優しい月で待っていて

三ツ沢ひらく

優しい月で待っていて

「ミルクパズルって知ってる? 絵柄のない、真っ白なパズル。作るのがすごく難しいの」

 そう言って泣きそうに笑う彼女に、秘密の恋をしていた。

 なぜ秘密かというと、僕がつきさんのことを好きだと気付いた時、彼女は既に月に移住することが決まっていたから。

 月移住計画は数年前から政府が推し進めている政策で、増えすぎた世界人口緩和のために一部の人間を月に定住させるというもの。第一便、第二便、と次々と月に向かう人々の様子はニュースで大々的に取り上げられ、父親が宇宙開発に携わる優月さんもまた、インタビューを受けていたのを思い出す。

「月ではどんなことが待っているのか今から楽しみです」

 にこりと笑いながら言ったその言葉が本心でないことを、僕だけが知っていた。



 家庭教師の優月さんは僕より三つ年上の高校三年生だ。

 紹介されたのは初春――新学年になったばかりの時期にも関わらず、彼女は『既に進路が決まっている』のだと言った。

 親同士が仕事の同僚だったため、昔から顔見知り程度に知った仲ではあったのだけれど、そんな彼女に僕の高校受験に向けた勉強をみてもらうことになるとは思ってもいなかった。

 図書館のフリースペースで僕達は一緒に参考書を覗き込む。

「数学の小テスト満点? えらい!」

「はい、おかげさまで。明日は歴史の小テストです」

「中学生も大変だねえ」

 僕の視界の端で、優月さんのつけている夜空色の石が付いたピアスがちらりと揺れる。そういえば最近ピアスホールを開けたのだとはにかんでいたっけ。

 優月さんはとにかく綺麗系のお姉さんという言葉が似合って、教わり始めの頃はドギマギしてしまってろくに目も合わせることができなかったのを覚えている。毎週顔を突き合わせて半年、ようやくこうして目を合わせられるようになった。それなのに。

「秘密にしてね、トモくん。私第三便で月に行くの」

 突然の告白に数式を解く手を止めて、僕はゆっくりと机の向かい側に座る優月さんを見た。同時に澄んだ目が僕を見返してくる。

「月?」

「そう、月」

 月に行く。なんでもないことのように伝えられたその事実を理解するのに時間がかかった。進路が決まっているとはそういうことだったのだろうか。第三便といえば宇宙開発の関係者家族が乗る便だ。

