第4話 15歳 アプローチ地獄
割り当てられていた控えの間に戻ったニナは派手にえずいた。
(――アイツ、血も涙もないわ!)
こうなることを想定していたニナは、パーティ前も始まってからも絶対に食べないと決めている。その為、彼女の胃の中には何もない。
だからただただ苦しい
辺境伯領から連れてきた侍女が血の気の引いた青い顔でひたすらニナの背中をさすり続けていた。
ニナとアレクサンダーがファーストダンスを済ませ、知人を見つけた彼が彼女の側を離れる。
それが合図。
その瞬間からニナの孤独な戦いが始まるのだ。
次から次へと彼女に群がる男たち。
婚約者がいるニナに対してのその行為は、本来ならばマナー違反。
しかしそれを注意する者は現れない。
露骨にニナが嫌がったり、強引に個室に連れ込むだとか、そういう物騒なモノではない限り、世間話の延長と見ることにしたらしい。単純に面倒事に関わりたくないというのが遠巻きで見つめる面々の偽らざる感情だろう。
吐き気のするような甘いセリフを連発して熱心に口説いてくるしょっぱい顔の男たちと、完璧な笑顔でそれらに応対するニナの組み合わせは、どこのパーティでも見られる光景だった。
何故このような事態となったのか。
これには大きく二つ理由があった。
まず一つは
ほとんどが取るに足らない嘘。
否定するのすらバカバカしい嘘。
ただその嘘の数と種類があまりにも多過ぎるのが問題だった。
ニナが婚約者アレクサンダーに不満を持っているというのを下敷きにして――。
『屈強な軍人たちに囲まれて育った彼女は、婚約者のような優男ではなく体格の良い男が好きだった』
『貧乏な辺境伯家はクライツ侯爵家からの援助を期待して縁談を進めた』
『兄たちに全力で愛されてきた彼女は、年上の結婚相手を求めている』
『二十歳近く年齢差のある辺境伯に嫁いだ亡き母同様、ニナもかなり年配の相手にしか恋愛感情を
『田舎生まれで社交が苦手なニナは、王都から離れた土地を持つ貴族と結婚するのが幸せ』
などなど、挙げればキリがない。
部分部分に真実が
ちょっと調べればすぐに分かることなのに、それに踊らされるバカの多いこと多いこと。
クライツ侯爵家、アルヴィナ辺境伯家が否定し一旦下火になるも、再び別のところから火が付く。
両家とも面倒になったのか、一定の時期から明らかな名誉棄損のものを除いて基本放置し始めた。
ニナからすればもうちょっと頑張ってくれてもいいのにと思うのだが、何かと重要な責務を抱える両家がそんなバカバカしい噂話に関わっているヒマなどないというのもよく分かる話で。
結果、これらの対処はアレキサンダーとニナに任されることとなった。
その噂を
パーティの規模によってはクライツ侯爵夫妻も一緒に入場する。今日に至っては辺境伯ローランドまでもがそこに加わった。
そんな感じで両家が円満を見せつけているにも関わらず、今回もこの騒ぎ。
社交の場である以上、ずっと二人きりという訳にもいかない。
とくに次期侯爵、しかも中央が主戦場のクライツ家の嫡男たる彼には、顔を繋いでおかなくてはいけない相手が山ほどいた。
そのスキを見て、噂にひっかかった
遅れじとほかの
『後添いにどうだ?』
『愛人になりませんか? ……ご実家への援助も可能な限り――』
『○○軍所属です。どうか俺と踊って頂けないでしょうか?』
『婚約破棄して私の妻になって下さい。都会を離れて静かな領地で一緒に暮らしましょう!』
ニナを落とそうとあの手この手のアプローチ合戦。
後日プレゼントが届くことも度々。
下位貴族ならば家格の違いで無視も出来るが、噂に踊らされる者たちは『自分こそが彼女の好みのタイプなのだ』と勘違いするのもやむを得ない程条件に適っていた。
周囲を黙らせる高い爵位を持っていたり。
絶対に困窮させない財産があったり。
恵まれた体格の年上軍人だったり。
純朴で優しい、裕福な田舎貴族の息子であったり。
ダンスの誘いに関しては受けるしかないニナは、他の令嬢をぶっちぎる笑顔で彼らの手を取る。腰に手を回され抱き寄せられ、そんなセクハラまがいのスキンシップもひたすら耐え忍ぶ。
だけど『後日二人で……』などの誘いは、絶対に希望を持たせないようきちんと断る。
この社交シーズン、ずっと不躾と毅然のはざまでの綱渡りを繰り返してきたニナはストレスで限界を迎えつつあった。
何より、もう一つの理由こそが問題だった。
今日もニナが囲まれている間、侯爵夫妻だけでなく父ローランドまでもが動かなかった。たまに父がニナに絡む男の背中を射殺さんばかりに睨みつけているが、それだけ。絶対に動かない。
