精神の王国



「「精神の王国」って、知ってる?」


私の脳内で、懐かしい声が響く。

その言葉をずっととどめていたくて、

私は胸元で自然と指を重ね合わせる。


「人って、どんなに辛くても苦しくても、自分は「こういう人間だ」って信じ込んで、「精神の王国」を作ったら、全然平気になっちゃうんだって。」


ーー「精神の王国」。

こんなことをいうのは、拓斗しかいない。

磯谷拓斗。私の元恋人。

1か月前、急性心筋梗塞で突然亡くなった、私の元恋人。

5年付き合って、婚約もしていた、私の魂の片割れ。


人は自分が体験していないことは決して当事者と同じようには語れない。

大切な人が突然亡くなった時のことは、決してその時になってみないとわからない。

だけど私はもう知っていた。それが起きたら、どうなるか。


コーピングメカニズム。心が疲れた人の処方箋。傷ついた心の治療法。

世の中には「大切な人を亡くした人へ」沢山の救いがある。


あの時は。

あの時は、拓斗が突然死ぬなんて思ってもいなかった。

ある日、拓斗は何の前ぶれもなしに「大切な人を亡くした人の心の治療法」っていう本を借りてきて、


「僕がもし君より先に死ぬなんてことがあるとしたらこれを読んだらいいよ。」


なんて、私にその本を差し出して、今も吹き出しそうになりながら私を見て言ったんだ。私はちょっとだけ怒りながら返した。


「洒落にならないこと言わないでよ〜。拓斗が死んだりしたら、私も死ぬから!」

そしたら、拓斗も少し怒ったような表情になって、

「もう、恋花絶対そう言うと思った。。だから尚更読んで欲しいんだって!」

と念を押す。


「あり得ないもん絶対!」

私は涙声になって拗ねる。


それから私たちは、半分笑いながら、でも半分真剣にその本を読んでいた。だからまさか、本に書いたことが本当になるなんて考えもしなかった。拓斗の言葉は言霊みたいで、何でもいう通りになってしまう。こんなことになるなら、洒落になんないこと、言わないでほしかった。


だけど、その本の中ではっきりと覚えていたことがある。

人が、自分の「大好きな人」が急にいなくなるとき、ぽっかり心に

穴が開いたように感じるのは、その人のことをもう「思い続けることができなくて苦しいから」だってこと。


そしてそれって、本当に体をナイフで傷つけられているくらいの痛みと同じだってこと。


あと、自分が愛しても愛しても、その人から同じように返ってこないとき、

人の心は壊れてしまうってこと。

一度心が壊れたら、もう完全に元通りには戻らないんだって。


だから、私は壊すことを拒んだ。

拓斗が言ったように、「精神の王国」を作ることを決めたんだ。



★★★


あれは、8月のひときわ暑い日だった。私の電話が急に鳴り響いた。


「もしもし、愛島恋花あいじまれんかさんですか?大変残念なお知らせですが、先程、磯谷拓斗さんが病院でお亡くなりになりました。」

訃報。それは突然にやってきた。


「エ…。」


拓人が亡くなったという知らせを聞いた瞬間、私は気を失ってその場に倒れ、すぐに病院に運び込まれた。


だけど、私が意識を失っている時に、私ははっきりと、見た。


四方八方から飛んできて、心臓を突き刺してくる無数の矢と、地面から、後から後から湧いてきて私の足を捕らえる人たちの怒号と冷笑と、頭上から降ってくるどす黒くて私を溺れさせようとする雨から守ってくれる、王国の門扉が開かれたのを。


