晴れ女の権利
小学生3年生、私がまだ8歳だった時、
私は「晴れ女の権利」を譲り受けた。
それから、私が行くところは必ず晴れるようになった。
「晴れ女の権利を誰かに渡したいときはね」
ずっと前、私にその権利を渡してくれた人は言った。
「渡したい人の肩をぽんと一回叩いて、「ユクサキハレバレ」って言うんだ」、と。
小学3年の時。上手く自分が言いたいことが言えなくて泣いてばかりいた私に、幼馴染の
「泣いてばかりのメイちゃんの涙が雨に変わる前に、あたしからとっておきのプレゼントあげる。」
と言って、私の肩にぽんと手をのせると、不思議な言葉を呟いた。
その時から、私に権利が渡った。
「メイちゃんには、この権利を誰かを笑顔にするために使ってほしいな。」
真はそう言って微笑んだ。18歳になった私は、結局権利を持ったままだ。
この権利を持ってからというもの、人に感謝されてばかりの人生だった。
「メイのおかげで今日晴れたんだよ!昨日天気予報で降水確率95%だったのに、
奇跡みたい。」
「今日雨降ったら推しのライブ中止だったの!本当にありがとう!メイってすごい!」
小学校の遠足。文化祭。野外ライブ。ダブルデート。
私はどこに行っても人を喜ばせた。人は私といると、笑顔になる。
真には感謝しているけど、雨が必要なとき、ところに私はいられない。
だから、私にとってこの権利は、有害無益だ。
人を喜ばせることが多いから、どちらかと言えば、プラス。
だけど、私は気づいてしまった。
晴れ女の権利は、天気を晴れにするだけにとどまらないことを。
晴れ女の権利を持つものは、目に見えないエネルギーを持っていた。
「
「
そういうポジティブさ、の全てだ。
そして、「
「
「暗い」「陰鬱」「無機質」「不幸」。ネガティブ。
だから、「
だけど「陽」は必ず「陰」を包み込む。北風と太陽の原理。
そして、晴れ女がいれば雨女もいる。雨女がいれば、「雨女の権利」を持つ人もいる。私とは反対の、「
「晴れ女」の権利は、「雨女」の権利を凌駕する。
私のいわゆる「ポジティブ」なエネルギーは、他の人の「ネガティブ」な
エネルギーを包み込み、吞み込んでしまう。
ポジティブがネガティブを打ち消すなんて、喜ばしいことに思われるかもしれない。だけど、「陰」のエネルギーは、むく、と「陽」のエネルギーに反応して、必ず、少しばかり抵抗するのだ。防御的反抗といおうか、深層心理的抵抗といおうか、自分を守るために自然と起きる反応だ。
小学生の時は見えなかった、小さな反抗。
それは、私が大人になるにつれて、際限なく発生するようになった。
今は、小さな反抗が、あちこちで私のエネルギーと戦っている。
それは、与えることで感謝されてきた私には耐えがたかった。
真っ黒な台風に足が掬われて放り込まれて、体が切り裂かれるほど辛くて、痛い。
いっそのこと、この権利を誰かに渡してしまえたら、楽になるだろうか。
私は時々思う。
だがそれは、もう人に感謝されないことを意味する。「陽」のエネルギーを分け与えることができないことを意味する。そして、「誰かを笑顔にするために」権利を授かった私の役割が、そこで途絶えることを意味する。
だから痛みから解放されたい、と思うたびに、私は自分に言い聞かせる。
(嫌だよ、権利は私のもの。まだ私は人を笑顔にできていないわ。)
「ふわああ…。」
今日も私は、教室で欠伸を噛み殺しながら、世界史の授業を受けていた。
「現在のトルコの原型となったオスマン帝国は…。」
世界史の先生の解説は、すがすがしいほどに皆冗長だ。
オスマン帝国の領域拡大の年代ごとの比較図。領地が地図上でみるみる拡大してゆくごとく、生徒たちの欠伸も教室上に広がる。