 優月さんの現在の家庭事情をあまり知らなかった僕は、その時初めて優月さんの父親が既に第一便で月へと旅立っていたことを知った。

「それは……なんというか、すごいことだと思います」

「はは、なにその反応。もっと驚かれると思った」

「いや、現実味がなくて。すみません」

「謝らないで。私もまだ信じられないから」

 もちろん僕の周囲で月に行くという人は優月さんが初めてなものだから、僕は勉強を放り出し、図書館のPCで月移住計画について調べることにした。

 月移住計画を解説するネット記事では、美しい宇宙と近未来的な居住地、そして既に月で暮らしている人々の幸せそうな日々が特集されていた。

 選ばれた人間が住むことを許される楽園のようだと僕は思った。この記事のように優雅な生活を送る優月さんを想像して、ぽろりと口を滑らせる。

「月の女王様……?」

「あ! ちょっとそれって私が偉そうってこと?」

「いやっ。口が滑っただけです!」

「てことはそう思ってるってことじゃん! こいつー!」

 両手でぐにぐにと頬を潰されて、フグのようになった僕を見て優月さんはケラケラと笑う。そしてふと思い出したように黙り込んでしまった。

 頬を挟まれたまま「優月さん?」と声をかけると、彼女はあっという間に何かを堪えるような辛い表情になってしまう。

「こんな馬鹿なやりとりも、できなくなるよ」

「あ……」

「トモくん、嫌だよ。怖い、寂しい。行きたくない。ひとりぼっちになってしまう」

 トモくん、トモくんと僕の名前を繰り返しながら、優月さんはぽろぽろと涙を流した。

 僕はこんな時どうすればいいのか分からず、止まらない涙の粒にピアスの夜色が映って綺麗だなんて見当違いのことを考えていた。

 ポツリと「僕も寂しいです」と呟く。優月さんがぱっと顔を上げて、少しだけ笑ってくれたのが救いだ。

 結局その日は勉強どころではなくなってしまい、僕達は家に帰ることにした。

 去り際に「トモくんにしか吐き出せなくてごめんね」なんて言われて僕は更に困惑する。

 もしかしたら優月さんは僕に「行かないで」と言ってほしかったのではないだろうか。いや、ただの中学生の僕に彼女がそんなことを望むとは思えない。でももしかしたら。そんな考えがぐるぐると頭の中を回って、その日は全然眠れなかった。

 間抜けな僕は朝日が昇るのと同時にようやくこれが恋だと気付いたのだった。


 ▽


 僕には優月さんの涙の理由が分からない。ひとりぼっちにならないために、父親の待つ月へ行くのではないのだろうか。

 優月さんが僕の思考を読んだように口を開く。

「うちの家族はもう壊れてるの。父も母も体裁を気にして離婚しないだけ。母は月に行くことがとても栄誉あることだと思っているから、父について行く。月に行ってからすぐ離婚、なんてことにならないように、私を連れてね」

「それって……優月さんは都合のいいように利用されてるってことですよね」

「かもね。でも私も月に行くメリットがある。働かなくても女王様みたいな生活が待ってるわけだから」

 早くに月に移住した人々は、今後移住を考える人達の背中を押すための『幸せなモデルケース』にならなければいけないらしい。与えられた環境で与えられる幸せを享受する。たとえ本人ががそれを望んでいなくても。

「家を出ないんですか?」

 そう問うと優月さんは哀しげな笑みを浮かべたので、家庭の事情に首を突っ込むべきではなかったと後悔した。

「ホラ勉強再開!」

 一転ピシャリと言う優月さんに閉口し、僕は渋々ペンを握る。

 優月さんいわく、宇宙工学というものは数学が基礎なのだそう。優月さんはまるで「宇宙の全てを数式にせよ!」とでも言うように僕に数学の勉強をさせたがる。おかげで数学の参考書だけボロボロだ。

 案の定数学の問題を出そうとする彼女を慌てて制す。

「なんでそんなに数学ばっかりなんですか?」

「だって……もしもトモくんが将来宇宙関係の仕事がしたくなったら必要になると思って」

「はあ」

 優月さんの意図はいまいちピンと来なかった。一方彼女は僕の曖昧な相槌に焦りのようなものを覚えたらしい。がしっと僕の両肩を掴んで、そのままガクガクと前後に揺らし始めた。

「ねえ、必要になるよね? トモくん大きくなったら月に住んで宇宙でお仕事するよね!?」

「え、な、なんで? 僕そんなこと言いましたっけ?」

 目を回しながら問うと優月さんは眉を八の字にして泣きそうになりながら言った。

「僕も寂しいって言ったじゃん!」

「言、いましたけど」

「なら月に来て」

「ええ?」

「なんでそんな嫌そうなの!?」

 やだやだと子供のように僕に縋り付いてくる優月さんを見て、また泣き出してしまうのではないかとドキドキした。

 けれど今回はその目から涙が流れることはなく、彼女は僕の肩にぎゅっとおでこをくっつけたまましばらく動かない。

「僕は月に住むつもりはないですよ」

「どうして?」

「うーんどうしてと言われると……」

 優月さんは返答に困る僕を黙ったまま見つめて、数秒後意を決したように口を開いた。

「私、トモくんを幸せにしたい。だから月に来て」

 思わずぱちくりと瞬きをした。優月さんのこのおかしな熱量はどこからくるのだろう。何もそんな言葉を僕に向けなくてもいいのに。優月さんにそう言ってほしい人なんて、他にもたくさんいるだろうに。