深い環濠と煉瓦の外壁に囲まれて、はためく国旗が私に微笑みかける王国。

私はその王国の王として招かれた。

王妃の手を取り、私は玉座に座った。



「ねえ!恋花!お願いだから目を開けて!もう、あなたまでいなくなったら私どうしたらいいの…。」

血相を変えて私を見るお母さんの顔が見える。だけどね、お母さん。

意識が回復してきた私は、はっきりと目を開けて、こう言った。


「大丈夫だよ、お母さん。」


「恋花…?そ、そうなの?」


「私、一人じゃないもん。」



病院で目を覚ました私の隣には、私の手をぎゅっと握って離さない、拓斗のような人影がこちらを見ていた。私も、拓斗の手をぎゅっと握り返す。

そしたら、拓斗もまたぎゅって。


「拓斗…!」


それは、正真正銘の私の元恋人、拓斗だった。


やった。私、私の心に拓斗を住まわせたんだ。

私、精神の王国を作ったんだ。

これから、私達で王国に住むんだよ。もうこれで、私たちはずっと一緒だね。

拓斗、喋んなくなっちゃったけど、傍にいてくれて、嬉しいな。



それから私はすぐに病院を飛び出して、拓斗とよく通ってた地元のバッティングセンターに行った。拓斗は小さい時から野球をやっていて、すごくいい球を打つ。


「また拓斗と一緒にここに来れるなんて、なんか懐かしいね。」


私はそう言って、ヘルメットを被り、バットを構える。

拓斗が後で私を見守ってる。前だったら、持ち方が違うよって、教えてくれたけど、ユーレイになった拓斗は、もうそんなこと言ってくれない。


目の前にボールが飛んでくる。時速は80km/h.

カキーン!

私は勢いよく打ち返す。元球児折り紙付きのバッティング。

後ろで拓斗も満足そうに微笑む。


カキーン!

私はまた打ち返す。何度も何度も、その度に私は少し後ろに立っている拓斗の存在を、私の動作の少し後に手を取る拓斗を、感じた。

そばにいる。拓斗はずっとそばにいる。


1セット終わると、私はバッティングセンターを出る。そこからは、河川沿いの土手を歩く、いつもの散歩コース。


「ねえ、なんか春って動物も植物もみんな上機嫌だよね。」

これは頭の中に残ってる、拓斗の声。


だけど、今はもう聞こえてこない。


「恋花、また食べ歩きしようとして!もう、アイスの棒が喉につっかえたらどうするの!」

また、頭の中のが、私に話しかけてくる。私は黙る。


「…。」


どうせ話しかけたって返ってこないし、私はもう期待して言葉を発するのをやめる。


(だけど知ってるよ、ここに拓斗がいるもんね。)

私は胸元に手を持っていく。


大丈夫。大丈夫。

言葉が返ってこなくたって、私は拓斗のことを「ずっと思ってる」し、私の後に真似っこみたいに同じように行動してくれる拓斗は、「反応を返して」くれている。私の心は壊れない。私は「精神の王国」の王なんだもん。


「そろそろ、帰ろうか?」


私は言う。後ろで私を見ているだけの拓斗。

一歩歩いたら、また一歩拓斗が後ろをついてくる。

右手を振ったら、拓斗がその手を取る。


なんで。

なんでそうやって、後ろばっかり。

いつも拓斗は、私の前で、何が起きたって平気そうな顔して私のこと守ってくれてたじゃない。


「ねえ、せっかくユーレイになったんだから、いつもと同じように振る舞ってよ!」

たまらなくなって、私は叫んだ。必死な声が、虚しく空中に響く。


そばにいてくれてる。わかってる。私に反応を返してくれて、励ましてくれてる。なのに、拓斗はもう私の前を歩いてくれない。

私の王国に、私が住みたくない。拓斗が王になって、私が招かれるの。


「嫌よ、こんなの!」


私は全速力で走り出した。ユーレイの拓斗なんていらない!後ろで引っ込んでばかりでいて欲しくない!今までの拓斗が欲しい。

走っても走っても、拓斗は私の少し後ろをぴったりと走ってついてくる。私が手足を動かせば、包み込むように私を支えてくる。


前に、前に、前に…!

