第五話 快晴、快音、咆哮 その1

 あっという間に、二週間が経った。いつも通りの動きを磨き続ける、気の遠くなるような反復作業。時間なんて、矢よりも早く過ぎていく。

 カチャカチャと、スパイクの金具がコンクリートに当たる音が響く。野球を始めた頃は黒板をひっかいた時のような不快感があったのに、慣れてしまえばなんともない。まあ、俺はただの運動靴なのでそんな音を体で感じることはないのだが。


「ありがとうございます、金子先生。無理いって球場を借りてくれて」

「正直な話、めっちゃ大変だったぞ。久しぶりにあんなに頭を下げた」

「……本当に、すいません」

「まあ、嘘なんだけどな。普通に空いてたし、おっちゃんに頼んだら大丈夫だった」


 そのジェルで黒光りするワカメ頭、本当に剃ってもいいじゃないのか?

 ベンチに座って準備運動を始めている武田たちを遠目に見ながら、川越初雁球場のベンチに腰掛ける金子先生はカラカラと笑っていた。

 実際に球場のベンチに入ったことがなかったため、金子先生は子どものように興奮していた。

 野球未経験者だということで、相手校への挨拶以外は必要なことは全部俺がやっていた。一応、コーチ兼マネージャーという立場で部にいるため、こういうときの雑用は俺以外にやる人がいない。どうしてもボールには触れないので、そのときだけ武田や遥に手伝ってもらったが。


「それにしても、よくもまあ川越北と練習試合なんて組めたな。まあまあ強いんだろ?」

「いろいろありまして」


 金子先生には、この試合を組むことになった賭けを伝えていない。伝えたらきっと、試合は組んでもらえない。この人は適当に見えるが意外と生徒のことを考えている人だ。唐突な練習試合もすぐに準備を進め、球場も借り、俺たち生徒では責任を負えないことは全てやっている。


「試合かあ。俺って、何をすればいいんだ?」

「監督っぽい顔をして足組んで座っててください。たまにサインっぽい動きしてもらえると助かります」

「おっ、それなら任せておけ。昨日は動画でちらっと映る監督を観察してたんだ」


 野球に関しては本当に素人なので、指示などは全て俺が出すことになった。あまりマネージャーが動くというのは良くないとは思うが、練習試合だしな。

 なので金子先生には、まだちゃんとしたサインを決めていない現状で、相手に作戦がバレないように囮になってもらうことにした。それっぽい動きをしていれば、相手も少しは無意味な警戒をしてくれるだろう。


「ちなみに、中村的にはどうだ? 勝てそうか?」


 ベンチからは、天然の芝生の上でキャッチボールをしている相手チームが見える。声も出ているし、キャッチボールの基礎はちゃんとできている。奥で遠投しているのはおそらくピッチャーだろう。思いのほか、良い球を投げる。

 俺はそのまま視線を武田達へとむける。

 全員が声を出し、楽しそうにキャッチボールをしていた。しかし、遊んでいるわけではない。心の底から真剣に楽しんでいるのだ。


「勝ちますよ。あいつらは」


 理由のない確信が、俺の心の中でどっしりと佇んでいた。




 試合へ向けてのアップをすべて終えて、武田たちがベンチ前に集まる。残るは試合前のシートノックという、全員がそれぞれの守備位置について行ういわゆる総合守備練習だ。両チーム七分間という限られた時間で、全ての守備位置にボールを打ち、守備を行う。これが七分間でぴったりミスなく終えるチームは、それだけで普段からの基礎や練習を完璧に行っていることの証明にもなる。守備が固いと思われるだけでも相手への抑止力にもなるし、逆にミスばかりだと守備の隙を狙われやすくなる。いうなれば相手の守備の分析時間。


 本来なら監督がノックを打って、ベンチ外のメンバーによる補助をつけながら背番号をつけた選手たちは守備に専念するのだが、人数ぴったりの山伏ではそうはいかない。内野や投手は連携もあるため、ノックは遥が打ってくれた。

 悪くない動きだ。というより、球場という環境を楽しんでいるように見えた。いつもとは違う、整備されて平らなグラウンドに、緑が生い茂る芝生の外野。どれもが彼女たちには新鮮なようだった。

 少人数でのシートノックをなんとかやりきって、グラウンドに礼をした部員たちがベンチへと戻ってくる。みな、目が輝いていた。いち早く俺の前に来たのは、坂本だった。


「なあなあ、野球の球場って広くて気持ちいいんだな!」

「坂本はソフト出身だから、野球の方は初めてなのか」

「おう! 最高に楽しいよ! 早く試合しよーぜ!」

「試合はすぐに始まりますから、それまでにもう一度基礎やりますよ。さっきのシートノック、一回ボールを弾いてましたから」

「うげっ!? ちょ、待って! 試合前は素振りが定番だろー!?」


 水原は坂本の首を掴んで引っ張っていく。そんな姿を横目にくすっと笑っているのは、確認するようにゆっくりと素振りをしている遥だ。

 俺と目が合うと、遥は素振りをやめてこっちへと歩いてくる。


「やっぱり、遥は落ち着いているな」

「そんなことないさ。半年ぶりの試合だよ。緊張してるよ」

「それならよかった。適度な緊張は、集中力を高めてくれるからな」

「あははっ。野球になると冬也はやっぱり厳しいね」


 遥は視線を相手チームのブルペンへ向ける。今日の試合の先発ピッチャーが、投球練習をしていた。それを見つめながら、遥は細い声で、


「私でも、打てると思うかい?」

「いけるよ。ストレートは武田の方が速いし、変化球もそこまで怖くない」


 遥の練習を見てきたから分かる。絶対に打てる。

 それでもどこか不安そうな遥。この類の緊張はあまりよくない。悪いイメージが脳裏にあっては、いいパフォーマンスは望めない。


「遥って、俺がプレーしてた動画見たんだよな?」

「あ、ああ。ネットに上がっているものは一通り見たね」


 そんなに見てたのか。ちょっと恥ずかしいな。でも、それなら好都合だ。


「俺、凄かっただろ? 他の誰よりも」

「それはまあ、そうだね」

「そんな俺が、遥は凄いって思ってるんだ」


 遥はきょとんとした目をしていた。もの凄く恥ずかしい。

 でも、俺の言葉はちゃんと届いてくれたみたいだ。


「……ははっ。そっか、そうだね。そんな凄い人に言われたら、嫌でも自信がつくよ」


 ぎゅ、と遥はバットを握りしめた。


「ありがとう、冬也。頑張るよ」

「おう、頑張れ」


 いつも通りの爽やかな笑顔で、遥は再び素振りを始めた。

 グラウンドでは向こうの監督が手配してくれた審判がホームベースでキャプテンを待っていた。試合で使う新品のボールと、お互いのスタメンを書いたメンバー表の交換、先攻後攻決めのじゃんけんなどをそこで行う。

 本来ならキャプテンが行くのだが、武田は投球練習中なので遥に任せるのが無難か。


「冬也くん、冬也くん! ボールを二つ持って審判さんのところに行けばいいんだよね!?」

「あれ? 投球練習は?」

「もう完璧! 逆に楽しすぎて投げすぎちゃいそうだから切り上げてきた!」


 武田は右腕をブンブン回していた。やめろやめろ。そんな雑に利き手を回すな。


「ねえねえ、冬也くん! 先攻と後攻、どっちがいいと思う?」

「どっちでもいいよ。試合を重ねればどっちがチームに合ってるとか分かるけど、武田達は初戦なわけだし。先に打ちたいなら先攻、先に投げたいなら後攻だ」

「それなら、すぐに打ちたいから先攻狙い! 行くぞー!」




 じゃんけんの結果、後攻になった。じゃんけんに敗北してしょんぼりと肩を落とした武田が戻ってくる。遥が笑いを堪えながら慰めていた。

 しかし、すぐに試合が始まるという緊張感が場を埋める。自然と、部員たちは円陣を作っていた。俺は目で合図をして、金子監督を前に出す。


「え? 何を言えばいいの?」

「とりあえず監督なんですから、監督っぽいこと言ってください」

「よしきた! それじゃあ、先生が学生だったときの話を……」

「あ、やっぱり長くなりそうだから武田がなんか言ってくれ」

「任せて!」

「ええ!?」


 金子先生は泣きそうな顔でとぼとぼベンチに戻っていった。

 こほんと咳払いした武田は、円陣の中心で胸を張る。


「みんな、勝とうぜ! 記念すべき最初の勝利を、冬也くんにプレゼントだ!」


 全員、笑顔で頷く。

 武田は力強く拳を握りしめ、円陣の中で声を張り上げる。


「山高ぉぉぉぉぉおおおおッ!! ファイッ!!!」

「おおおおおおおお!!!!!」


 スポーツにおいては、グラウンドでは年齢は関係ないと言われる。相手が先輩だから遠慮して声をかけないなんてことをしないためだ。一年生だとしても、グラウンドに入ってしまえばともに戦う仲間である。それには当然、性別も関係ない。


 俺は少しだけ女子野球を甘く見ていたと思う。身体能力や体格が劣る分、男子に比べてどこか下だと決めつけていた。しかし、そんなことはない。俺の前にいるのは、覚悟を持ってグラウンドに立つ戦士たちだ。

 審判の声で集合がかかり、全員が整列する。


「――礼!」

「お願いしますッ!」


 山伏高校女子野球部、最初の試合が、始まった。

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