第五話 快晴、快音、咆哮 その5

 一対一の同点で迎えた最終回。一点でも取ればサヨナラ勝ちの状況で、バッターは四番の武田からだ。気持ちを込めて、しかし冷静な表情で打席に入る。

 自信をもって打席に入ったからか、初球から武田はバットを振る。鈍い詰まり気味の音だが、持ち前のパワーで強引に内野を越し、見事ヒット。

 次のバッターである遥は、打席に入る前に俺のところへと来る。


「どうした? サインの確認か」

「いや、今のうちにタイム中に何を話していたのかを聞こうと思ってね」

「それは……」


 冷静になるとめちゃくちゃ恥ずかしいから言いたくないのだが、どうしようか。

 俺が困っていると、遥は小さく笑って、


「冗談だよ。気が向いたときに話してくれ。でも、顔つきが今朝よりもずっといいってことは、悪いことではなかったんだね」

「ああ。勝ったらデートでも行こうぜ。そのときに話すからさ」

「……君って人は」


 遥はヘルメットのツバを掴んで目元を隠す。それでも赤くなっていると分かる遥は、恥ずかしいのか俺に背中を向けて、


「こういう場面だからね。緊張しているんだ。頑張れって、言ってほしくてね」


 それくらいだったら、何回でも言ってやるよ。


「頑張れ、遥」

「うん。頑張る」


 遥が打席に入る。そこに立つと、すらっとした高身長がやけに目立つ。

 武田と遥が俺のサインを待っていた。俺はあるサインを出す。

 二人は静かに頷いた。


 ピッチャーがセットポジションに入る。ピリリとした緊張が走るが、それこそが今の俺たちに必要なことだ。最終回、一塁にはサヨナラのランナー。打者は部内でもトップクラスの実力者である遥。油断をすれば、簡単に打たれるこの場面。ピッチャーはきっと、こう考える。

 いつも通りやろう、と。


「走ったッ!」


 相手のファーストが声を張り上げたその瞬間、ピッチャーはまだ動き出していない。しかし、その言葉に気づいているにもかかわらずピッチャーはキャッチャーへとボールを投げてしまう。

 相手の癖を完全に盗んだ、完璧なスタート。キャッチャーはセカンドへとボールを投げるが、そこに届いたときには既に武田はベースに到着している。


「……よし」


 あとは、打つだけだ。武田なら、一つのヒットで帰ってくる。

 バントを警戒してか、次の球もボール。これでノーストライクツーボール。

 最悪、遥を歩かせるという選択もあるが、相手は勝負に来るようだ。

 ボールになっても構わないという厳しいコースに渾身のストレート。

 遥は、迷いなくそれを振った。


「何が緊張しているだ。完璧じゃねえか」


 華麗なセンター前ヒット。武田の打球判断も完璧だったが、いい当たりだったために三塁を蹴ると同時にセンターが打球を取り、すぐに投げる。

 武田の足なら必ず帰る。全員がそう信じていたから、誰も止めろとは言わなかった。

 センターの投げたボールがマウンドを超え、キャッチャーのミットへと向かう。しかし、明らかに武田の方が速い。このままスライディングすれば、間違いなくセーフ……だが。


 武田のスパイクが地面にひっかかったのか、大きくつまずき前へとバランスが崩れる。あの位置で転んでしまっては、ホームには届かない。アウトだ。

 急な衝撃に、時が止まったかのような錯覚を受ける。

 宙を舞う武田の表情には、悔しさが滲んでいた。

 あと一歩、届かない。


 いや、行けるはずだ。お前なら、その一歩を踏み出せる。

 武田千夏なら、進めるはずだ。届かないはずの一歩なんて、消し飛ばしてしまえ!

 心の奥で、何かが湧き上がってくる感覚があった。こんな気持ち、生まれて初めてだ。

 無意識に握りしめていた拳が視界に映った瞬間、湧き上がる何かが放たれた。


「いけぇええええええええええええッッッ!!!!」


 行け、武田。お前はその一歩を、踏み出せる側の人間だ!

