第4話


「久藤(くとう)さん!」

 船を漕いでいた身に、張り上げられた女性の声が突き刺さる。頭の上で何かがポコンと音を立てた。

「ほぇっ」

「ほえっ、て。授業中に寝ぼけてないの!」

「あ、う、すみません」

 周りからくすくすと笑い声が漏れる。伸び切ってしまった前髪をより分け、ずれた眼鏡を直して黒板に向き直った。うっかり意識を飛ばしてしまっていた。

 すぐそばには担任兼英語教師の桜先生が立っている。手には丸めた英語の教科書──教師用の指導書を持っていた。先ほどの音は先生がそれで僕の頭を叩いたものらしかった。

 桜先生の年齢は明確には聞いたことがない。確か20代後半だったはずだ。しかし教師として威厳を保つというよりは、どちらかというと生徒に愛されるタイプだ。小柄で、ころころと笑うところが素敵で、修道女を思わせるロングスリーブワンピースがトレンドマークだった。

「お昼休みに生徒指導室に来なさいって言ったのに来てくれないし!久藤さんが私のことをいじめる!」と、頬を膨らませる様は本来では年齢不相応に映るはずだったが、彼女は別だった。

「すみません……」

「あれ、久藤さん、その顔……」

 目元に貼られたガーゼを見た桜先生が顔を覗き込む。「どうしたの?」

「あ、その、フォークを持ったまままま家で思いっきり転んじゃって」「ひぃ!」

「口には刺さんなかったんですけど、目元に……」「ひぃぃ!」

「うーわ」「こえー」と誰かが声を上げた。

「せんせ、久藤がとろいのはいつものことでしょ」

 いちいち新鮮な反応を返す桜先生に、クラスのお調子者が茶々を入れる。どっと湧いて笑う奴もいるし、フォークが目元に刺さる痛みを想像して顔を顰める奴もいる。

 その中にじっとこちらを見据える視線も──ある。


 しばらくのあいだ授業が止まったあと、この日最後の授業が終わった。

 ホームルームが終わり、そそくさとバッグに教科書を詰めて教室を出ようとする。

「ねえ」

 なんというか、呼び止め方も母親に似ている。

「ひゃい」

「ひゃい、って」

 間抜けな返事に少し吹き出したあと、努力して表情を整え、彼女はこちらに向き直った。

「桜先生に呼ばれてるんじゃないの?」

「あ、……そうだった」

「最後の授業で聞いたばっかりじゃない」

 今度は優しく微笑む彼女は、葛原 文(あや)と言った。今学内ではちょっとした有名人だった──つい先週末に起きた事件で。とはいえ、日も経っていない、そう変わらない様子で登校している芯の強さは目を見張るものがあった。

「ごめんわかった。大人しく出頭するよ」と言うと、「出頭ってまた」と笑いをこぼす。こんな笑う子なんだな、と思ったが、ただ単にぼくの言い回しは変に彼女に刺さるようだった。

「でもごめん、眼科の受診を勧められててね。明日になりそうかな」

「そ、っか。今も痛むの?」

「一応見てもらうだけだよ。ごめん、もういいかな。眼科も夕方までだから」

 少し冷たいように聞こえたかもしれないが、あまり話しているのも具合が悪い気がした。

 教室を出る際に片側だけにかけていたリュックを両肩にかけ直し、文の横を通り抜けた。栗色のショートヘアが視界の端でたなびくのが見えた。少し吊り目気味の彼女の瞳が通り抜ける僕の顔を目尻で捉えた。何故か僕を引き止めようとしていて、そのための言葉を探しているように見えた。

「ねえ、あのさ」

「葛原さん、また明日──」

「新しいハンカチありがとう。朝、家のポストに入ってた」

 思わず歩みが止まった。

「なんのこと?」うまくしらを切れただろうか。いや、今更それを気にしてももう仕方なさそうだ。

「──そうね、人違いみたい」

 えらく寂しそうな目をするじゃないか。罪悪感で胸が張り裂けそうだ。

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