眠気に耐えきれず船をこき、ガクッと頭が揺れる。
「ちょっと、メイ、寝ちゃだめだよ。次絶対メイにあたるんだから」
「ふあ?そう…?」
後ろ席の友人が私の背中をつついている。
「早坂さん」
友人の予想通り、私の名前が呼ばれた。帝国が最大の領地に拡大したのは、何世紀かか。
「1683年です。」
いきなり呼ばれて、まだ寝ぼけ眼だった私は答える。
正解だ。誰もが私を見る。どんなに時代感覚があったとしても、年号まで正確に答えられる人はそうそういない。皆の羨望の眼差しが一気に私に集まる。
「メイやば…。」
私に助け船をだそうとした後ろの席の友人は、自分でなくてよかった、と手をぱたぱたさせる。
私は、頭が良かった。「晴れ女の権利」のせいではない。幼いときから、
数字は一度聞くだけで忘れることはなかったし、映像記憶を持っていた。
そのせいで進学校の最難関コースに自動的に振り分けられた私は、受験を控える同級生たちによく勉強を教えていた。頭の引き出しから知識を引っ張り出して説明することは、呼吸をするくらい容易なことだった。
頭を使わなければならないのは、私の権利についてだけだった。私が行くところが晴れてしまうこの権利は、時に上手く使わないと同級生に迷惑をかけてしまうし、怪しまれる。だから時々、体育や課外授業では、理由を使って教室内にいることにしていた。
気を付けることといえば、それだけだった。
もともとあまり物事に思い入れをもたない私は、多くのことに無頓着だった。高校では、決まったスケジュール通りに生活するだけ。同級生に頼られたら、助けるだけだった。一つのことを除いて。私が思い入れを持つのは、たった一つだけ。
私は、ずっと、探していた。
私の権利を渡す人を。私が、もっとも笑顔になってほしい人を。
幸いにも、いや運命のいたずらか、その子は、私の教室にいる。全ての「小さな反抗」の炎を一点に集めて、私を寄せ付けない子が。こんなの、初めてだった。
通常は、雨女の権利を持った人の反抗で私が痛みを感じるのは一瞬で、後はしゅんとおさまってしまう。だけど、その子の場合は違った。私は勝てなかった。
初めて、「陽」が「陰」と拮抗した。いやむしろ、私は呑み込まれそうだった。
その子の名は芹澤マドカと言った。3年から、都内の私立からうちの学校に転校してきた子だ。人見知りなのか、人が嫌いなのか、いつも散切りのショートヘアに吸い込まれそうな大きな瞳をもたげ、誰とも話さず、つまらなそうに授業を聞いている。
人に肩入れすることはない私だったが、なぜかその子のことが気になった。
3年の中間試験が終わり、短縮授業のため皆が早々と学校を去っていく中、乱暴に教科書をスクールバッグに投げ入れて帰ろうとしていたマドカに、私は話しかけた。
「今日のテスト、どうだった?」
マドカが私をじろっ、と見る。じわり。彼女の反抗の炎が、私の心に入り込もうとしている。
(痛ッ。)
焼かれるような痛みにこらえながら、私はめげずに話しかける。
「芹澤さんって、都内の中高一貫から転校してきたんだよね。めっちゃ頭いいって聞いたよ!」
沈黙。ややあって、私を再びじろりと見入る。
「…せえよ。」
マドカが、横目で私を一蹴して吐き捨てるように言った。
「え?今、何ていったの?」
「うるせえよ。」
「…?」
予想外の一言に私は言葉を失う。言葉を失った間隙に、
またじわり、と炎が入りこむ。猛烈な痛みに、歯を食いしばる。
「あんた、私と同類だな?その権利、振りまいてて気持ち割りいんだよ。私がなかなかのまれねえし、あんたに注目もしないから、のこのこ入り込もうとしてきたってわけか。マジでやめてくれよ。きめえから。」
(え。何、それ。芹澤さんが私に注目しないから気になって話しかけた、っていうの?)
