第2話 これがツキノワグマ?

 足が棒になるという表現を初めて実感した。木の幹に背中を預けた私は投げ出した両脚を眺める。感覚が乏しく、棒のような状態になっていた。両腕はだらりと下げて上げる気力もない。

 少し先にある熊笹の葉が揺れている。風は感じない。少し前に見た牡鹿の姿が目に浮かぶ。

 実際に現れたのは黒くて丸っこい熊だった。驚くよりも先に事実を受け入れた。心も麻痺しているみたいであまり怖さを感じなかった。

「なんだひぐまか」

 熊は足を止めて前脚で地面を一掻きした。ちょっとした穴ができた。

「羆だと? 俺はツキノワグマだ!」

 後ろ脚で立ち上がる。胸のところに寝そべった白い三日月模様が現れた。

「なんで熊が人間の言葉を話せるのよ」

「落ちていた本を拾って読んだおかげだな」

「前提からおかしいって。どうして字が読めるのよ」

「天才だからだろう」

 熊は四つ脚に戻ってこちらに歩いてきた。黒い鼻を近づけてヒクヒクさせる。

「おまえ、酷く人間臭いな。こんな山奥に何しに来たんだ?」

「なにって。その、少し催して……それであとは迷子みたいになった感じ?」

「マーキングか」

「そんなことしないから!」

 怒鳴った直後に力が抜ける。思った以上に身体は疲れていた。

「おまえ、麓のキャンプ場から来たのか」

「そうだけど、もしかして、位置がわかる?」

「当たり前だ。ここは俺のテリトリーだからな」

 熊は鼻先を右に向けた。一歩を踏み出して止まるとこちらに目をやる。

「帰りたくないのか?」

「歩く力が、もう、ないんだって」

「人間とは非力なものだな。仕方がない。俺が背負ってやる」

 熊は器用に回る。背中に飾りのような物が幾つもぶら下がっていた。よく見ると注射器が六本も刺さっている。

「痛くないの?」

「何がだ?」

「注射器が背中に刺さっているんだけど」

「そうなのか? 乗るのに邪魔なら取ってくれ」

 熊は背中を近づける。私は疲労で震える手をどうにか動かし、全ての注射器を取り除いた。乱れた毛は手で撫でて這い上がるようにして乗った。

「重くない?」

「重くはないが人間臭い」

「そっちだって獣臭いよ」

「成獣だからな。こう見えて、六回、冬を越している」

 熊は軽やかに歩き出す。落とされないように私は俯せとなった。

「うっ!」

 鼻の奥を突き刺すような臭いに目がうるむ。しばらく耐えていると慣れてきた。というか汚染されて嗅覚が悪くなったのかもしれない。

 心に生まれた余裕もあって先程のことを思い返す。

「……あの注射器、何だったのかな」

「隣の山に遠征した時に付いたのだろう。珍しい物が高く積まれていたな」

「それって不法投棄じゃないの?」

「人間のルールは知らん。色々な物を目にした。人間の本も落ちていて興味深い時間を過ごせて大満足だ」

 熊の上下の動きが大きくなる。声の調子と同じで弾むように歩いた。

「怪しい薬品による効果なのかもね」

「どうだろう。俺は生まれつきの天才で……クッ、風下か。おまえはとにかく人間臭い。鼻がおかしくなりそうだ」

「乙女に臭いって言うな!」

「少し寄り道をする」

 熊は左方向へ急に曲がって走り出す。私はありったけの力で背中にしがみつく。三倍速の動画にいきなり放り込まれた。

 ギュッと瞼を閉じて耐えるしかなかった。

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