 そこまで考えて胸の奥がぎゅっとなる。優月さんのような素敵な人に僕はつり合わない。

「優月さん、彼氏できないからってやけになってる?」

「ねえ怒ってもいい?」

「だって僕なんて、」

「『僕なんて』って言うの禁止!」

 冗談ではぐらかした先には虚しさだけが残った。

 優月さんは多分運がないのだと思う。月に誘うのが僕でなければ、きっといい返事をしてくれただろうに。つねられた頬をピザ生地のように薄く引き伸ばされながら、僕は心の中でごめんなさいと謝り続けていた。

 ごめんなさい。本当は貴女が好きです。でも僕は月には行けそうに、ない。


 ▽


 家に帰ってから、仏壇の前で手を合わせるのが毎日のルーチンだ。

 目を閉じると今日の優月さんの顔が浮かぶ。

 優月さんは僕のことを幸せにしたいと言ったけれど、裏を返せば今の僕を不幸せだと思っているということだ。

 僕は期待しすぎないように悪い事を考えるのが得意だから、好きな人に不幸せだと思われていても全然平気だ。だけどやはりこんな僕は優月さんにはふさわしくないのだと思う。

 カンカンと金属の階段を踏む音の後に、ペンキの剥がれた玄関ドアが開く。

「おかえり母さん」

「ああ……トモ。いたの」

 久々に見た母の顔は酷く疲れているように見えた。重い足取りで靴を脱ぎ、僕と同じように仏壇に手を合わせる。

「晩ごはんなにか作るよ。母さん先にお風呂入ってきて。足元に気を付けて」

「ありがとうトモ。ありがとうね。母さんなにもできなくてごめんね」

「母さんは仕事がんばってるじゃない」

 ガチンガチンとガスコンロのつまみをひねる。火はなかなかつかない。薄暗い六畳一間。居間の電球は三ヶ月前から切れている。キッチンの小さな窓からさす月の光だけを頼りにラーメンを煮ることにした。

 優月さんの考える幸せとはなんだろう。少なくとも月で僕とラーメンを食べることではないことだけは確かだ。

「お父さんがいればもっといい暮らしができたのに」

 母さんは顔を覆って言う。

「お父さんは優秀な宇宙飛行士だったのに。無理なミッションを押し付けられて宇宙で行方不明になったの。お父さんに命令してた奴は出世して、今頃月で優雅な暮らしをしているのよ。聞いてるのトモ。いくらそいつの娘にタダで家庭教師やらせてもなんの償いにもならないの。分かってるわねトモ」

 ガチン、と話を遮るようにもう一度つまみを回す。

「もう聞き飽きたよ」

 こういう時に限って、火はまだつかない。


 ▽


 優月さんが月に行く日が決まった。

 くしくもそれは僕の受験日と重なっていて。見送りができないと言うと優月さんは膝から崩れ落ちて嘆いた。

「うそー!?」

「泣かないでよ優月さん。手紙書くからさ」

「地球との郵便物は制限されてるの。メールにしよ?」

「僕、携帯端末スマートモニター持ってないから」

「ぐ……」

 膝を抱えてめそめそし始める優月さんに合わせてしゃがみ込むと、涙に濡れた瞳が僕を捉えた。

「ねえトモくん。分からないふりしないで。好きなの。トモくんのこと。年上はダメ?」

 突然放たれたド直球な告白に僕は内心たじろぎながら、ずっと感じていた疑問を投げかける。

「それは僕がかわいそうだから?」

「え」

 僕達の親のことは多分優月さんだって知っているはずだ。優月さんは自分の親が僕の親を死に追いやったと思っていて、だから僕に執着するのだ。不幸せな僕を見ると罪悪感に苛まれるから。

 しかし優月さんはブンブンと首を振る。

「ちがう。確かに最初は、負い目があった。義務感で君と接してた。でも、でもトモくんはいつだって真面目で誠実で、大変なのに頑張ってて……気が付いたら好きになってたの」