「何を言っているの?私は、芹澤さんがいつも一人だったから、もっと芹澤さんのこと知りたいって思っただけだよ。」
「違うね。あんたは、その「権利」のおかげで、すっかり人にポジティブを振りまくことに慣れちまったんだよ。世の中ポジティブだけがすべてじゃねえって、知れよ。」
マドカは席を立った。教室の椅子が不快な音を立てて倒れ、周りの空間を切るように去っていく彼女を、体を刺すような痛みから解放された私は、見つめていた。
芹澤マドカが転校してきた理由は、クラスの女子のスカートに火を放ったという噂がたったからだ。当事者を含め目撃者はいず、火はすぐに消し止められたため厳重注意で済んだが、悪名が立ったマドカを両親が転校させ、金を積んでこの学校へ特別に編入をさせてもらったようだった。何者かに火をつけられたその子は、精神的ショックを患って入院し、学校をやめた。彼女の両親についてはよく知られていないが、相当な金持ちであることは確かだった。
マドカに私の権利について触れられてから、私はますます彼女に固執するようになった。私が笑顔にすべきは、マドカしかいない。私はそう思っていた。
それからも私は、一度も相手にもしてもらえなかったが、あいさつをしたり、様々な質問を投げかけたりして何とか彼女の小さな反抗の塊の隙間に入り込もうとした。
「死ねよ。」「うぜえ、顔見せんな。」「お前まだいたの?消えろよ。」
返ってくる言葉はそれだけだった。それでも私は何かが返ってきただけで嬉しかった。もう少しで、私の陽が陰を包み込める。もう少しだ。
私がマドカに固執するようになってから、2か月が経った。
2か月が経っても、何も変わらなかった。学校は、夏休みに入ろうとしていた。
1学期最後の日、私は決心した。
マドカの肩をぽん、と一回叩いて「ユクサキハレバレ」ということを。
10年間手放さなかった私の権利を、今日、彼女に渡す。
真がやってくれたように、私もマドカを笑顔でいっぱいにするんだ。
最後の授業が終わり、マドカが先に教室を出たとたん、暗雲がたちこめ、雨が降り始めた。予報になかった突然の雨に、外にいる生徒は頭を覆いながら駅へと駆け足になる。
私はその様子を見てから、校舎を後にした。その瞬間、雨が止み、あたりは黒くて重い雲に包まれる。周りの生徒の足取りもゆっくりになる。
外は亜熱帯のジャングルのように暑く、私はじっとりと汗ばむ。
雨が止んだとたん、マドカが立ち止まる。かと思うと、振り返って私に向かって思いっきりスクールバッグを投げつけた。
ずっしりと重いスクールバッグを、私は寸でのところで受け止める。
「おい、ストーカー。マジでケーサツ呼ぶぞ。」
マドカが叫ぶ。私は彼女が叫んでいるのを初めて聞いた。
「待って。すこしだけ私に時間をちょうだい。」
私はそう言うと彼女に近寄った。全身を燃やされているような、感じたことのない痛みに気を失いそうになりながらも、距離を詰める。
だが、私はあることに気づいた。
マドカが、顔を歪めて、唇が震えているのだ。
「芹澤…さん…?」
「クソがよ。おい、痛いのはあんただけじゃねえって、わかってんだろうな。このおせっかい糞野郎が。」
陽と陰の拮抗は、身体的痛みとなって両方の体をむしばんでいた。
「…っ。もう少しだから、ちょっとだけ、私に時間をちょうだい。」
「あんたもかよ。」
マドカはまた叫んだ。
マドカは泣いていた。空を見ると、今にも雨が降ってきそうな雲が加速してこちらへ向かってきている。
「いいか!あたしは怪物なんだよ!スカートに火をつけたのはあたしだよ!その子も、「晴れ女の権利」を持ってたんだよ、あたしに何度も近づこうして仲良くなろうとして、それで、あたしの「陰」にやられた。心が壊れたんだ。燃えたのは、あの子の体の内側からなんだよ。それも、ぜんぶあたしが壊したんだ。」
(知らなかった。マドカは火を放ったんじゃない。マドカの「雨女の権利」が「晴れ女の権利」に買ったんだ。心をむしばんでしまったんだ。)
「そんな…。知らなかった。で、でも、どうして、そんなにいつも芹澤さんは悲しい顔を、諦めたような顔をしているの?芹澤さんだって、みんなと普通に話すことができるし、勉強だってできるし、みんなに頼られるわ。」
「「晴れ女の権利」の「ポジティブに包み込む」の反対が、「ネガティブで包み込む」ことを忘れたのか?あたしがいるだけで、人が病む。病んだせいで、あたしに肩入れした人間が、事故にあう。人はな、一度ネガティブに囚われたら、どうしたらいいかわかんねえんだよ。あんたは、それを治してるつもりだろうが、ポジティブを押し付けられてもっと苦しむやつがいることをあんたは、知らないんだよ。」
私は言葉が見つからなかった。痛みと悲しみが、私の体全身に血液よりもどくどくと脈を打って、流れる。汗が、首筋を流れ落ちる。
「あんたがどんだけ頑張っても、それはあたしみたいな変えようのない人間を苦しめるだけなんだ。「親」に渡されたこの権利を、あたしは誰にも渡さない。これ以上人を不幸にできねえんだ。わかったか。」
全部、聞いた。全部、聞けた。なぜ、彼女が人を避けるのか。
だけどそれでも学校に通うのは、人とつながりたいって、思ってるからだ。
私なら、マドカを救える。笑顔にできる。私にしか、できない。
私が、絶対マドカを笑顔にして見せる。
スクールバッグを渡すふりをして、私はマドカとの間合いをぐっと詰めた。
急いで片手を伸ばし、マドカの肩をつかむ。
痛い!痛い痛い痛い!あまりの苦痛に体が切り刻まれたような感覚に襲われる。
マドカの目から、また一筋の涙が流れる。
「…っ、おい!ほんとうに、おま…」
「ユクサキハレバレッ!」
私は叫んだ。あたりが静まりかえる。
(成功…したの?)
