第3話 熊さん、ありがとう

 身体に伝わる振動が少なくなる。閉じた瞼に明るさを感じ、耳には涼し気な音が流れ込む。

「着いたぞ」

 その一言で瞼を開けた。上体をゆっくり起こすと渓流の側にいた。

 熊は上流へ歩いて、ここだ、と言って立ち止まった。石で囲まれたところに目を向けると湯気が薄っすらと見えた。

「これって温泉?」

「俺が掘り当てた天然ものだ。ここで人間臭い身体を洗い流せばいい」

「そんなに臭くないから! そっちはどうする?」

「俺には川がある」

 砂利を走って頭から渓流に突っ込んだ。犬かきを披露して中程で回転。丸洗い状態となった。無邪気に遊んでいるようにも見えて頬が緩んだ。

 私は改めて温泉と向き合う。しゃがんで指先を入れてみた。見た目よりは温度が低い。渓流の水を上手く引き込んでいた。

 熊に目を戻すと呑気に犬かきをしている。私は脱ぐ前に大きな声で言った。

「今から入るけど、こっちを見ないでね!」

「どうしてだ? 見られて困ることでもあるのか」

 熊は意外そうな声を返してきた。

「え、もしかして俺っ娘で雌なの?」

「俺は雄だぞ。そっちが雌だろ」

「雌じゃなくて乙女だよ! まあ、それはいいけど、これでわかったよね?」

「どういう意味だ?」

 きょとんとした顔で訊いてきた。苛立ちを覚えながらも私は抑えた口調で言った。

「普通は異性に裸を見られたら恥ずかしいって思うよね」

「俺は最初から裸だが、おまえは気にしていなかったぞ」

「それは、そうだね」

 全く意識していなかった。途端に考えることがわずらわしくなり、さっさと脱いで全裸になった。なんとも言えない解放感に全身を包まれる。ひんやりとした大気も悪くない。

 いつの間にか熊は渓流から出て全身を激しく震わせた。水気を消し飛ばし、その場にペタリと座り込む。私と視線が合った。

「なによ」

「美味そうだな」

「それ、性的な意味じゃないよね。身の危険を感じるんだけど」

「ただのブラックジョークだ」

 言いながら熊は口元のよだれを手で拭う。

「ブラックすぎる!」

 私は掛かり湯をしないで温泉に飛び込んだ。瞬時に肩まで浸かって睨みつける。こちらの警戒心を他所に熊はその場で丸まった。前脚に顎を載せて目を閉じる。

「……寝たの?」

 声を掛けたが反応はなかった。

 湯の心地よさに生欠伸が出る頃、熊が小さく鳴いた。目は閉じたまま、あぅん、と甘えたような声を連発した。湯加減と寝言のような声に癒されて私の意識はひっそりと溶けていった。


 頭だけが揺れる。呼び掛けるような声が耳元で聞こえる。

「なによ?」

「寝すぎだ。早くしないと」

 熊が前脚で私の頭を揺すっていた。声には焦りが感じられる。

 何回か瞬きをして意味がわかった。全てが燃えるような色に染まっている。

「もう夕方!?」

「そうだ。おまえがいつから迷っていたのか知らないが、人間による捜索そうさくが始まっているかもしれない」

大事おおごとになる?」

「俺の拠点が人間に知られてみろ。どうなると思う」

 早口の声に余裕は全くない。私は立ち上がった。身体を乾かす間を惜しんで衣類を身に着けた。

「早く乗れ」

「わかった」

 熊の背中にしがみついた私は風になった。山火事のような場所に突っ込む。

 斜面を駆け上がり、瞬く間に下る。木々の合間を抜けて朽ち木を跳び越えた。

 見覚えがあるようなところを幾つも過ぎた。周囲から音が聞こえる。いたか、と叫ぶような声が右手から上がった。

「もう、ここらでいいよ」

「あと少しだ」

 口数は少ない。それでも強い意志は伝わった。私は背中に顔を埋めて、ありがとう、と口にした。

 薄暗くなった先に光が見える。左右に動いていた。懐中電灯の光かもしれない。

「ここならいいだろう」

 熊は滑りながら止まる。柔らかい下草が生えているところに背中を傾けた。私は横に転がるようにして落ちた。

「俺は行くぞ」

「あの、熊さん。助けてくれて」

 全部を言い終わる前に熊は走り出した。黒い身体はすぐに暗闇に溶け込んで見えなくなった。

 その時、私に光が当てられた。見覚えのない青年が懐中電灯を持った姿で声を張り上げた。

「ここにいたぞ!」

 声を聞きつけた人達が続々と集まってくる。その中には家族の姿もあった。父親と弟は疲れたような笑顔を見せた。

「どれだけ、心配したと、思ってるのよ」

 顔をグショグショにした母親に抱きつかれた。貰い泣きした私は、ごめんね、と震える声を返した。

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