 瞬間。

 武田が小さく笑った気がした。


 *


 出来る私と出来ない私。そのどちらもが武田千夏だと、受け入れて生きていた。

 でも、こんな大事なときに顔を出さないで欲しかったなって、いまだけは思う。

 冬也くんにスパイク、買ってもらったのに、つまずいちゃった。ホームベースは目の前なのに、ずっとずっと遠くに見えた。


 まだノーアウトだし、アウトになっても仕方ないって、そう思っちゃった。

 なのに、聞こえてしまった。

 誰よりも苦しんで、誰よりも深く諦めた彼が、諦めていなかった。

 熱くなったことなんてないって言ってなのに、一番暑苦しく叫んでいた。

 それなのに私が諦めるわけにはいかないよね。


 どこか遠くで、声が聞こえる。

 私を忘れないでと、足が引っ張られる。

 あれは私だ。運動も勉強も、何もできなかった頃の私。大切な大切な、私の原点。

 でも、いまは後ろを向いている暇はないんだ。ごめんね。


 いつかきっと、迎えに行くから。あなたのことは、忘れないから。

 これから先は、一度も負けられない。だからいまは、ちょっとだけお別れ。



 ありがとう。何もできなかった私。あなたのおかげで、私は前に踏み出せる。



 今は笑おう。最高に楽しい瞬間を、あの人と一緒に過ごせるように。

 つまづいた体の全身に力を入れる。倒れないように耐えて、耐えて、強引に足を踏み出す。

 それでも、体は起き上がれない。でも諦めない。絶対に、あのホームに届かせる。



 ――ヘッドスライディングってのは、最後まで諦めなかったやつだけが得られる特急券だ。



 そんな声が聞こえた。あははっ。やっぱり、冬也くんは凄いなぁ。

 踏み出したその足では届かない最後の一歩を、届かせるために。

 私は、飛んだ。


 *


 何が起こったのか、一瞬のことで分からなかった。

 しかし、たった一言で、その意味を理解する。


「セーフッ!」


 体勢を崩しながらも、強引に足を踏み出してつまづいた勢いを利用してヘッドスライディング。失敗を利用して本来以上の成果を出す、渾身の一歩。


「~~~~~~~ッッ!!」


 言葉にならない何かが溢れ出し、俺は拳を突き上げた。

 サヨナラ勝ちだ。ベンチにいた全員が、武田と遥を迎えにグラウンドへ飛び出す。

 俺も反射的に飛び出して、武田の元へ走る。

 ホームにヘッドスライディングをした武田は、泥だらけだった。

 泥だらけなのに、俺にはこの泥かぶり姫がこの世界で何よりも美しく見えた。


「やったよ、冬也くん!」


 立ち上がった武田が俺の元へ走り、抱きしめてきた。ぎゅっと強く、武田の体が密着する。でも、俺は顔を赤くすることも、おかしな緊張をすることもなかった。


「やったな、武田!」


 俺も笑顔でその体を抱きしめた。男女なんて垣根は、もう存在していなかった。他の部員たちも、一斉に押し寄せてもみくちゃにされながら、俺たちは笑う。

 仲間たちと笑い合うこの時間が、この空間が、心地よくてたまらなかった。




 勝利の喜びが落ち着いて、選手たちが整列する。俺もすぐに監督のところまで戻り、頭を下げる。礼の後、武田と荒畑が笑顔で握手を交わしていた。あれだけの熱戦を繰り広げたんだ。もうお互いにいがみ合う気持ちはないだろう。

 これですべてが終わりだと思って、振り返ったときだった。


「……負けた、のか」


 フェンスの奥で、掲示板に映る二対一のスコアを見てそんなことを呟く男が一人。

 見上げると、練習着に身を包む高橋がいた。その横には、大柄の大人がいる。おそらく、女子野球部が勝って俺が転校することが決まったから今のうちに話をしておこうとでも思っていたんだろう。残念だが、それは敵わない。


「よお、高橋。残念だったな」

「本当に勝ったのか!? たった一〇人の野球部で」

「日本一になるチームが中堅高に負けるわけないだろ」

「ちくしょう……! お前が来てくれれば、来年の夏は甲子園に行けるのに……!」

「だから何度も言ってるだろ、今年だって行けるように努力してるやつが勝つんだ」

「それで行けたら苦労しないんだよ、天才が……!」


 本当にどこまでも救えないやつだ。

 うんざりなんだよ。才能のせいにしてるやつは。


「おい、高橋。お前ピッチャーだったよな?」

「それがどうした」

「お前から見て、バッターの俺はどうだった?」


 百歩譲って、プロから注目されていたピッチャーとしての俺が天才だとしよう。それなら、プロでは二刀流は厳しいと勝手に言われていたバッターの俺ならどうだ。


「それは……」


 まだ食い下がるのか。なら、ここまで譲歩しよう。


「今の俺は、打撃の天才か?」

「……何が言いたいんだよ」


 俺は武田の使っていたバットを引き抜いて、その先を高橋へと向けた。


「今は気分がいいから、お前と野球してやるよ」

「……は?」

「一打席勝負だ。お前が勝ったら、お前の学校に転校してやる。その代わり、お前が負けたら、二度と俺に近づくな」

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