私の日記 #2

妙なことが起こった。病院から出たとき、女の人に声をかけられたのだ。昨日はありがとうございました、と。

昨日?と私が聞き返すと、昨日、財布を忘れて病院の受付で途方に暮れていた私に、お金を貸してくれたじゃないですか、とその人は言った。

昨日も私は病院にいたのか、と思いながら、ああ、そういえばそうでしたね、と誤魔化した。

でもよく、今日もここにいるってわかりましたねと私が言うと、その人は、あなたが昨日教えてくれたんじゃないですか、と怪訝そうに言った。

ごめんなさい、忘れっぽいんですと言うと、彼女は笑って私に、私が貸した覚えのないお金を返してくれた。


よかったらお礼にお茶でも奢らせてください、という誘いを断ろうとしたそのときに、また意識が途切れた。

そして私は家にいた。何をしていたのか、まるで覚えていない。スマートフォンが不意に鳴って、そこにメッセージが表示された。美奈子という女性かららしかった。今日はたくさんお話ができて嬉しかったです、というメッセージが、可愛らしい絵文字で彩られていた。

一体、何を考えているのだろう。私は。

ショーウィンドウのガラスの前で真っ赤になりながら血液を舐めていたあの時の私も、あの女性のお茶の誘いに乗ったらしい私も、私とは全然関係のない、どこかの他人のような気がする。

冬夜くんが死んでしまったことも、何か他の人の話のような気がする。何もかもとても遠い。私は、本当に私としてここにいるのかどうか、どんどん自信がなくなってくる。

通知音がさらに鳴って、新しいメッセージが届いていた。

「よかったらまた会えませんか?冬夜さんのこと、もっと知りたいです」

私は口を半分くらい開けたまま、その画面を見ていた。冬夜くんのことを、なぜこの女が知っているんだ?話したのか?私が?

なぜそう勝手なことをするんだろう。

私はそれには返信しないで、ベッドに横になる。台所に溜まった大量の洗い物をどうにかしなければならないと思いつつ、その元気がないので目を閉じる。


次に目を開けると、私は変わらずベッドの上だけれど、いつのまにか台所の洗い物が終わっている。

これじゃあ、自分が十分な睡眠をとっていたのかどうかすらわからないじゃないか。うんざりしながら身を起こして、ほとんど習慣になっている動作でスマートフォンを見る。

「もちろんです」

自分は打った覚えのないメッセージだった。

見覚えのないレシート、見覚えのない薬、見覚えのない服、見覚えのない女の人、見覚えのないものが、どんどん増えていく。これがいつか何もかも見覚えがなくなってしまったとき、私はきっと──と思いながら洗面所に向かい、顔を洗った。

ぬるま湯で顔を濡らし、泡立てた石鹸を顔につけて、下を向きながらそれを洗い落として顔を上げると、ちょうど洗面台の上にある鏡に、私の顔が映る。

──見覚えのない私だ、と思う日が、いつかやってきてしまう。

それは恐ろしいことだ。少なくとも今は、恐ろしいと思えている分だけマシなのかもしれない。そうやって自分を慰めることで、なんとか自分の形を保っている。今の私のうちの、一体何割くらいがこの私なんだろうか。

尋ねてみようか、この人に──そうふと思い立って、スマートフォンをもう一度開いた。

「今、会えますか?」

今、私が私であるうちに、私は私でない私の手がかりを掴みたい。ただその一心だった。

「無理だったら、電話でもいいです」

メッセージに既読がついて、スマートフォンに電話のマークが表示された。

「もしもし」

聞こえた声は、あのとき病院の前で話しかけてきた女性の声に違いなかった。

「どうかしたんですか?急に」

「えっと、その、」

私は言い淀んだ。そういえばどうやって話を聞き出すか考えていなかった。私は病気だから何も思い出せないんですと正直に見ず知らずの女性に話す気にはなれなかった。

「昼間、話したことについてなんですけど」

「昼間?どの話ですか?」

そんなの、私が聞きたい。

「その、忘れっぽくて、私。どんな話を人にしたか、忘れちゃうんです。だから確認しておきたくて」

厳しい言い訳を辿々しく並べた。

「変なの。べつに、他愛もない話ですよ、アガサクリスティが好き〜とか」

アガサクリスティが好き?

私は冬夜くんの家からもらってきた遺品の山に目をやった。赤い背表紙の文庫本がうずたかく積まれている。


アガサクリスティが好きなのは、私じゃなくて冬夜くんだ。

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