 だんだん尻すぼみになっていく言葉が僕の胸を締め付けた。ここで僕も好きだと言えば両思いだ。なのに、未来で優月さんの隣に立っている自分を想像できない。

「でもきっとすぐに貴女は僕を忘れるでしょうね」

 彼女は月で幸せに暮らすのだ。夢を見ることもできないどうしようもない僕のことなど忘れて。優月さんは一拍置いた後、俯いたままの僕の頬をバチンと両手で挟んだ。

「そんなことない! 信じられないなら証明する!」

「証明……?」

 優月さんは勇んだ様子で、背負っていたバッグの中からひとつの箱を取り出した。パッケージに印刷されているのは柄のない真っ白なパズル。僕は首を捻った。

「ミルクパズルって知ってる? 絵柄のない、真っ白なパズル。作るのがすごく難しいの。宇宙飛行士が頭の訓練に使ってたんだって。トモくんへのプレゼントのつもりだったけど、私が月に持っていく。私が君を忘れないことの証明に、このパズルをひとつずつ送るから。君を思ってずっとずっと。送り続けるから。完成したら私の気持ちが本物だって信じてほしい」

 そんなの何年かかるかも分からない。ピースひとつを月から地球へ送るのだってお金と時間がかかる。それでも優月さんの酷く真剣な目に何も言えず、僕はとうとう好きだと伝えられなかった。

 その半月後、優月さんは月へと出発した。志望校に受かった僕と、家のポストに入っていたひとつ目の真白いピースだけを残して。


 ▽


 律儀に送られてくるそれを月明かりにかざす。

 ミルクをとろりと零したような真っ白なピースが僕を悩ませている。

 正確に言うと、ピースの裏に書かれた彼女の字を解読するのが酷く困難なのだ。

 小さく書き込まれた近況報告と、最後に必ず震える字で「好き」と書かれたパズルの裏側は、まるで隠された月の裏側のようで、僕以外の誰も見ることができない彼女の孤独そのものだと思った。

 ここまでされては優月さんの気持ちを信じざるをえない。同情ではないのだと、自分は本当に好かれているのだと実感させられた。

 しかしこのまま本当にピースを送り続けるつもりなのだろうか。ふと過ぎった疑問に付随して、僕は恐ろしいことに気が付く。

 僕の手元に全てのピースが揃ったら、彼女と僕を繋ぐものがなくなってしまう。

 このままだと確実に終わる関係だ。きっと彼女もとっくに気付いている。分かっていて今のペースで送り続けているのだ。

「はあ……僕の負けだよ、優月さん」

 最後のピースはきっと、彼女に直接もらうことになる。だって僕はもう決めたのだ。


 ▽


「じゃあ進学することに決めたんだな?」

 何度目かの進路希望調査で教師に念を押され、僕は頷いた。

「家庭の事情で大学進学を諦めなくて良かった。お前は優秀だから特待生目指せるぞ。志望学部はどうする?」

「夢を叶えられるところがいいです」

「ほう。何になりたいんだ?」

 決心してから初めて言葉にする。ここまで随分時間がかかってしまった。


「僕は宇宙飛行士になります」


 この世で唯一、月と地球を行き来できる職業。母を思うと月に移住はできないけれど、宇宙飛行士になれば月に行ける。図らずとも父の背中を追うことになろうとは。これではまったく優月さんの思惑どおりだ。

 僕は人類のためなんて高尚な目的は持っていないけれど、きっと誰よりも月に行きたいと願っている。

 何年、何十年かかっても、あのパズルが完成しても。きっと貴女に会いに行く。あの時自分に自信がなくて、つり合わないと決めつけ秘密にした恋の続きをするために。

 貴女にふさわしくなれるよう、一所懸命頑張るから。どうか気長に待っていてほしい。優しい光を放つあの月で。


(了)

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