第76話 福音の光


 そこは、くらく凍てついた深い水の底のようであった。

 すでに身体の感覚は無くなり、思考も虚ろで意識も朧気。


 ──もうどれぐらい経ったのかな…?

 

 ──わからないよ…もうなにも考えられない…痛いのも寒いのも、なにも感じなくなった……。


 嘗ては生命力に溢れ、激しく燃え盛る炎は今や頼りなく、ほんの些細な風にさえ、かき消されそうな二つの小さな灯火。

 辛うじてその小さき炎が灯されているのは、この僅かな火を絶やさぬよう互いにべり合っているからだ。

 

 その身を分けた魂の片割れ同士の二人。まだ10代にも満たない幼き姉弟の双子。


 この繋いだ手のかすかな温もりが、か細いながらも唯一その灯りを繋ぎとめている、儚げに揺らめく小さな命の篝火かがりび



 ──たすけて…もう声がでない……。



 どれほど、この言葉を綴っただろうか。いったい、何度母を呼び続けただろうか。幾度も幾度も叫び乞うとも、誰にも届かず虚しく木霊するだけ……。

 

 生き延びるまで、決して涙は見せぬと決めた。決して何にも屈しないと心にくさびを打った。このたった一つの愛する片割れを守ると覚悟した。


 だが、その全ての決意がここに無念にも朽ち果てる。


 ──ゴメンね……もう…ダメみたい…ちからが入らない…。


 ──今までありがとうね…おねたま。もう…がんばらくてもいいよ……ボク…なんだか…眠く…なってきちゃった……。

 


 互いにべり合う命のたきぎがついに底を突き、その最後の篝火が燃え尽きようとしていた。


 生きたかった。もっと、愛する母や仲間と謳い語らいたかった。


 無限に広がる深く蒼い澄明ちょうめいな大空。全ての息づく命を燦然さんぜんと祝福し照らす太陽のもと、見渡せば無辺に続く草原の大地。

 その空と大地の鮮やかなコントラストは、時の流れと共に移り変わりゆき、四季折々千変万化せんぺんばんかの表情で、深く情緒に語りかけてくる。


 雄々しく一切揺らぐことなく聳える山々。命の恵みと深い安らぎを与えてくれた森の木々と、その合間に優しく降り注ぐ木漏れ日の温もり。

 心地いい春風が吹き、鼻をくすぐる草木の香り。耳を澄ませば聞こえる鳥たちが謳い奏でる旋律メロディと、小川がせせらぎゆらぐおだやかで清涼な水の調べ。


 それら全てが混然と調和し彩られた、大自然の演奏による荘厳たる交響曲シンフォニア

 全てが溢れていた。光に満ち溢れていた。


 そんな、讃美と喝采が鳴りやまぬ中を、もっと誰よりも速く走り続けたかった。


 ──いつまでも、どこまでも……。


 それらは、もはや全て幻想。虚ろな夢の中だけの幻影。どれほど手を伸ばし手繰り寄せようとも触れることすら叶わない、輝きに満ちた愛しい日々の欠片たち。



 ──もう、とどかない…。


 

 ここには一切何も無い。無機質で無慈悲。昏く凍えるだけの虚無に覆われた絶望に満ちた世界。



 ──もう、なにも見えない…。

 


 そして、思いも虚しくその微かな火の温もりが静かに、終わりの切ない揺らめきを見せた。



 

 ──きえ…る………。

 

 


 








 ──あれ?……なんだろうこの感じ…?


 ──……あったかい…?


 

 それはおだやかな太陽の光。優しく包み込むような春の陽射しの暖かさであった。


 尽きかけた命の灯火が、再び明るさを取り戻し、消え入りそうだった生命力が沸き立ち吹き返す。


 ──光…?だれかいる…すごくやさしい感じなの…。


 ──だれだろう…? すごくあったかい感じがする。


 昏く虚ろだった意識がその光によって照らされる。思考が明瞭化し、この暖かさの光源を確かめるべく、ゆっくりと眼を開けてみる。



「……んん…ん…?」


「……うう~ん……だ…だーれ?」



「おお! 良かった!意識を取り戻したか!」


 そこには光があった。ことばがあった。

 そのことばには命があった。その命は恵みと誠に満ちていた。

 

 その恵みと誠は、一切の闇を払いのける福音の光であった。


 その福音を齎したのは、一人の見知らぬ男であった。

 それは幾度も心に描いた、希望と言う名を具現化した輝きであった。

 

