SF短編集

白柳テア

第1部 SF×サイコスリラー

虫歯

 

 井上桃子(とうこ)の住む町には、かなりの美男子と噂される歯科医が経営している歯医者があった。名を「来栖(くるす)先生」といった。このイケメン歯医者を一目見ようと、あわよくば仲良くなろうと治療を受けにくる女性が隣町からも、隣の市からもやってきた。


あほらしい、と桃子はつぶやいた。元から人の顔などに興味がなく、正直、歯医者なんて治療中はずっと目をつむっているし、なにせ口腔内に何かしらの問題があって行くのだから、あこがれの人物に会う理想の状況ではないと思っていた桃子は、ほとんど興味を示すこともなかった。


 今まで、虫歯などとは全く無縁であった桃子は、まさかこのような日が来るとは微塵も思っていなかったのだが、ある朝桃子がいつものようにコーヒーを飲むと、ピキッと奥歯に激痛が走った。いつのまにか、虫歯ができていたようだった。歯医者に生まれてこの方一度もかかったことがなかった桃子は、仕事のストレスから遅い時間に甘いものばかり食べていたことを悔やんだ。いい年してこれか、桃子は独り言ちた。流石にこのまま放っておくわけにはいかないので、歯医者の予約を取ることにした。運よくこの前親知らずの抜歯に行った際に、推薦状をもらっていたことを思い出し、推薦状に記載された病院の名前を確認した。



まさか、と桃子は思った。あの噂されている歯科が推薦状に?勘弁してほしい、と思ったが、痛みに耐えるわけにもいかない。あれだけ騒がれている医師にかかるのは自分もミーハーになったようで気が進まなかったが、推薦状をもらっている手前通わないわけにはいかなかった。


来院の当日、桃子はいつもと変わらない服装で家を出た。来栖歯科は幸いにも自宅から歩いてすぐの距離にあった。病院に着くと、受付に案内され呼ばれるまで待つように指示をされた。


「井上さん、お入りください。」


衛生士さんによばれ、診察室に入ると、来栖先生らしき人物が挨拶をしてきた。案の定、桃子はあれだけ噂されている来栖先生を見ても、確かに顔立ちは整っているとは思ったが、特にそれ以上の何も感じなかった。その後も淡々と診察は進み、次回が治療ということで今回は痛み止めをもらって桃子は帰宅した。


治療までの数日間、歯にしみるものを口にするたびに痛み止めをのむようにしていたが、桃子は内心焦りだした。頭痛も腹痛もたいがいは薬を飲めばけろりと治ってしまう桃子だったのだが、痛みが全くひかないのである。虫歯が神経まで到達していると何をしても痛いというが、ここまでの痛みを経験することになるとは想像していなかった。桃子は毎晩のように痛みに涙をこらえながら過ごした。


治療当日、一刻も早く痛みから解放されたいと、桃子は服装もほとんど気にせず飛び出すように家を出た。病院に着くとこの前のように衛生士さんに呼ばれ、診察室へ入った。痛みに顔をゆがめながら、桃子は来栖先生に挨拶をし、診察椅子へ座った。局部に麻酔を打たれ、感覚をなくした唇と歯茎の弛緩に今まで張りつめていた焦りもほどけていき、桃子はいつの間にか眠っていた。目が覚めると、治療は終わっていた。


「これで治療は終了ですよ。詰め物をとる必要があるのでまた来てください。」


来栖先生は、自分が眠っている間に何かしたのかと思うほどに、にこやかであった。


それからほどなくして治療後の経過観察のため桃子は再び来栖歯科を訪れた。しかし、診察室に入るなり局部のレントゲン写真を見せられた桃子は、自分が見たものが信じられなかった。



痛みをこらえながら初めてレントゲンを撮った時、これがここまで自分を苦しめる虫歯かと思うほどに虫歯の個所は小さかった。しかし、今見てみると明らかに自分が最初にみた虫歯より大きくなっている。どういうことなのだ。確かに治療はした。虫歯はレントゲンから消えているずだ。桃子は一瞬来栖先生の存在を疑った。この人は、本当に治療をしたのだろうか。。?


