第五話 快晴、快音、咆哮 その6

 勝負を公平にするため、試合をやってもらった審判さんに無理を言って一打席だけの審判をお願いした。さきほど戦っていた両チームの女子たちの視線が、俺たちだけに集まる。


「一打席でいいんだな」

「おう。充分だ」


 俺はヘルメットを被って打席に立つ。少し前まではここに来るだけで足が震えていたのに、今は何も感じなかった。勝利の興奮が、感覚を麻痺させているのかもしれない。

 ベンチで武田たちが見ている。心配させないようにしないとな。


「よく見とけよ。バッティングのお手本だ」

「好き勝手いいやがって……!」


 高橋は唇を噛みしめていた。こんな安い挑発乗ってたら、甲子園のヤジに耐えれないぞ。


「ほら、全力でこい」


 俺は打席で細かく数度息を吐き、全身から力を抜いた。

 だがこれはスポーツでよく聞くルーティンというやつではない。というより、俺はルーティンなど作っていない。強いて言うなら、毎日の努力がルーティンだ。積み重ねてきた努力が、俺の心に確固たる自信となって力をくれる。

 この自信があれば、余計な力も思考も必要ない。


「俺の努力で、お前のいう才能を否定してやる」


 天才だなんて言わせない。

 武田たちが肯定してくれた今までの努力を、才能なんて言葉で片付けさせない。


「負けるかよ。俺だって何万回って素振りして、何万回って投げてきたんだ……!」

「何万回、ねえ」


 高橋が静かに振りかぶり、外角の厳しいコースに剛速球を投げた。

 判定はストライク。ずっと女子の球を見てきたので速く感じるが、打てない球じゃない。

 俺は足元の地面を掘って体勢を作り直し、再びバットを構える。

 二球目が来る。変化球か、ストレートか。どちらにせよ、最高速があのストレートなら問題ない。俺はストレートのタイミングでボールを待つ。


「――ふッ!」


 球種は、スライダーだった。でも、関係ない。

 快音。

 金属バットでボールを完璧に捉えたときには、打ったという感覚はない。硬い球を打ったとは思えないほどふわりとした感触が、手の中に薄らと感じるだけだ。快音を聞いて、快晴の空に一番星のように佇む様子を見て、初めて打ったという感覚が全身に染み渡る。

 俺が引っ張った渾身の打球は、いとも容易くフェンスを越え、初雁球場のライトスタンドを埋める木々たちの中に消えていく。


「甲子園でもホームランを打ってるんだ。これくらいの球場だったら狙って入る」


 遥か彼方へと消えていったボールを見て、高橋はその場に崩れ落ちた。


「クソ、クソおおお!」


 怒りと悔しさに任せて振り上げた右の拳を、俺は止めた。


「利き手はやめろ。怪我するぞ」

「クソ、どうしてだよ! 野球は辞めたんだろ! それなのに打てるって、才能じゃねえか!」

「毎日、朝に素振りを千回、夜にランニング一〇キロ」

「……え?」


 俺が野球を辞めても続けてしまっていた、日課のトレーニング。朝に早く起きてしまう時間を潰すために、惰性のように繰り返していた素振り。

 女子野球部に入ってからも、朝の素振りも夜のランニングも欠かしたことはなかった。


「何万回もって言ってたよな? 俺はその何万回を、一ヶ月でやってるんだよ。毎日欠かすことなく、ずっと振ってきた」


 野球を辞めても、この素振りのせいで手が固いままだった。やめようと思ってもやめられない呪いのようなものだと思っていたが、それも確かに俺の中に自信となって宿っていた。


「俺が打てたのは才能があったからじゃない。ただお前より努力した。それだけなんだよ」

「……そんなの、最初っから知ってるよ、ちくしょう……」


 力の抜けた高橋の右手は、マウンドの土をそっと撫でた。

 細く長い深呼吸をした高橋は、小さく呟く。


「二度と野球はやらないのか」

「もしかしたら、大学でケロっと始めてるかもな」


 高橋の肩が、ピクリと動く。


「なら、それまでに絶対にお前を超える。卒業までに絶対に甲子園に出て、お前よりもいい成績を収めてやる。覚えてろよ」

「ああ、覚えておくよ。頑張れ」


 俺がそっと背中を叩くと、高橋は静かにグラウンドから去っていった。その後ろ姿を、荒畑が追っていく。多分あいつらは強くなる。俺も武田も、もっと頑張らなくちゃな。

 そして、ベンチの方へと体を向けると、武田たちが感動の眼差しを俺に向けていた。

 一番初めに走ってきたのは、もちろん武田だった。


「凄い凄い! 本当に凄いよ冬也くん! 私、生まれて初めて場外ホームランを生で見たよ!」

「お、おう。ありがとな。でも、球場が小さいから飛んだように見えてるだけだぞ?」

「それでもだよ! 本当に凄い! 私、とっても感動してる!」


 そんな目で俺を見ないでくれ。どんどん冷静になってきてバットすら手放したくなってきてるんだから。武田が手も握ってきた。さっきは訪れなかった緊張が一気に押し寄せる。

 助けを求めて周囲を見渡す。

 相澤は……駄目だ、殺す気で睨んでる。

 なら、遥か!


「本当は助けてあげたいけど、私も冬也を褒めたいから千夏側につこう」

「遥!? こういうときに武田を剥がせるのはお前だけなのに!」

「うーん。ああ、そうだ。試合のときに行っていたデートの件、本当なんだよね?」

「お、おう! 本当だから助けてくれ!」

「うん。なら手伝おう。千夏の困ってる顔も見たいしね」


 不敵な笑みを浮かべた遥は、さらっとこんなことを言った。


「千夏が野球を始めたのは、甲子園で活躍する冬也を見たからだよ」

「……はる、か?」


 武田が硬直した。どうやら本当らしい。


「あの夏の日は今でも思い出せるよ。急に電話をしてきたと思ったら、同い年の子がこんなにも活躍して、輝いていて凄いって。私もあの人みたいに甲子園で野球がしたいってね」

「わああああ!? 何言ってるの遥!? 秘密って約束だったじゃんかぁ!」


 武田は俺から離れて遥に飛びつくが、長い手を使って武田を押さえ、楽しそうな声で、


「ちなみに、バッティングフォームや投球フォームが似ているのも冬也の動画を見て真似をしながら野球を練習していたからだね」

「え、じゃあ変化球の球種が俺と同じだったのも、真似してたからなのか?」

「うん。これは多分、好きと言っても差し支えないだろうね……」


 武田はそれを聞いて飛び跳ねる。


「違う違う! そんなんじゃないってばーッ! 冬也くんは大切なお友達で……」

「武田、俺のこと好きだったのか……?」

「君がそっち側に行くなんて反則どころの話じゃないぜ!?」


 ぎゅむっとしている武田の横で、わなわなと相澤が震えていた。


「千夏先輩……? 私が正妻なんじゃなかったんすか……?」

「参りましたー! 私の負けです! だからもう勘弁してくださいーッ!」


 その場で勢いよく土下座をする武田を見て、みんなが一斉に笑い始める。

 勝利の喜びも、試合の疲れも、グラウンドでの興奮も、ユニフォームの汚れも。

 何もかもを忘れて、高々と。

 ただひたすらに、俺たちは笑っていた。

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