運のツキノワグマ

黒羽カラス

第1話 遭難ですよ

 私はいつもそうだ。夢中になるとまわりが見えなくなる。悪癖と言っていい。今回の件も見事に当てはまる。額の汗を掌で拭った。代わり映えしない木々を抜けてひたすら足を動かす。そうしないとまた後悔の大波が押し寄せてくる。

 出っ張った木の根に足を引っ掻けて転んだ。ひんやりした地面が頬に気持ち良くてすぐに起き上がる気分になれない。また大波がきて私は静かに過去を振り返る。


 よく晴れた休日に初めて家族とキャンプ場に訪れた。高二の自分が中学生のハイテンションではしゃいだ。現役の中学生である弟はそのような姉を白い目で見ていた。自覚はあっても止められない。

 キャンプ場の中に流れる小川を見て前のめりで指差す。魚がいるよ、と大発見のように叫んだ。何かを召喚できるくらいの小躍りに家族全員をドン引きさせた。

 バーベキューでは野人になった。とにかく牛肉を狙って食べまくる。グラム四百円と母親に聞かされていたが、信じられない。環境がここまで味に影響するのかと純粋に驚いた。甘辛いタレもあって喉の渇きが強くなる。

 持ってきたオレンジジュースをがぶ飲みした。小川に向かって豪快に息を吐く。弟は後ろで、オヤジかよ、と棘のある声で言った。

 飲めば出したくなるもので、お花摘みに行ってきます、と小声で言って品よく笑う。ビアジョッキでビールを飲んでいた父親が渋い顔をした。

 ここからだとキャンプ場のトイレはかなり遠い。私は木々の中に入っていった。柔らかい下草を踏んで木の中を縫うようにして歩く。そろそろと思ったところに笑い声が聞こえてきた。意外と近い。もう少し奥に行った方がいいのかもしれない。乙女心が働いて緩やかな斜面を上がっていく。

 適当な平地を見つけてしゃがみ込む。野鳥のさえずりを耳にしながら私は至福の時間を過ごした。

 帰ろうとして別の方向に目が向いた。白い花が咲いている。まわりを見ると朽ちかけた木に平たいキノコが生えていた。その手の知識に乏しいので採ることは控えた。他には何があるのだろうと目をキョロキョロさせて小刻みに進む。

 一方で音がした。見ると野生の牡鹿がいた。立ち止まった私を艶やかな黒目でじっと見てくる。こちらも視線を外さないで出方を窺った。間の悪いことに右方向から低い羽音が聞こえる。音はふらふらと移動した。手で払いたい気分をぐっと堪える。

 目の前を黄色と黒の縞模様が横切った。獰猛なスズメバチが頭に浮かんだ瞬間、よろけてしまった。

 牡鹿の反応は早かった。飛び跳ねながら斜面を上がってゆく。私はあとを追い掛けた。薄暗いところに突っ込んでシダを踏み付けて走った。

 疲れ果てる前に見失った。私は苦笑いで諦めて元の道を戻っていく。山の風景の変化は乏しい。見たことがあるようで、無いような斜面を下る。突き出た岩を見て首を傾げた。視界に入れないようにして別方向へ速足で歩いた。

 焦りのせいで足元への注意を怠り、派手に転んで俯せの姿になった。


「のんびりしてる場合じゃない」

 自分に言い聞かせて起き上がる。パーカーに付いた汚れを手で払った。厚手のズボンのおかげで転倒による痛みはない。

 気のせいかもしれない。周囲が薄暗くなったように感じる。スマートフォンは持ってきていないので正確な時間はわからない。太陽の位置は意地悪な木々に阻まれて見えなかった。

 現状を少し考えてみる。山のどこにいてキャンプ場はどちらの方向にあるのだろう。下りてきた斜面を何げなく見ると頭に名案が浮かんだ。

 山頂に立てば位置がわかるはず。確信に似た思いに急かされた私は斜面を猛然と駆け上がっていった。

 どこまでも上りが続く。絶望する前に視線を落とす。足元の近くを見ながら歩いていると呆気なく山頂に着いた。

「なんなのよ!」

 怒鳴ったことで少しすっきりした。相変わらず、周囲は木々に覆われている。記念碑のような物はなく、素晴らしい眺めを楽しめる場所でもなかった。人の手がまるで入っていない実に山らしいところだった。

「……下りるかな」

 今度は方向に迷うことはなかった。一方に決めて歩き始める。

 これ以上、遭難することはないと思う。当たり前だけど。

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