第五話 快晴、快音、咆哮 その3
その後も、細かなヒットは続くものの、攻撃がかみ合わずに0点のまま六回を迎えた。しかし、相手も未だに武田の攻略は出来ておらず、依然として0対0のままだ。
今は六回の表。川越北の攻撃だ。武田はほとんどヒットこそ打たれていないものの、少しずつ速さに慣れてきた相手は武田の球をバットに当て始めていた。しかし、速さに慣れればなれるほど、新球種であるチェンジアップが猛威を振るう。
最初の打者は三振。しかし、次の打者はこのチェンジアップを狙っていたようだ。少しタイミングこそずれているものの、遅い球なので簡単に強い打球で打ち返される。打球が飛んでいった先は、水原の守るセカンド。地を這う球が、真っ直ぐに水原へと進んでいく。
不幸だったのは、今が六回だったことか。校庭よりもずっと整備されている球場と言えども、六回になるまでに一時間以上の時間が経過しており、当然グラウンドも荒れ始めている。
ほんのわずかなくぼみ一つで、地を這うボールはアッパーのように跳ね上がる。
「――ッ!」
綺麗な捕球姿勢を取っていた水原の顔の横をめがけて、打球がイレギュラーをした。しかし、水原は反射的に足を下げ、体を反りながら迫りくるボールをどうにかグラブの中に収めた。打球の勢いが強く、ファーストにも近いため、ちゃんと姿勢を整えなおして送球をする。
水原は相変わらずの無表情でキツネのように人差し指と小指を立てる。
「ツーアウトです。丁寧に行きましょう」
そんな静かな声が、他の部員たちを奮い立てたのがすぐに見て取れた。
当然、水原のファインプレーで燃えているのはショートを守る坂本だ。
「バッチコーイ!」
水原に負けたくないという坂本の闘志は、他の部員たちにも伝染していく。そして、野球とは面白いもので、そういったエネルギーに打球が引き付けられる。
故に次に変化球をひっかけたぼてぼてのゴロは、坂本が守るショートの方へと転がった。坂本は得意の打球反応で一気に距離を詰める。だが、雑に取って放り投げることはしなかった。俺が教えてきたように、基本通りの動きで捕球して、取った次の瞬間にはボールを投げていた。
ギリギリだが、確実なアウト。坂本は高々とガッツポーズをして、こちらへと走ってきた。
「見たか中村! 今のちょー上手かっただろ!」
笑顔でぐいぐいと距離を詰める坂本の首を掴んで、水原が俺の前に来た。
「中村さん、ありがとうございました」
「え、何が?」
「前に教えてもらったリアクションボールで壁当てをしていたので、急なイレギュラーにも柔軟に対応できました。そのお礼です」
「いや、頑張ったのは水原だよ。いいプレーだった」
「はい。ありがとうございます」
そのまま絵画に納めてもいいと思えるくらい、美しい笑顔だった。
しかしそんな絵画に、小学生が絵の具で上書きするように坂本が水原の背中に飛びつく。
「私だってありがとな! 取ってからの練習いっぱいやったから、アウト取れたよ!」
「うん。坂本もよかったよ」
「ほらな! 私だってすげーんだ! ねね、中村! 私と蛍、どっちが上だ?」
「私に決まってるじゃないですか。諒ではあんなイレギュラーを捌けません」
「私だっての! 蛍じゃあの打球はセーフだったね!」
二人が同時に俺を見る。俺が勝敗をつけなきゃいけないらしい。
なんだこの空気。正解が分からない。そもそも、どっちが上手いとか、種類が違いすぎて分からないんだよ。上手さなんて数値化できないんだから。
仕方ない。ここは無難に行くか。
「ここは同率一位ってことで……」
「ふざけんなー!」
「ふざけないでください」
同時に左右から引っぱたかれた。
六回裏、下位打線が上手くつなぎ、坂本と水原の活躍でどうにか一点をもぎ取った。またどっちが上手いとか迫られたが、あたふたしているところで相澤がアウトになって交代になる。
すまん、悔しがっているけどナイスプレーだ。
女子野球は七回が最終回のため、一点リードしている今の状況で相手の攻撃を守り切れば勝ちだ。打順も七番からなので、かなり流れがいい。
しかし、高校野球というものは、そう楽には終わらせてはくれない。
武田が投げたボールに相手が詰まって、コロコロと武田の前に転がってくる。試合の中ではかなり簡単なボールだが、俺はそれに虫の知らせのような危機感を覚えた。
油断、というものがある。ほっとして大丈夫だと、終わってもないのに安心をしてしまう。武田の投球数は八〇球を超え、疲れも溜まってきているときだ。そんな中、甘い蜜のように簡単なボールが転がってくれば、誰だってアウトだと確信してしまう。