何のために出席しているのかとダンス中に何度も父を睨みつけたが、彼はそっと目を逸らすだけ。
絶対に一発入れてやると心に決めたが、それは屋敷に帰ってからの話。
おかげで
ニナの血統に関しては秘密でも何でもない。
クライツ侯爵家がニナの血を欲したのと同様、他の家も彼女を欲した。
誰かに取られるぐらいならと勝ち目がない人間までもが参戦し始めて収拾がつかなくなるのだ。
笑顔で軽やかにステップを踏む彼女だが、背中に突き刺さる視線を感じるのもいつものこと。
ターンしながらそちらに意識を遣れば、案の定令嬢たちが睨んでいる。
ロクに会話したことすらない彼女たちに嫌われているという状況もいい加減慣れた。
ニナの言うところの『地位や金はある。頭も見たところちゃんと首の上に乗っかっている。……ただ肝心の中身を野犬か何かに喰われてしまった』彼らとて、未婚令嬢から見れば取り合いになるほどの好物件。
幼少期から婚約者を確保しているにも関わらず、そんな彼らを取り巻きにして社交界の華を気取っているニナはとんだアバズレという訳だ。
こうして時が来るまで、この茶番劇が続く。
『――私の婚約者に何か御用でしょうか?』
アレクサンダーが満を持して割って入ってきた。
ニナは毎回『遅過ぎる!』と心の底で
颯爽と登場するアレクサンダーの姿は周囲から、アプローチに困っている姫を守る若き
どちらにしろ、立場ある年上男性相手に一歩も引こうとしない彼の姿は令嬢たちの心をあっという間に掴む。
元々アレクサンダーは令嬢たちの憧れの的、この国屈指の超優良物件だった。
母譲りのルックスは最高レベル。
父譲りの知性も最高レベル。
王太子の従弟でもある彼は、当然血筋面でも最高レベル。
王族との結婚は義務だとか妃教育だとか何かと面倒そうだが、侯爵家ならば
浮気性の婚約者を一途に想うところも文句なし。
そんな彼をないがしろにする婚約者ニナは……と返す刀で睨まれる。
『婚約破棄したいならさっさとしてよ! いつまで待たせる気?』と。
今夜もその突き刺さる視線で、ついにニナの胃は限界を迎えた。
その痛みに耐えきれず、差し伸べられたアレクサンダーの手を振り切ったニナは、辛うじて駆け足ではないものの早足で控え室へと逃げ出すのだった。
「――ありがとう。…ちょっと身体を休めたいの。一人にしてくれるかしら?」
ニナの言葉に侍女が無言で頷いた。
一人にしておきたくないが、ニナが言うのならばと渋々納得した顔で下がる。
彼女はソファに深く腰かけて、水差しにあった温い水をコップに注ぎ、喉を鳴らして一気に呷った。
「何なのよ、アイツ……」
困っている女を助ける男。
そんな男に惚れる女。
「……陳腐な話だこと!」
そう吐き捨てたところで、毎回懲りもせず心が揺さぶられてしまうのはニナの方だ。『お願いだから早く助けに来て』と、いつも無意識のうちにアレクサンダーの姿を探してしまう。
自分をかばう彼の背中に男らしさを感じてしまう。
令嬢たちを
……そんな感情に
アレクサンダーは本気で自分を惚れさせに来ていると、ニナは確信していた。
(……今更そんなことしなくたって、もう私は――)
そこまで考えて、我に返ったニナは慌てて首を振った。
「だから、私は……あんなヤツ好きじゃない!」
何度も何度も繰り返し『好きじゃない』と口に出して、自分自身に言い聞かせる。
そうでないと負けが決定してしまいそうだった。
(その上で無理矢理浮気性という
誰がこれらの噂の出所なのか確信を持っていた。
「……こんなにも差が付いていたなんて」
庭の大木で蹴りの練習をして悦に入っていた少女期の自分のなんと愚かなことか。
おまけにこの年齢になってダンスで蹴りを入れる訳にはいかないから、その武器は使えないときた。
それに引き換え――。
(……ねぇ、私から全てを奪うつもりなの、アレク?)
心を奪って。
名誉を奪って。
純潔の信用を奪って。
そして大好きな義母や義父、そして可愛がってくれる侯爵家の皆までも――。
何もかもニナから奪い取る。
こんなに恐ろしい男だと知らなかった。
十分渡り合えると信じてきたし、その思いがニナを成長させてきた。
だけど、それがただの思い込みだったとしたら?
ニナは途方に暮れる。
(この状況からどう巻き返せばいいの? ……どうすれば?)
そんな中、コンコンというノックが響いた。
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