第五話 快晴、快音、咆哮 その4

 ベンチからマウンドへと向かっている間は、永遠にも感じられた。

 マウンドに近づくその一歩ずつが、俺の心を壊そうとするトラウマとなって襲い掛かる。

 どうして歩き出してしまったのだろう。武田たちは、どんな顔をして歩いてくる俺を見ているのだろう。大嫌いなグラウンドだけしか、見ることができない。


 視界に、白いラインが映る。もうすぐ、マウンドについてしまう。嫌なはずなのに、進みだした足はもう止まらない。

 きっと俺は、期待している。まるで物語みたいに、都合よく何かが起こることを。

 期待と信頼だけが、恐怖を超えて俺の足を動かしている。


「冬也……くん?」


 ぽつりと呟かれた言葉に対して、反射的に顔を上げる。

 俺の知っている笑顔は、どこにもなかった。

 ひゅ、と息が詰まる。あの夏の俺と向かい合っているようだった。地面に足がついてるはずなのに、上下左右のどれもが分からなくて。どこに手を伸ばしていいのか分からなくて。

 どんな顔を俺はしていたんだろう。


「ごめんね、冬也くん。私、まだまだへたっぴみたい」


 俺はその笑顔を、痛いと感じた。

誰よりも野球を楽しんでいたやつが、いまこの瞬間、誰よりも辛そうにボールを握っていた。


「もっともっと、頑張らなきゃいけないね」


 そんな言葉は。そんな表情は。お前には似合わないだろ。

 俺が望んでいた武田千夏は、もっと――


「…………あはは」


 そこまで来て、やっと気づく。

 ああ、お前はあのとき、こんな気分だったのか。

 あんなにも打ちのめされて、力なく笑う俺を見て、だから投げてほしいって言ったんだ。

 きっと、俺が野球を楽しいって思えなくなった原因は、いじめでも怪我でもイップスでもない。もっともっと、簡単な話だったのかもしれない。


 ずっと俺は逃げていたんだ。野球が嫌いだって、部活が嫌いだって、そう言って逃げて、もう一度向き合うことに逃げていた。

 しっかりと前を向く。坂本、水原、相澤に武田。他の部員たちや、外野で心配そうに見つめる遥も、俺を心配そうに見ている。運動などしていないのにダラダラと汗をかいて、今にも倒れてしまいそうなほどに足を震わせる、情けない姿の俺を。