 その男は、眩いばかりの燦燦さんさんと輝く太陽ような笑顔で、自分たちを大切な宝物我が子を労わるように迎えてくれた。


「あれ?…くびわが無くなってるの…痛みもなくなった?」

「ほんとだ!寒くもない! ボクたち自由になれたの…?」


 これまで二人を縛り付けていた首輪と鎖が無くなり、生命力を奪い、痛みを与え続けていた魔法陣が消失したことに戸惑いつつであったが。



「ハハ!二人ともよく頑張ったなぁ!もう大丈夫だ!」



 ──最期の刹那の一歩手前で、渇望した思いがついに届いたのだ。 

 

 その男の言葉は、最も求め欲した報酬であった。幼いながらも互いを気遣い励まし合い、諦めることなくからくも生き永らえた。救いを求め続けたその想いが報われた瞬間であった。


 それは絶対的な安心感。決して涙は見せぬと決意して耐えてきたが、もう我慢する必要な無い。その想いの丈を吐き出し、感情のおもむくまま、その身をゆだねればいい。


 この男には、そんな広大で晴れ渡る大空のような寛容さと、全てを受け止め、迎え入れてくれる大地のような包容力を感じた。

 それは、全てを慈しみ育む豊饒ほうじょうの光と、膨大な命の輝きに満ちていた。


 必死と耐え凌いできた感情が沸き上がる。必然と双子の双眸そうぼうには抑えることのできない滂沱ぼうだの涙が溢れ、頬を伝い流れ落ちる。


「「うわああああああああああああああああああん」」


 男は一切の抵抗も戸惑うことも無く、泣きじゃくる二人を包み込むように優しく抱き留めてくれた。そう、父親のように……。



 ──それはこの男、トールが亡き父母への生前に抱いた感情そのもの。



「ん?…双子ツインズか…てか、このガキども…ケモ耳?&尻尾?」


 トールはこの子らを救うことを最優先の一心で、その容姿を深く窺い見ることをしなかったが、よく見れば何やら色々とツッコミどころが露わになった。


 二人とも痩せ細ってはいるもの、非常に可愛らしく美形な顔立ちなのだが、その装いは薄汚れた『貫頭衣』と呼ばれる衣服だ。

 これは、布の中央に穴を開け頭を通し腰を帯で締める着方で、古代ローマや日本の弥生時代では一般的な衣服であったものだ。

 

 女の子の方は、髪の長さは肩甲骨辺りまでで、紅色に黒のメッシュが入っている。その頭部には犬種の耳。臀部には、これまた紅色の犬種のモフモフな尻尾が生えている。

 

 男の子の方は、髪は肩辺りまで、白色に蒼色のメッシュ。女の子と同様にケモ耳、白色モフモフ尻尾で「なんじゃこりゃ?」と言うわけだ。


「あー……まっいいか。何であろうとこの子らは、紛れもなくここで今生きている。それだけの話だ」


 ここに辿り着くまで、すでに幾つもの異常な経験をし、それらを目にして来たのだ。今更何を驚くことがあろうか。そもそも、トール自体が常識外の規格外の存在なのだ。

 たかが、獣の耳と尻尾が生えた子供らがいたぐらいで、取り分け騒ぎ立てる事でも無い。むしろ喜ばしい事癒し成分であろう。


 そして、トールのゴツゴツとしたボディーアーマーの許で、一頻ひとしきり泣きじゃくった後、落ち着いたのを見計らって一旦二人を放し、背負っていたバックパックを下ろす。

 中から取り出したのは『クレイ.プレシジョン社製』迷彩色の、丈夫なナイロン生地製、バックル付きループが取り付けられたティッシュケースだ。

 

 このメーカーは、現代戦装備の代表格『マルチカム迷彩』を生み出したタクティカルギアメーカーで、アメリカ本国だけではなく世界中の軍、法務行機関で採用されており民間でも極めて人気が高い。

 尚、この社製は戦闘服だけではなく、ボディアーマーやポーチ類などの製品でも有名である。


「あーおまえら鼻出てんぞ。可愛い顔が台無しだ。はい、ちーんして」


 ──チーン!


