第5話 15歳 義母のアドバイス
ニナが入室不許可の返事をする前に、すでに扉は開き始めていた。
「失礼するわね?」
勝手に入ってくる人物を睨みつけようとするも、その声が誰であるかを瞬時に察した彼女は無意識のうちに令嬢としての美しい所作で起立し、頭を深く下げて出迎える。
「……こんなときまで無理しなくてもいいのよ?」
その優しい声に顔を上げると、予想通り少女のようなふわりとした微笑みを浮かべたネリー夫人が立っていた。
ネリーはニナの隣に座ると、彼女の頭をグッと引き寄せて太ももの上に乗せる。枕にする形となり、温かい人肌に思わずニナの涙腺が緩みかけた。
どうしたものかと扉の近くで控えていた彼女の侍女ジェシカに目を合わせれば、 彼女も優しい目で『そのまま好きなようにさせてください』と合図するだけで微動だにしない。
仕方なくニナはその姿勢でじっとしていた。
「――あの子も本当に無茶するわよねぇ? ……血も涙もないったら」
ネリーは優しい手つきで何度も何度もニナの頭を撫でる。
やはり母親だけあって息子の仕業だと分かっていたらしい。そして何よりニナと同じ感想を抱いていたことに安堵する。
ネリーが敵ではないと分かっただけでも十分。
(もし浮気性の娘なんていらないって思われちゃったら……)
とても耐えられそうになかった。
「あの子は一応『夫の子』でもあるから、こういう工作を思いついても何ら不思議はないのだけれど。それを
言葉とは裏腹にネリーは楽しそうに『ふふふ』と微笑む。
ニナからすれば笑い事ではなかった。
そのせいで再起不能寸前まで追い詰められたのだ。
『ネリーの娘』として生きていく未来が奪われつつある。
ニナの瞳から涙が一筋零れた。
「あらあら」
ネリーは一旦ニナを起こし、今度は力いっぱい抱きしめる。
その胸の中で彼女は思いっきり泣いた。
母を知らず、慢性的に母性に飢えていたニナを満たしたのはネリーだった。
令嬢教育などが厳しかったが、それ以上に優しかった。
毎年恒例となっている冬の侯爵領リゾートでは一緒に温泉に入った。
『あぁ、なんて美しいの!』
ネリーはいつもニナの身体を洗いたがった。女性ながらに鍛えられた彼女のスキのない体がことのほか気に入ったようだった。いつも寡黙な侍女ジェシカでさえ、『私にも! 次は私にも洗わせてくださいまし!』と取り乱す。
そんなわちゃわちゃとした楽しい時間を過ごした。
もしネリーが本当の母だったらどんなに、と何度思ったか数えきれない。
「――貴女はこのまま負けを認めるの?」
その言葉にニナはハッとした。
即座に首を横に振りたかったが、それは叶わず力なく項垂れる。
心が折れかけていた。
それでも辛うじて言葉を絞り出す。
「……負けたく……ない、です」
「そう、まだ戦えるのね? 安心したわ。……それでこそあの子の娘」
その力強い語気にニナは顔を上げた。
今の言葉の意味を探ろうと首を傾げるニナに、ネリーは微笑みかける。
「ねぇニナ、聞きたいことがあるの」
「……はい、何でしょう?」
ネリーはここで少し声を落とし、ニナに息がかかるほどまで顔を近づけた。
「二人がどのような勝負をしているのか、大体のところは知っているの」
ニナは目を見開く。
まさかアレクサンダーがバラしたのか?
いや、それならばこの状況はない。
彼も流石に母に知らせておきながら、こんな令嬢の尊厳を奪うような手は打たないはず。
おそらく両者に一番近い位置にいたからこそ察することが出来たのだと、ニナは考える。
アレクサンダーと二人してやろうとしていることは、互いの両親や親族、周りの人たちに対する裏切り同然だ。
そのことに改めて気付き、心が締め付けられる。
……そのうえでネリーは何を知りたいのか、とニナは構えた。
「私が聞きたいのは貴女の考える『勝利』のこと。……そして『敗北』のこと」
何をもってニナは勝利宣言するのか。
何をもってニナは敗北を認めるのか。
それは心の中にある全ての感情を
これは彼女にとって最後の砦。
「……それだけは、たとえお義母様であっても答えられせん。……どうかお許しを」
断固たる拒絶の意思を示す。
ネリーはそのことも織り込み済みだったのだろう、小さく頷いた。
「では質問を変えるわね? ……貴女が息子に勝ったとして、そのとき私はまだ貴女の『お義母様』でいさせてもらえる?」
その言葉はニナの今までの人生で一番深く心を
彼女は深呼吸し、散々夢に描いていた『最良の展開』に思いを馳せた。
ネリーはもちろん、義父ギュンターもそこにはいる。
義両親である彼らに全力で愛され、幸せいっぱいの微笑みを見せるニナのすぐ隣にで柔らかな笑顔を浮かべているのは――。
(……もしアレクがちゃんと謝ってくれたら――)
ニナははっきりとした声で告げる。
「……はい。何としても『お義母様』のことを一生『お義母様』とお呼びするその未来を勝ち取りたいと思っています」
顔を上げ、真剣な瞳でネリーを見つめた。
どれだけ強く願っているのか、それが伝わる伝わらないは別にして、アレクサンダーの時のようにネリーの瞳へ全力でその想いを叩きつける。
「……ニナちゃん!」
ネリーは瞳を潤ませて何度も頷く、ニナを再び抱きしめ、頬に何度もキスを浴びせた。再度対応に困ったニナが助けを求めるべくジェシカを見つめるのだが、例によって彼女は『やりたいようにやらせてあげてください』の顔をしていた。
「――さて、貴女の覚悟を見せてもらったところで、私からの助言を一つ」
ネリーは真剣な表情を見せた。
ニナはいつものように背筋を伸ばして、それを拝聴することに専念する。
「今の貴女に必要なのは令嬢としての戦い方を学ぶこと、これしかないわ。……逆に言えばそれ以外の武器は既に持っている」
「……令嬢としての、戦い方……ですか?」
ニナも声を落として尋ねる。
「そう」
ネリーは大きく頷き、首を傾げるニナの頬を撫でた。
「貴女は令嬢としての礼儀作法などは私から学んできたけれど、令嬢としての遊び方を知らない。私も上手く教えてあげることが出来なかったわ。……こういったことは同世代の友達と学ぶことだから」
親娘的な上下関係が成立していた二人では難しかったのだとネリーは告げる。
男の子が対等な存在とケンカしながら戦い方や友達の作り方、力加減を覚えていくように、女の子も遊びながら距離の取り方やイロイロなやり方を覚えていくのだと。
「私、そんなの……。だって……友達もいません、し」
情けなかった。
辺境伯領でも基本的に山遊びのニナは令嬢たちと距離があった。
王都で友達めいたものは出来たけれど、今回のアレクサンダーの作戦のせいで全員去ってしまった。
「……それに関しては母親として謝罪するわ。……もうそのことは心配しないで大丈夫よ」
きちんとクライツ侯爵家として責任もってニナの名誉に関する噂の否定をしていくと、ネリーはこの場で約束した。
「――だからこういうのを用意してみたわ」
ネリーがそう告げると、そっと手を出した。
同時に侍女ジェシカが音もなく、それどころか予備動作もなく近づきながら一冊の本を取り出し、差し出された彼女の手にポンと乗せた。
ネリーはそれをニナに渡す。
「……本ですね?」
「えぇ、そうよ恋愛小説。読んだことはあって?」
「いえ」
歴史書ならともかく娯楽小説は興味の外。
恋愛小説に至っては……そういったモノがあるのは何となく知ってはいたが、現物を見るのが今日が初めて。
「私の知り合いの伯爵夫人が書いた本なの。学舎での生活をモデルにした作品をいっぱい書いていてね、それもその一つ」