 俺がマウンドに立つということの意味を、みんな分かってくれている。この場所にきたという覚悟を、理解してくれている。

 だから、細かいことはどうでもいい。俺はただ、これだけを伝えればいい。

 愛の言葉も、熱いメッセージも、心を奮わせる名言も、何もいらない。


 今の俺にしか、伝えられないことがある。挫折して、諦観して、後悔して、その先でお前たちに手を差し伸べられた俺にだけが、届けられるものがある。

 きっとこの言葉を彼女たちの心に投げられるのは、肩を壊した俺だけだから。



「みんな、楽しんでいこうぜ」



 身体も声も震えていて、今すぐにでも逃げ出したいと体が悲鳴を上げていた。

 それでも、笑え。俺がどこかで楽しいって思えたのは、こいつらが笑ってくれたからだから。

 だから、逃げない。だから、諦めない。

 野球からでも、部活からでもなく、野球を楽しみたいと叫ぶ俺の心の声から、逃げない。


「俺さ、楽しかったよ。お前たちと野球するの」


 絶対に負けたくないライバルがいるやつがいて。

 子どもの頃からの夢を追い続けているやつがいて。

 憧れた人みたいになりたいやつがいて。

 いつかの自分に胸を張りたいやつがいて。

 たくさんの理由の中で、ようやく俺は気が付いた。


「やっぱり俺、野球自体は好きじゃないんだ」


 野球自体は好きじゃない。これは多分間違っていない。しかし、それでも野球を続けてきた意味。今の俺だから、振り返ってみてよく分かる。

 俺はずっと野球をしていた理由を自分の中から見つけようとしていた。空っぽの中に何かがあってほしいという期待が、そうさせたのかもしれない。


「誰かと野球をして笑ってる時間が、大好きだったんだ」


 例えば、初めて親とキャッチボールをしたとき。

 世界で一番だと言ってボールを取ってくれる父さんの笑い声が、将来のスターの秘蔵ビデオだとカメラを回していた母さんの微笑みが、大好きだった。


 例えば、初めて中学でホームランを打ったとき。

 ホームに帰ってきたときに、笑って迎えてくれたチームメイトや監督たちとハイタッチをする瞬間が、この上なく幸せだった。

 そして。


 例えば、初めて誰かのために野球を教えたとき。

 俺が教えたことで笑ってくれるあいつらが。ありがとうと言ってくれるその声が。そうして過ごす時間が。つまらなかったなんて、言えるわけがない。

 大好きだった。たった一ヶ月しか過ごしていないはずの、あの野球部が。


「お前たちと進んでいけば、俺の努力は無駄にならないって、そう思うんだ」


 俺が捨てようとした全てを、拾い上げて笑ってくれた、仲間たち。

 大嫌いなはずで手放した全てが、今は何もよりも輝いて見えるから。


「お前たちともっと野球がしたい。まだボールは怖いけど、いつかお前たちとなら、楽しいって言ってボールを投げられる日が来ると思うんだ」


 だから、だからさ。


「お願いが、あるんだ」


もう一回だけ行きたいんだ。俺が落としたものを、取りに行きたいんだ。


「俺を甲子園に連れて行ってくれ……!」


 深く深く、頭を下げる。マウンドには水滴の落ちた跡があった。

 俺、泣いてたんだ。ダメだ。止められない。

 情けない顔、してるんだろうな。顔、あげたくない。

 でも。


「……当たり、前だぜ……っ。冬也ぐん……ッ!」


 顔を上げると、俺よりも情けない顔で泣いているやつがいた。

 他のやつも泣いてるじゃねえか。本当に情けないな俺たち。


「私たちが、絶対に連れていくから……っ! だから、見ててよ……!」

「分かってる。お前たちなら、絶対に行けるよ」


 そう、『お前たち』だ。


「だから武田。みんなで野球しようぜ。それなら、怖くないし、楽しいだろ?」


 俺はあの夏、一人だった。マウンドの上で、多くの声援を浴びて、一〇〇人以上の部員がいるあの空間で、孤独だった。でも、武田は違う。

 横を見れば、一緒に泣いてくれる仲間がいる。それがきっと、力になる。


「……うん。世界で一番、楽しい時間を過ごせそう」

「よし。じゃあ、後は任せた。武田のこと支えてやれよ、お前ら」


 袖で目を拭って、俺はベンチへと戻る。こういうときに何も訊かないでくれる金子先生は、少しだけありがたかった。

 振り返ると、みんなが守備位置に戻っているところだった。

 武田の表情にももう不安はない。


 すぐにプレイが再開される。気持ちこそ持ち直したが、状況がワンアウト一、二塁のピンチであることに変わりはない。バッターは二番。当然、相手が選択してくる戦法はバントだった。

 コン、と再び武田を狙ったバント。


「おっけーーッ!!!」


 一番に声を出して捕球した武田は、滑らかな動きで三塁へと投げた。

 サードが構えていた場所へ剛速球が放たれ、ランナーの足よりも先にベースへと到達する。


「――ツーアウト!」


 積極的に武田が声をかける。もう心配することはない。

 問題は、次だ。


『三番、ショート、荒畑さん』


 最初の打席で三振した以降は、武田の速球にも合わせてきており、変化球への対応も柔軟だ。本人の言っている通り、人並み以上の努力は間違いなくしている。

 でも、武田の方が上だ。


 ズバンッ!


 ストレートでワンストライク。

 続く二球目。


「おらァ!」


 全身全霊の球を気持ちを込めて腕を振ったが、ボール自体の速度はかなり遅い。その気迫からストレートだと勘違いした荒畑は、タイミングが合わずにチェンジアップを空振り。

 そして、三球目。今までで一番いいコースに、今までで一番速い球が投げられる。


 ズバァン!!


 荒畑のバットは、武田の魂のこもったボールにかすることすらしなかった。


「っしゃぁぁあああああああああッッッ!!!!!!」


 咆哮が、轟いた。


 満面の笑みで拳を掲げる武田が、走って戻ってくる。


「一人でやるなって言ったのに」

「みんながいるって思えたからいい球が投げれたんだぜ」


 そう言ってくすっと笑いながら、俺たちは拳をコンと合わせた。

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