「来栖先生、私虫歯が大きくなっているような気がするんですけど、、。」


桃子がそういうと、来栖先生はとぼけた顔でそんなことはなく、治療は無事済んだのであとは経過観察でもう一度くれば終了だといった。自分の勘違いかもしれないと思い目をこすって何度もレントゲン写真を見たが、どう考えても大きくなっているようにしか思えなかった。


最後の通院までの数日間、桃子は毎日のように自分の虫歯が大きくなっていく夢を見た。最後には虫歯が桃子を吸い込むほどの大きな穴になって、桃子はその深淵に落ちていく。


「ああっ。助けて!誰か、助けて!!」


声を出そうとしても出せず、寝ている間に金縛りのような感覚に襲われ、怖くて目が覚めると泣いていた。


自分でもこんなに恐ろしい経験をしたことは今までになかった。すべては、あの歯医者に行ってから始まったのだ。桃子は来栖歯科に行くのが恐ろしくなり、最後の通院の日はほとんど自分がどのようにして家を出たのかも覚えていなかった。


歯医者に着くといつもの診察室へ案内され、来栖医師は局部の確認のためのレントゲン写真を桃子に見せた。恐怖に打ち震えながら、やっとのことで片目を開けてみてみると、



数センチどころの話ではなかった。虫歯は隣の両歯まで侵食していた。それどころか、

桃子は自分を苦しめた悪夢のように、大きく空いた穴に吸い込まれそうな感覚に襲われた。恐ろしくなり、泣き出した。


「先生、私の虫歯がどんどん、大きくなっているんです、、ほら、今だって、、、見てください、、」


来栖先生は治療などしておらず、このまるで生き物のような虫歯が大きくなっていくのを楽しんで微笑んでいるんだ。この先生にかかったこと自体が間違いだった。もうどうしたらいいかわからない。桃子が大声をあげて泣き、起きていることの信じられなさに打ちひしがれてうつむいていると、


「井上さん」


と来栖先生に呼ばれた。桃子は、力なく顔をあげた。来栖先生は、やはりほほえんでいた。悪魔め。


「井上さん、僕のことが好きなんでしょ。」


予想だにしない来栖先生からの言葉に、桃子は泣きはらした目を丸くした。何を言っているのかわからなかった。私が来栖先生のことを好きだなんて。桃子は首を横に振った。


「何を言っているの、今日の君の服装を見てごらん。」


桃子はハッとして自分の服装へ目をやった。なんと桃子はランジェリー一枚だったのである。しかも、明らかに自分の胸が強調されているものだった。涙を拭いた手を見ると、自分ではほとんど使うことのないマスカラの線がなびいている。桃子は何が起きているか理解ができなかった。セクシーな恰好?厚化粧?なぜ?何のために?誰のために。。。? 桃子はそこまで考えてハッとした。まさか、来栖先生。。?


「やっと気づいたみたいだね。虫歯が大きくなっているなんて、君、僕にまた見てもらいたくて、そんな嘘をいったんでしょ。」


嘘を言ったわけではなかった。あの時は本当に桃子の目の前で虫歯が大きくなっていた。いや、いるように桃子の目には映っていた。


しかし、それはただ、来栖先生という人物を好きになってはいけない、という桃子の心理が見せた幻影だった。診る者の不安を一瞬で取り除く、優しく包み込むような笑顔と、バリトン歌手のように響く声を持つ来栖先生。日々の仕事に忙殺され、仕事のためにほかの要素を削ってきた桃子の心に刺さらないはずがなかった。桃子はその事実に気づき、とっさに本心にふたをした。しかし、虫歯が小さくなればなるほど、深く深く落ちていく。虫歯が大きくなれば、絶対に治らなければ、ずっと来栖先生に見てもらえるのだ。


桃子は、本気で恋に落ちていたのだ。


大きく深い、ぽっかりとあいた穴。今更気づいてももう遅かった。


「君の服装がどんどん女性らしくというか、大胆になっていくからこっちも驚いてしまったよ。それと井上さん、治療したときに寝ていたでしょ。あの時、君なんて言ったか覚えている?」


覚えていなかった。きっと取り返しのつかないことをいってしまったに違いない。桃子はもう来栖先生を見ることができなかった。



「君はそういったんだ。僕はどういう意味か一瞬考えた。君は、きっと自分の思い込みで自分を縛り付けているんじゃないかな。僕もそういうところがあるから、思わず共感してほほえんでしまったんだ。」


なんだ、それは。自分でそんなことを言っていたのか。そんなことより、来栖先生がそういう私を見透かしていたなんて。先生を好きになってしまったことすら認められなかった自分に、仕事を抱え込んでストレスで虫歯になってしまった自分の限界に、気づけていなかった。自分を縛る思い込みが、ついに幻影となって桃子の前に現れ始めたのだ。


桃子は言葉が見つからず、今までありがとうございましたとだけ伝え、もう病院へ戻ることはなかった。




あれは、もう数年前の話だ。来栖先生は最近結婚をなさったと聞いた。桃子が人をあそこまで好きになったのは初めてで、しばらく気持ちの整理をつけるのに時間がかかったが、その分自分の欲望に率直になることを学んだ。


世の女性たちが通い詰める来栖歯科は、その女性たちは、いったいこれからどこへ向かうのだろう。


深くどこまでも落ちていく、自分の欲望。それをふさいでしまうのも、広げてさまようのも、自分次第なのだ。


桃子は定時ぴったりに作業をしていたパソコンを閉じ、ふっとため息をつき、そう思うのであった。


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