ひたひたひた、と拓斗が後ろをついてくる。追っかけてくる。とにかく前に!

私はただ無我夢中で走り続けた。気が付くと、私は母親が抜け出した病院に戻っていた。母親が、医者から説明を受けている。


「お母さん、拓斗がね、変なの!ずっとそばにいるのに、私の後ろをぴったりくっついて、ただ見守ってるだけなの。いつもの拓斗じゃないの。こんな拓斗、私と一緒にいてほしくないわ!私の前を歩いて、私を引っ張ってくれるのが拓斗なの!こんな拓斗、私の王国に住まわせたくないの!」


私の様子を見て、母親の表情が一瞬にして変わった。


「あ、あなた…。」


「え、何?お母さん。」

「あなた、それに気づいて…」

「え、何、何に気づいたの…」


「拓斗くんが、あなたの「後ろ」か「後」にしかいないこと…」


「…!?それが、何なの…?」

私は怖くなる。母親の顔が、今までにないほどに苦悶の表情を示している。まるで怪物を見るような目で私を見ている。

「なに!早く教えてよ!」

母親は目を閉じる。医者のもとをすっと立つと、こちらへ向かってくる。しゃがみこんだ私の向かいに、母親も座る。


「「精神の王国」なんてないのよ。」


母親がいきなり口をひらく。暗い声。地を這うような声。


「は、え?お母さんにそれを言う価値はないわ。私が作ったんだもの。」


「違うのよ。あなたが作ったのは王国じゃないの。私があなたに作ったのよ…」

「…なに。」


「「マスター・スレイブ・ロボット・システム」。」

母親は無機質な顔になって私の目を見て言う。


「は…。なにそれ?」


「あなたが「拓斗」くんとずっと一緒にいる、って感じられるように、あなたの脳内に私が作ったの。そのシステムは、あなたの脳内が動作をしたと感じた数秒後にその動作を繰り返す仕組みなの。だから、あなたが何かをしたら、拓斗くんもそれを一緒になってするのよ…。」


「…。ねえ。ねえ、それって…。拓斗は嘘だったってこと。」


「ごめんね。恋花。あなたを救うにはそれしかなかったの。」


「ねえ!!! 「精神の王国」に拓斗を住まわせたんじゃなかったの!?

私が拓斗に言われた通り、王国を作って拓斗も自分も守ったんじゃなかったの!?全部、全部私の脳が作り出した幻想だったってこと!?ねえ!お母さん!!!どうしてそんなことをするの!!!!」


「ねえ、恋花。あなたが、前に進みたいと思わなければ、そのことに気づくはずがなかったのよ。拓斗くんは、いつもあなたの前で何でもやってくれたんでしょ。それが、あなたが先頭にたって行動を起こさなきゃいけなくなったの。あなたは拓斗君が前にいなくても、前に進めてるのよ!」


「い、いやあああああああ!

嘘よ!!!!黙って!お母さんなんて死ねばいい!私も死ぬ!拓斗が死んだら、私も死ぬんだから!」


病院の窓から飛び降りようとした私を、看護師が取り押さえた。それからのことは、あまりよく覚えてない。ただ、誰もが、私自身までもが、私を救おうと必死だったあの時のすさまじい光景だけは、頭にこびりついて離れない。




今日も私は、病院のベッドでただ天井を見つめている。


あたしの脳内で、また拓斗の声が響く。


「「精神の王国」って、知ってる?」



ねえ、拓斗さ。

ローマは一日にして成らず。

王国なんて、作れなかったよ。

ごめんね、拓斗。

これからもずっとずっとずっと私の頭の中にいる拓斗。


★★★


むかしむかしあるところに大きなお城がありました。

綺麗で、強そうなお城でした。

だけど、その王国の王様は、愚かだったのです。

王国を作ることに失敗した王様のお城はがらがらと音を立てて崩れていきました。

王女様と、末永く幸せには暮らせませんでしたとさ。










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