「学舎……」
「そう、私も貴女のお母様ラウラ様も通った王都の学舎。……貴女も来年から通うわよね?」
ニナはそっと受け取った本の表紙を撫でてみた。
見たことのない綺麗な装丁が目を惹く。
物語の主人公らしい美しい男女の絵が描かれていた。
「恋に恋する令嬢と彼女に惹かれる令息。彼を取り合う新たな令嬢が現れたり、令嬢に横恋慕する別の男性が出てきたり。……そんな彼らの日常こそが物語になっているの」
これを読むことが何に繋がるというのか、ニナはただただ不思議に思う。
どうアレクサンダーを出し抜くことに繋がるのか見当もつかない。
「貴女はあまりにも乙女心を知らな過ぎるわ。他の令嬢たちがどんな恋に胸をときめかせているのか、何も知らないでしょう?」
ニナは無言のまま首肯する。
「それがそこに書いてあるわ。貴女と同級になる娘さんたちもこういった本を読んで学舎生活に夢を見ている。それを知ることは間違いなく貴女の思考に幅を持たせることに繋がるわ」
なるほど、ニナはこういった分野にはあまりに無頓着だった。
どのようなモノでも知っているのと知らないのとでは雲泥の差が出るのが戦場。
父であるローランドから学んできたはずなのにとニナは歯噛みする。
「これをどう使うのかは自由よ。……私は貴女の全てを支持する。私のことを愛してくれている貴女を信じる」
ネリーが立ち上がり微笑んだ。
「頑張りなさい私たちの娘。……貴女の本気を見せて?」
その言葉を最後に彼女たちは部屋を出て行った。
ニナは伯爵邸に戻ってから貪るように一冊読み切った。そして翌日には王都の本屋を梯子して手あたり次第気になるものを買い漁った。
あとはひたすらそれを読む。
とにかく読み尽くした。
こういったものにも流行りというのがあると知った。
「……平民モノ……ねぇ?」
ニナは嘆息する。
平民出身少女が右も左も分からない貴族社会で翻弄されるストーリー。
それを助ける王子であったり貴族令息。
そんな彼らの身分違いの恋。
男性にはすでに政略婚の相手がいたりする。
その令嬢はわがままだったり高圧的だったりですこぶる評判が悪い。
少女と令息は学舎での生活でお互いの考え方の違いに驚いたり反発しながらも少しずつ距離を縮めていき、やがて恋に落ちる。
その過程で婚約者令嬢からの嫌がらせがあったりして、それが更に二人を燃え上がらせたりして、最終的に――。
ニナもこのストーリーが気に入った。
……あまりにバカバカしくて。
現実にありえないから熱狂的な支持を受けるのだろうと分析した。
(……どう使うかは自由)
あの日のネリーの言葉だ。
乙女心を学ぶ為、友達を作る為。
その教材代わりに使ってきたけれど、ニナの中で思うところがあった。
(……もしこんな展開が私たちの通う学舎で起きたとしたら?)
さぞかし皆の注目を集めることだろう。
「――仕掛けるのはたった一度」
そのたった一度の機会を上手く使うことが出来れば、勝利が転がり込んでくる。
ニナはいつの間にかカラカラに乾いていた口の中を紅茶で潤した。
(絶対に焦っちゃダメ)
ゆっくりと時間をかけて、学舎中の隅々まで毒を巡らせる。
確実に息の根を止めるその日から逆算して。
ニナは呼吸するのも忘れて、ただひたすらに深く深く思考の海に沈んでいく。大きく呼吸して新しい空気を身体中に取り込み、再び沈む。
それを何度も繰り返す。
何度も、何度も。
やがて罠の形がくっきりと見え始め、それに伴いニナの口元が獰猛に吊り上がっていく。興奮しているのか、身体は全体的に熱を帯びてきた。
彼女の瞳に活力が再充填され、燃えに燃え始めた。
これこそ、今まで誰の目にも触れることなかったニナの持つ真の輝き。
とある女性が娘に遺した強烈過ぎる輝き。
ネリーが今の彼女の瞳を見れば、きっと狂喜の涙を流したであろう。
(アレク、勝負はこれからよ。私の渾身の一手思う存分味わうといいわ。少しでもミスしたら一生飼い犬だからね? ……それはそれで楽しそうだケド)
ニナは自身の真の願いを形にすべく動き出した。
―――――――――――
ここまでが前半戦です。
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