エピローグ 君に届いた茶色い球

 部活に打ち込んで青春を謳歌するという言葉の意味を、最近改めて考えている。

 スポーツに打ち込んでいる姿を人々がなぜ青春だなんて呼ぶのだろうか。プロにもならず、学生が終われば二度と触れないその時間を、どうして尊いものとして扱うのだろうか。

 今になって、その理由がなんとなくだが分かってきた気がする。


 どれだけ頑張っても届かない壁に出会ったり、どうしようもない苦しみの中で悩んだり。スポーツに打ち込んで、挫折や諦めを経験しない人間は少ない。ほとんどの人間は、たかが部活だから、プロにはならないから、才能がないからとどこかで線引きをして、別の道に進んでいく。それも立派な人生だ。誰かが否定していいものではない。


 では、その線引きができずにその道でもがくことしかできなかった人間たちは。その道しか知らず、いざ前に進めなくなったときにまったく別の道へ逸れていってしまったら。

 他の道に進んでいったとしたら、それまで進んできた道は無駄だったのか。


 その答えを、ずっと探していた。探して、ようやく気付いた。

 この道を無駄だったと決めるのは、他でもない俺たち自身なのだと。

 たとえ全てを諦めたとしても、それまでがなかったことになんてならない。本当の意味で空っぽの人間なんて、この世には存在しない。生きてきた以上、歩いてきた道は自分の足元からずっと後ろに地続きで繋がっているのだ。


 大切なのは、自分が間違えたと思うその道を、ちゃんと見つめることができるかどうかだ。

 ちゃんと真正面から向き合って、それに意味を与えてあげた瞬間、その道は無駄ではなくなる。逆に目をそらしてしまえば、そこは空っぽで無駄だったと感じてしまう。

 つまるところ、俺たちはいま立っている道が正しいのかなんて分からないのだ。

 がむしゃらに走って、走り抜けて、そうしてふと青春なんて言葉から遠く離れてしまったときに今までの道を振り返って、そうして後ろにずっと続く今までの道を見たときに、その道を肯定してあげた瞬間、その道は光り輝くのだ。


 そんな中で、挫折をして、失敗をして、それでも食らいついて成功をして、必死に歩いてきた道は、きっとなんとなく歩いてきた道よりもよっぽど輝いているはずだ。

 そんな目の眩む輝きを放つ日々に名前を付けたくて、人々はそれを青春と呼んだのだろう。

 だから俺たちは、いま進んでいる道が正しいと信じて、闇雲に進み続けるしかないのだ。いつか振り返ったときに、それが青春だって意味を与えてあげられるように。


 俺はそっと、足元を見降ろした。そこにはグラウンドが見えるだけで、道なんて見当たらない。俺はあの挫折を、後悔を、肯定してあげられるのだろうか。武田たちがしてくれたように、頑張ったねって自分を褒めてあげられるのだろうか。

 その答えはまだ、分からない。でも、意味を与えてあげるためには、今を全力で生きなければならない。だから、今は必死に走ろうと思う。

 どこかの美しいお姫様のように、泥だらけになりながら。


「おーい、冬也くーん!」


 そんな声とともに、足元を見ていた俺の視界に小さなボールが転がってきた。

 ボロボロになった赤い縫い目、バットや地面に何度も擦れてほつれ、砂と泥と汗が染み込んでグラウンドと見分けがつかないほどに茶色に染まった革で覆われたそれは、俺がずっと嫌いだったボールだ。

 俺は思わず、それを拾い上げる。


 三つの指を縫い目にひっかけた、ストレートの握り。

 やっぱり、今も体にこの握りが染みついていた。

 ボールを拾った瞬間、背筋に寒気が走る。

 一気に俺の心をへし折った思い出がそのボールから流れ込んでくるようだった。まだ、俺はこのボールを握ることが怖い。


 でも、それでいい。

 こうして流れ込んでくる記憶たちだって、全部俺の人生なのだ。いつかこれとちゃんと向き合って、よく頑張ったと褒めてあげられるようになりたい。

 だからもう、逃げない。

 ボールを持って前を見ると、相澤がこっちまで走ってきていた。


「あざっす、中村先輩。ってか聞いて下さいっす。千夏先輩、やっぱりフォークが投げたいって言って投げたらすっぽぬけっすよ! どうにかしてくださいっす!」

「武田のことが好きなら全部受け止めてやれよ」

「それとこれとは話が別っす! 普通に取りに行くの面倒なんすよ!」

「俺の知ったことじゃないなぁ、それ」


 使い古されたボールを、俺は強く握った。

 武田がいるのは少し遠いが、なんとかなる気がする。


「え、中村先輩……?」


 俺はゆっくりと振りかぶって、ぎこちないながらも全力で腕を振り切る。

 山なりで、回転も少なくて、スピードも遅い、ちんけな球。

 それでも、向こうで手を振っていた武田のグラブに、すっぽりと収まった。

 相澤も驚いていたが、それ以上に武田が信じられないものを見る目で俺の投げたボールを見つめていた。


「頑張れよ、武田! お前ならいつかできるから!」


 声を張り上げると、武田は俺の投げたボールを握って高々と掲げる。


「もちろん! 完璧なフォークを見せてあげるからね!」

「あ、フォークはまだトレーニング足りないから今は無しなー!」

「なんですとー!?」


 俺に分かるように大袈裟にぎゅむっとしていた。

 でもどこか楽しそうに笑う姿を見て、俺もつられて口元を緩める。

 楽しいと、そう思っている。グラウンドにいて、野球に関わっていて、部活をしているこの瞬間を、俺は楽しいと感じている。


 これから先、どんな未来が待っているか分からない。

 野球を続けているのか、続けていないのか、その選択が正しいのかも、分からない。

 それでもきっと、このトラウマと決着をつけるまでは、俺は野球を向き合い続けるのだろう。

 お前と過ごした時間は無駄ではなかったんだと、胸を張って言えるように。

 女子ともまともに喋れない、さくらんぼ王子なんてものじゃなくて。

 いつか、本当の意味で。

 憧れてくれたピッチャーである俺が投げた球を、あの泥かぶり姫に届けるために。

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