私は顔を上げる。次の瞬間、私は信じられない光景を目にした。
マドカの体が、青い炎に包まれて、燃えている。炎は、足からじわりじわりと体全体を包んでいくようだった。
「な、何!?ウソ!嘘よ!何が起きたの?
すみません!すみません!誰か早く消火ホースを持ってきてください!早く!
マドカが死んじゃう!!!」
マドカは、ただ静かにその場を動かない。
「失敗だよ。メイ。」
ものすごい熱さに包まれているはずなのに、マドカは痛みなど感じないのか、
諦めたようにそう呟く。
「待って!今助けるから!」
私は、自分の抱えたバッグで必死に火を消そうとする。だが、火はまるでそこにあることが決まっているかのように、まったく揺らがない。
「いっただろ、ネガティブなヤツはそのままにしとけよって。
お前のポジティブ、もっとましなやつに使えよ。笑顔が似合うような、救いたい奴に使えよ。使い方間違えんなって、言っただろ。」
「それは嘘よ!待って…。待って…。私があなたを救うの!私の権利はそのためにあるの!私にしかできないの!」
「もういいんだって。まあ、ここまで試して、心が壊れなかったのは、あんただけだったから。ダメになったのがあたしで良かったよ。ここまで試してくれたのは、ほんとあんただけだ。礼を言うよ。」
火はもはや、マドカの体全身を包んでいた。
今更「生徒が燃えている」ことに気づいた教職員や生徒が、ホースを運んでくる。
「いやよ!死んじゃダメ!ユクサキハレバレ!ユクサキハレバレ!!!!!」
私は最後まで叫び続けた。
「さよなら、メイ。」
私は、何もできず、ただその場に崩れ落ちる。
「あ、それと…。」
「雨女の権利が、誰にもわたらないまま持ち主が死んだら…。どうなるか、知ってる…?」
「え…ちょ、待って!行かないで!
私はマドカがもどってきてくれるなら何度でも助けるから!お願い!」
返事はない。マドカは、燃えて死んだ。
マドカは、その場で塵となった。
「嫌よ!嘘よ!こんなの嘘よ!私が掬えない人なんていないの!お願い!これは嘘だっていって!戻ってきて、お願い!!」
私は、肩を駆けつけてきた教員に抱きかかえられ、意識が朦朧としながら、ただ真っ黒な空を見上げた。
次の瞬間だった。ポツン、と私の鼻先に雨粒が落ちた。
雨…?
それから、ザーッ、という音とともに、大量の雨が落ちてきた。
え、どういうこと…?
まさか。雨女の権利が渡らないまま死んだら、どうなるか。
マドカはそう言った。
まさか。
(…マドカ。あなたの言うとおりだった。)
私は、失敗した。
人の落ち込んだ気持ちを、陰を、闇を、ネガティブな気持ちを、全部明るさで、ポジティブさでかき消せると、躍起になっていた。その結果、私は一つの心を壊してしまった。
マドカは、あの時、こういったのだ。
「雨は、その場で降り続けるんだよ。絶対に止まない雨がね。」
マドカはずっと、ここにいる。決して消えることはない。
これは心に入り込もうとした私への、戒め。
ぐちゃぐちゃになった地面に、私はいつまでも立っていた。
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