第5話
◆
久藤 英(くとう はなえ)という男子生徒のことは、あまりよく知らない。
前髪はずっと長いままで切らないし、ちょっとした会話もなんというか…変だ。身長は私よりも頭ひとつ抜けている。着ているワイシャツの首元がゆるいせいでひょろっとした見た目だけど、よく見ると筋肉質であることがわかる。どこか母性をくすぐるところがあるみたいで、私を含めたクラスの女子はあまり興味を示さなかったが、担任の桜先生や保健室の西先生を筆頭に、年上の女性に気に掛けられていた印象がある。図体の大きさとは裏腹に、どこか小動物的なオーラをまとっている生徒だった。名前も女の子みたいだった。彼がクラスメイトからはなちゃんと呼ばれているのは聞いたことがあった。
それまでの接点は、ただ同じ高校の同じクラスというだけ。背が高く、自己主張も乏しいから、色んな先生からしょっちゅう教科書やノートを運ぶのを手伝わされている印象もある。実際私も、クラス委員として振られた仕事を彼に手伝ってもらったことがあった。不良っぽいグループはいるらしい──何故か新年度からはだいぶ大人しくしている──が、私の知る限り、少なくとも私が通っている“区画”の学校でそれらしい問題はないはずだ。
とはいえ、彼は都合よく使われることが多い。私も便乗してしまっていた。
でも控えめだからか、彼から何かを求めることもなかった。朝登校し、すれ違った皆に挨拶し、授業の合間に頼まれごとをこなし、放課後になれば帰宅部としてさっさと帰る。お昼をどこで食べているのかなんてことも、私は気に留めたこともなかった。
少なくとも、先週までは。
──奴らが家に現れるまでは。
あの時のことは思い出したくない。
下校の途中から、妙なワンボックスが後ろをつけていたことは気づいていた。というより、今思えばむしろ煽られていたように思う。私が歩みを止めればその車も止まった。警察を呼ぶことも頭によぎったけれど、こんなことで呼んでいいか分からず、結局躊躇ってしまった。
気づけばもう自宅のすぐそこだったから。
でも結局、追い込まれていただけだった。
今までずっと内心で噛み殺してきた男性恐怖症はよりひどくなったし、奴らが踏み込んできたときのことはもう思い出したくもない。警察からの事情聴取には吐きながら応じたし、これから実況見分などの手続きがあるかもしれないと刑事から聞いただけでうんざりした。
でもそれでもまだ正気でいられるのは、彼が目の前で奴らを痛めつけてくれたから。
警察の取り調べの中で彼の身元は当然何度も聞いたけど、捜査中の一言ではぐらかされ続けている。それは母も同じだったようだった。“彼”が何か不利益を被ることがあればと、母が会社の顧問弁護士に掛け合って準備を進めていたのを私は知っていた。でも結局、彼からの音沙汰も、警察からの知らせもないままだけど。
「……殺してくれてよかったのに」
母が駅前で買ってきたチーズケーキをつつきながら、ふと零す。
でも母は何も言わなかった。微笑む顔を見れば決してそれを否定していない。むしろ、積極的に肯定しているように見える。
「ハンカチ見せて」というと、箱の正面が大きく切り抜かれたデザインの化粧箱入りのハンカチを母が見せてくれた。「使わないの?」
「大切にしておきたいの」
「いいな。私も欲しかった。もらっていい?」
そう言うと、母は年甲斐もなくムッとした顔をした。それでも我が母ながらやたらと若く、痛々しさはない。ハンカチを私から取り上げようとする。
「うそうそ、ちょっと待って」
「嘘じゃないでしょ」
「欲しいのは本当」
「私がもらったものだもの。お返しにね」
ふふん、と勝ち誇ったような顔をする。私よりも少女かもしれない。でも私は知っていた。「そういえば」
「あの人、見つけたかも」
「そう」
母──葛原 あきの目が光ったような気がする。
「うちに呼べる?」
見た目だけで言えば姉妹と間違われるほどに若く見える母は、娘がこう表現するのはすごく…奇妙だけど、妖艶な魅力があった。夫、私からみれば父がなくなったのは中学2年生の時で、あまり年数は経ってないとは言えその頃から女手一つで私を育ててくれている。実際に父の保険金もそれなりの額が降りたらしいが、それは私の学資に当てるという話の流れで出てきた内容だった。
大きなショッピングモールであれば必ずテナントに入っているような女性用下着ブランドを営む母は、100人規模の社員とそれよりも多くのパート従業員を抱える会社の代表だった。少なくとも10代のうちに買えるような価格帯ではないブランドのものを。
そもそも父は会社の顧問弁護士だったのをきっかけに母と付き合い始めたらしい。私にはよく分からないけれど、父が亡くなったのをきっかけに事業部毎の独立採算制に会社組織を再編したとかで──よく分からないことばかりだけど、私にとって重要なのは、母が私のために人間らしい時間に出勤し、人間らしい時間に帰宅できるよう環境を整えてくれたことだった。
母自身、会社の広告塔としても活動していく中でその魅力は失われていない。下着ブランドの広告塔を率先して行うだけあってプロポーションは完璧だったし、かつて百貨店の下請けをやっていた泡沫の小さい縫製工場だった祖父母の会社を引き継いで拡大してきた母の手腕も、その魅力に拍車をかけるものだった。
再婚相手なんて引く手数多だろうし、私ももう子供だけど子供じゃない。小さい頃は寂しかったけれど、想ってくれているのは知っていた。信頼を置いているからこそ母の意思に従うつもりだった。それでも母は「もう興味がなくなったの」と言い捨てて、私たち2人の生活を大切にしてくれていた。
その中で、あんな酷いことがあったとはいえ、ここまで1人の男性に興味を示している様子なんか見たことがなかった。あの日からの母の反応や立ち居振る舞いはすごく奇妙で、でも…似たもの同士の親子であることを見せつけられている気分になる。
弁護士は一般的にすごく多忙な仕事であるはずなのに、父はむしろ主夫のような扱いに近かった。会社法に関する話題でたまの食卓が会議のようになるのは辟易としたけれど。
でも今になって、今の母の姿を見て思ったことがある。
恐らく“あれ”は、母の一存によるものだった。
愛した男を逃さないための。
「狙ってるの?」
母は微笑んだまま、答えない。
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