 やれやれと苦笑を浮かべ、その双子の涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっている顔を、綺麗にティッシュで拭いてやる。トールのその姿は、益々父親のようだ。



「よーし!綺麗になったな。んでおまえら、とりあえずこれ飲んでおけ。かなり脱水症状が出ているからな…まず症状の重い方からだが…嬢ちゃんの方か」


 そう言いながら、ハイドレーションキャリアからチューブを取り出す。一人ずつしか飲めないので、症状が重い女の子の方から飲ませようとする。

 だが、それは初めて見るもの。チューブを見つめて何やら戸惑っている様子だ。


「バックの中に水が入っていて、そのチューブに繋がっているんだ。吸うだけで飲めるようになっているから…えーっと…嬢ちゃんの名前は…?」



「か…‶カレン〟。アタシは次でいいの。弟…‶トア〟から先に飲ませてあげて」


 症状の重い自分より、健気にも弟を優先。この在りようは姉としてだけでは無く、幼いながらもすでに強い母性を兼ね備えてるようだ。

 この極限とも言える状況を、たった二人の幼子だけで生き永らえてきたのは、この子の不屈の精神が大きく作用していたのであろう。


「フッ…俺はトールだ。好きなように呼んでいい。いい子だなカレンは。そして強い! 大丈夫だ、ほんの少し待てるよなトア? お前も強い子だ」


「うん!ボクはまだ大丈夫だよ!おねたま、すごくすごくがんばっていたから、先に飲んでいいよ!」


「だ、そうだ。つべこべ言わずにさっさと飲め。けど急ぐなよ。ゆっくりと少しずつ飲むんだ」


「う…うん。わかった…ゆっくりとだね…」


 言われた通りにカレンは、チューブに口を付けゆっくりと少量ずつ、ゴクリゴクリと水を飲む。素直で実にいい子らだ。そんな双子の姿に、自然と穏やかな笑みを浮かべるトール。


「ぷはあああああ!おいちぃ!!生きかえったみたいなのー!」


「ハハ! 良かったなぁ!次はトアだ。お前も慌てずにゆっくりとな」


 続いてトアも、ゴクゴクと天然ミネラルを体内に取り入れ、青ざめていた顔に生気が戻り赤みを増す。


「ぷはあああああ! しみわたるるぅぅ! ありがとう…えっとト…トーたま…おとたま!!」

「ありがとう!おとたま!!」


「は? なんだその呼び名は!? まぁ好きに呼べって言ったからな…もうなんでもいいよ」


 異名や名前云々のやり取りは、これまで散々行ってきた事だ。どう呼ばれようとも、もはやどうでも良くなってしまっているが、複雑な心情が脳裏によぎる。

 仮に、この子らが成長するまで守り続ける事。つまりは育ての親になろうとも、それは辞さない事と覚悟を決める。その呼び名は、正に相応しいと思い始めたトールであった。


「んで、お前らの実の父…いや、何でも無い…」


「「ん~?」」


 その呼び名を使うと言う事は、この子らの父親はすでに身近にいない事を察して、言いかけたがその問いは取りやめて、今は心に留めておく。

 トールのその様子に、二人揃って不思議そうにシンクロして首をかしげる姿は、実に可愛げで微笑ましい。



「で! とりあえずお前ら、腹減ってんだろう? 俺も腹減ったしメシにするか」


 そう言いながら、トールは床に胡坐あぐらをかいて、バックパックからMREレーションを3食分と、使い手捨て用の3区分されているプレート皿を3つ取り出す。

 MREは「Meal, Ready-to-Eat」の略でアメリカ軍が採用している個包装された簡易食料レーションだ。



「え!?ごはん!?たべたいたべたい!!」

「ボクも!!すごくおなかすいたよ!」


 メシと聞いて眼を輝かせてテンションが爆上がりする双子。

 

 ここの安全状況だが、レーダー波を飛ばし、この封鎖されていたエリアを探るも他の生命反応は無い。聖痕スティグマによる危機反応も感じられず、一先ずは安全なようだ。



 MREはパックごとに多くのメニューがあり、トールが最初に封を開けていたのは「NO.8」。カレンには「NO,18」。トアには「NO.21」を渡す。


「ん~?おとたま何これ?ごはんなの…?」


「ハハ!そっかレーションを見るのは初めてだよな! まずここの開け口をこうやって引っ張って封を開けるんだ」


 トールの見様見真似で、双子は覚束おぼつかない手つきで封を開け、中から各種の包装された食料、アクセサリーパックとスプーンを取り出す。

 

 まずは、厚紙筒に入ったメインディッシュのレトルト食料を取り出す。折り畳まれた加水式加熱ヒーターパックを広げ、ハイドレーションの水を少量注ぐ。そこにレトルトパックを入れて更に外筒にセットし、その3食分をバックに斜めに立てかけて暫し待つ。


「なにこれ? 火も使ってないのに湯気がでてるよ!!」


「あーこの中にはマグネシウムと鉄と食塩でできた合金板が……まぁ水を入れると化学反応で発熱するんだよ…って、分かるか…?」


「うん!つまりは魔法だね!!」


「……あー…まぁそんなもんだ…」

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