第6話 18歳 『ただの友達』が意味すること
「――なるほど、この筋は全然見えていなかった」
アレクサンダーの手元にあるのは今日ようやく上がってきた報告書の束だ。
それを読み込み、幾分か冷静になれた彼は感心と共に素直に逆転を認めるに至る。
ニナの打ってきた手の鮮やかさに脱帽だった。
決して彼と手無防備だった訳ではない。
侮っていた訳でもない。
ニナがあのまま潰れるなんて思っていなかったのだから。
元々学舎に入学してからが勝負だと考えており、それなりの覚悟をしていた。
……かなり激しい手を打ってくるであろう覚悟を。
母から苦笑まじりに『よくもここまでやれるものね?』と呆れられた。
アレクサンダーの仕掛けた『独身貴族アプローチ大作戦』のことだ。
だけどそれは違うと彼は言いたかった。
母が『何かあれば口を出す』と言っていたからこそ、このような思い切った手を打てた訳で、むしろ『今更そんなことを言うのであれば、もっと早くに止めてくれればよかったのに!』との言葉が喉元ギリギリまで出掛かっていたぐらいだった。
(母上が動かないからまだ大丈夫だと考えた僕はそこまで悪いのか? …………いや、やっぱり悪いなぁ)
アレクサンダーは溜め息を吐く。
ギリギリまで追い込んでから優しくしてやるつもりだったが、すでに一線を越えていたらしい。
ある程度事情の知る母だけでなく父ギュンター、そして辺境伯ローランドでさえ口を出さない状況はニナをさぞかし追い詰めたことだろう。
(……って、おかしくないか?)
アレクサンダーは今になって気付いた。
侯爵家が重い腰を上げたのは母から忠告を受けてからのことだったことを思い出す。それに呼応するように不自然なまでの沈黙を続けていたローランド辺境伯も動いた。
(つまり両家が動かなかったのは母上が止めていたからだ。……母上にも母上なりの事情があったってコト?)
だが、それを考えるのは後回しだ。
彼は報告書をテーブルの上に投げ捨てた。
令嬢を
やはり『浮気性』というのは
いつの時代でも婚約破棄や離婚原因の最上位にくるのは間違いない。
次点で両家の事情と精神的な負荷あたりか。
両家の不和に関してはどう考えても無理筋。
だからその中でも最も有用な『浮気性』で勝負を仕掛けた訳で。
負けず嫌いのニナも当然そこで返し技を狙ってくるだろうと待ち構えていた。
「……だけど、まさか合わせ技を使ってくるなんて」
尊敬する辺境伯の血は伊達ではなかった。
そしてアレクサンダーの母ネリーが
子爵家次男ケネス=ベルモルトに彼女が出来たところから話が始まる。
ベルモルト家はいわゆるクライツ一門家。
現当主である彼の父はアレクサンダーの父ギュンターが子供の頃から、それこそ従者の枠を超えた兄のような立場で世話をしてきており、身分違いなど関係なく心の部分で強い結びつきを持っていた。
その彼の息子のケネスがアレクサンダーと同級という事もあり、父ギュンターは彼ら親子のことを頼りにしてきた。
もちろんアレクサンダーにとっても幼い頃から付き合いのある親友だ。
そんな彼だが、ついに春がやってきた。
その相手は今年の春、学舎に同学年として編入してきた平民女性――王都に構える商会を一代で築き上げた商人の養女リリアだ。
とても気立てのいい娘で、無駄に高いドレスや宝石で着飾ったりライバルの悪評を撒き散らすことで相対的に自分の価値を高めようとする、そんなくだらない一部の貴族令嬢などよりも余程気高い心を持っていた。
そういう令嬢に限って平民であるリリアを貶めるのだが、彼女は歯牙にもかけない。そんな逞しさも好感が持てた。
さっぱりした性格でウラオモテなく、声を上げて本当に楽しそうに笑う。
商会の養女に迎え入れられるだけあって、学舎の授業にも平気で付いてくる頭脳も持っている。
少々貴族社会の常識に
何より、ケネス一筋というのが良かった。
奥手のケネスも彼女に首ったけだ。
お互い口にはまだ明確な意思を示していないが、卒業後の婚約も見据えての交際。
そんな清々しく初々しい二人はアレクサンダーにとっても心地良い存在だった。
容姿も整っているリリアは大変人気があり、当然横恋慕する者もチラホラ。
だが当の彼女が『ケネスと添い遂げる』固い意志を持っているのでなびかない。
そうは言ってもイロイロと面倒な貴族社会が相手。
子爵よりも上位の子息による横やりは、彼らの愛だけで撥ね退けられるモノではなかった。
ここでアレクサンダーの出番だ。
『ケネスは将来僕の部下としてクライツ侯爵家を支えてくれることが決まっているんだ。彼の敵は僕たち一門の敵でもあるのだけれど、……大丈夫?』
そう笑顔で諭してやるだけで良かった。
アレクサンダーの目の届かないところでのことは、同じ一門の親友たちに任せる。
こうやって皆で二人の恋路を守り続けてきた。
ケネスとリリアの関係が周知されてきた頃。
ずっと沈黙を続けていたニナがついに動いた。
『私の婚約者から離れなさい』
そうリリアに向けて。
今までアレクサンダーに対する愛情を、爪の先からも見せなったニナの発言とは思えなかった。
(……まさか嫉妬しているの?)
彼が目を見開いたのは無理もない。
当然リリアは否定した。
『自分はケネス一筋です』と。
彼女からすれば心外も心外、とんだ言いがかりだろう。
ケネスも否定する。
『私の恋人です。たとえ親友であるアレクサンダー様であっても譲るつもりはございません』と。
当然アレクサンダーも真っ向から否定した。
『彼女はただの友達だ』と。
その日のニナは簡単に引き下がった。
だが忘れた頃、再びそのやりとりがあった。
定期的に繰り返されること数回。
そのときのアレクサンダーは、『訳が分からない』という感想しか抱けなかった。
調べればすぐに分かることなのに、と。
それを調べ切れないニナではないのに、と。
何を思って、ニナはそんな言いがかりを繰り返すのか、と。
恥をかくのはニナなのに、と。
状況が変化することなく、ただ時だけが穏やかに過ぎ、年内最終登校日となった。
テスト休みを挟んで数日ぶりの登校日で、皆は笑顔で思い思いに年末の予定を話し合う。
この日は定期考査の結果発表でもあり、学年ごと優秀者十名のみだが氏名が張り出される。張り出されるホールに人が集まりつつあった。
アレクサンダーも一応の確認をすべくホールに顔を出していた。
例によって並ぶ名前にほとんど変動はないはずだった。
特に彼らの世代での上位二名は学年が変わってもずっと同じ。
アレクサンダーは最上位に自分の名前を見つける。
これは当然として、見飽きるほど見慣れた名前がその真下……どころか十位以内にすら入っていなかった。
何かを恐ろしいものを予期した彼の肌がさっと粟立つ。
騒がしかったはずのホールに、不意に響いてきたのはカツカツという廊下を規則正しく叩く靴音。
周りの音が完全に消えていることにようやく気付く有様。
彼にとってそれは死刑宣告を告げる音のようにも聞こえていた。
迎え撃つべく、アレクサンダーはそちらを睨み……衝撃を受けた。
そこにいたのはいつもの生気溢れる姿とまるで違う、幽鬼のようなニナ。
やつれて血色もよくないのか肌色もやや青白い。
手入れこそされているものの、明らかに艶を無くした髪はところどころ跳ねている。
どこもかしこもくすんだ彼女だが、瞳だけが病的なまでにらんらんと輝いていた。
その異様な光景に皆がさっと一歩下がる。
このあたりの空気の読み方は流石貴族令息令嬢といったところか。
そして間の悪いことに、平民のリリアだけが逃げるタイミングを失っていた。
ケネスが慌ててリリアに寄り添う。
……こうしてニナの狙っていたであろう舞台が出来上がった。
一転してニナはリリアにすがるような目を見せた。
皆に情緒不安定さを感じさせるのに十分過ぎるほどの哀れさ。
『……おねがい。……私のアレクを取らないで』
弱々しい声だった。
いつもの毅然とした令嬢な声と全く違うその声に、この場の全員があっという間に飲まれた。
『……ちがう、リリアはただの友達だ。……何度言えば分かってくれる?』
いまだ驚きから立ち直れていないアレクサンダーは、自分に向けられた言葉でもないのに思わず口を突いた。
何度繰り返したか分からない『ただの友達』という言葉だったから、つい反射的に。
だけど彼は次の瞬間、一気に周囲の空気が冷えきったのを感じ取った。
その冷気は取り巻く令嬢たちの氷点下の視線から。
そのときようやくアレクサンダーは失策を悟る。
ニナが彼の『彼女はただの友達だ』の言葉を待っていたのだと。
事実アレクサンダーだけでなくケネスの親友全員がリリアのことを友達だとみていた。だから誰後ろ暗くなくそれを堂々主張し続けた訳で。
アレクサンダーたちは彼らなりの理由があってケネスとリリアの周りにいた。
一門の結束力の象徴として。
しかし周囲の、特に学舎で過ごす令嬢たちにとって、そんなことなど知ったことではなかった。
有望な貴族令息たちと絶えず一緒にいる鼻持ちならない平民リリアがいるだけ。
リリアが積極的に貴族令嬢たちと交流を持たなかったことや、アレクサンダーを味目とした周りがリリアを守るべく何を仕掛けてくるか分からない彼女たちとの接触に気を使い過ぎたことも遠因。
何より、当のリリアが令嬢たちに良い感情を持っておらず、当然令嬢たちもそのことに気付いていて――。
そんなリリアが自分たちの代表たるニナを嫉妬で狂わせてしまった。
それが彼女たちの
これこそがニナ
学舎での数年、ニナとアレクサンダーは例の仲良しアピールを続けつつ、定期的に視線で殴り合ってきた。それなりに仕掛け合い、回避し合う。
ニナが何か大きなことを企んでいる気配は見え隠れしていたが。
だがニナは学生生活の大半を令嬢たちとの交流と社会貢献に時間を費やしてきた。
それはアレクサンダーの策によって失われた周囲の信頼を再び勝ち取る為で、罪悪感から彼は黙って見守ってきたし、協力を出来る部分は惜しまなかった。
だが、今思えばこれも工作だったのだろう。
全てはこの舞台を成立させる為。
『……誤解です! 本当にアレク様は友達なんです!』
リリアはそう弁解する。
しかし、それは最悪のタイミングで放たれた最悪のセリフだった。
ニナが怒気も露わに息を吸い込む。
『私のアレクのことをアレク様って呼ぶなぁぁぁっ!!!」
辺境伯譲りの咆哮に、その場の全員が震えた。
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