しかし、その油断に対する天敵が、執念だ。
「――千夏先輩ッ!」
相澤に言われて、ハッと武田は視線を上げた。誰もがアウトだと確信している中、ゴロを打ったバッターだけは諦めずに全力で走っていた。
油断をすればするほど、焦りによる反動が大きくなる。
例えば、誰かに不意に声をかけられて声が裏返ってしまうように。
準備されていない力の抜けた身体は、焦った意識に追いつかない。
「――あ」
武田が投げたボールは、ファーストの頭を超えてフェンスまで飛んでいった。慌ててライトがカバーへ向かうが、打ったバッターはそのまま二塁まで進んでしまう。
思いがけないミス。一気に流れが川越北へと向く。
ノーアウト二塁。武田は返ってきたボールを強く握って、精一杯に笑う。
「ごめんごめん! 切り替えていこーぜ!」
見た限り、そこまでショックを受けている様子もない。今のままなら、タイムを取らなくても大丈夫だろう。まずは様子見だ。
次の打者は八番。当然のようにバントをしてくる。いやらしいのは、あえてつい先ほどエラーをしたばかりの武田に取らせるようなバントをしてきたところか。
わずかな不安感こそあったが、武田は丁寧にさばいて一塁に送球。ワンアウト三塁に。
「ワンアウトー!」
自分から積極的に声を出して雰囲気を作っていく。さすが部長か。
しかし、先ほどのエラーで傾いた流れはそう簡単には途切れない。
相手バッターは九番。そして、その初球だった。
三塁ランナーが走り出す。スクイズだ。
投げた瞬間に武田は前へと走り出す。しかし、守備の練習よりもピッチャーの練習に時間を使ってきたツケが、ここに回ってくる。
転がってきたボールを取って相澤へとトスするが、上に浮き上がったことでタッチが遅れ、ホームはセーフ。相澤はすぐに一塁へ投げるが、それも間に合わずにセーフ。
一点を取られ、なおもワンアウト一塁。
ここで初めて、武田の顔が曇る。
守備の空気が一気に重くなったところで、こちらを見てきた相澤と目が合う。やっぱり、そこらへんをよく分かってるやつだ。俺は安心して頷く。
「た、タイムお願いするっす!」
相澤はマウンドに駆け寄って、武田に声をかける。何を言っているかまでは聞こえないが、二人とも笑顔で会話をしているので大丈夫だろう。
……そう、思っていたが。
「ボール! フォア!」
直後に四球連続のボール。ワンアウト一、二塁。
これはヤバいな。今までの練習でこんなにも乱れたことはなかった、疲れではないメンタル的な要因が、間違いなく武田の腕に絡みついている。
――ドクン、と。
ただ見ているはずの自分の息が上がる。
表面だけの笑顔を作って必死に声を出す武田を見て、全身を得体の知れない寒気が襲う。
同じだ。あのときの俺と。平気だと自分に言い聞かせて、心の奥で蠢く不安を無視し続ける。
「……駄目だ」
このままではまた同じミスをして、失投をして、負ける。
きっと、ちゃんと負けることができれば誰も苦しくはない。問題は、そのプレーが後悔で出来上がってしまった場合だ。もっと上手くできたはずなのに。ちゃんと努力してきたはずなのに。不安と恐怖に負けたせいで、今までの全てを裏切る。
そうして行きついた先が、今の俺だ。このままでは、今日ではなくても武田も同じ道を辿る。
負けを恐れて、限界を超えた練習で肩を壊し、それでも投げ続けて心が折れる。
「……そんなの、駄目だ」
思わず俺は、フェンスを抜けてグラウンドへ飛び出そうとしていた。しかし、瞬間的に体が固まる。ベンチから出られない。さっきまで歩いていたはずの土すら、怖くて踏めない。
それより、どうして俺は飛び出そうとした。嫌いなはずの野球をやっている武田たちを見て、どうしてこんなにも苦しくなる。
きっとこの苦しみの底にある感情が、俺の後悔とトラウマの源泉だ。言葉にすることすらできなくて、逃げ出してしまった俺の負の遺産。
頭から血が引いていく感覚があった。足が一歩、後ろに下がる。
ああ、俺はまたこうやって逃げて――
「友奈、ごめんね! 次はちゃんと投げるから!」
マウンドからの声で、曇っていた視界が晴れる。
武田はまだ、諦めていなかった。笑って、声を出して、再び戦おうとしている。
やっぱり、武田は強い。俺がここで行かなくたって……
――本当は、ちょっとだけ怖い。
二週間前の言葉がふと脳裏によみがえって。
気が付いたときにはタイムと声を張り上げて、マウンドへと向かっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます