浮かべた。

「都筑先生。緊急職員会議を行うそうですよ」

「あ、わざわざすみません、藤堂先生。直ぐ行きます」

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