第四話 泥かぶり姫の革の靴 その4
以前に武田たちと歩いたクレアモールにちょこんとある小さな公園の中で、俺たちは向かい合って立っていた。ただ、両者の間に火花は散っていない。
「あの、急にあんなことを言ってごめんなさい」
静かに武田が頭を下げた。
ここまで歩いているうちに、俺も武田もある程度は頭が冷えた。
でも、言いたいことは当然ある。
「高橋。武田が謝ったから次はお前の番だ」
「お、俺?」
やっぱり無自覚か。
「こいつらだって頑張ってる。見てもないのにお遊びだなんて言うな」
「それは……その、ごめん」
隣の荒畑は居心地が悪そうに高橋と俺を交互に見ていた。荒畑に限っては自己紹介をしただけで巻き込まれた側なので可哀そうだと思う。
だが、これだけははっきりと言う。
「何度も言うが、俺は野球はやらない。もう関わらないでくれ」
俺は隣に立つ武田の顔を見ることができなかった。
「じゃあ最後に、一つだけ確認させてくれ」
高橋は視線を俺の横にずらした。
「お前が女子野球部で野球を教えてるって噂は、嘘なんだな?」
どこからか漏れた噂話。俺の名前はインターネットで検索すればすぐに出てくる。武田と遥とともに行動しているところを見られて、調べられて、噂が生まれる可能性は十分にある。
ここでやっていると答えれば、二度と野球はしないという言葉の説得力は消える。
俺が答えを迷っている間に、高橋が次の言葉を放つ。
「もしやってるなら、俺たちのところに来てくれ」
もうその言葉は軽くなかった。
「確かにそっちだって頑張ってるかもしれない。でもな、俺だって麻里だって、必死にやってるんだ。お前が来てくれれば夢のままだった甲子園が現実になるかもしれない。力を貸してくれないか、中村」
誠心誠意、高橋は頭を下げた。
これが本心からの言葉であることは間違いない。
でもさ、高橋。
お前の瞳に映っているのは、本当に俺か?
「俺さ、肩の故障がきっかけでイップスになって、ボールが投げられないんだ。マウンドに立つだけで息が上がるし、ボールを握ると寒気が止まらない」
「ぇ……」
でも、ここまでは想像の域を超えていなかったのだろう。何の理由もなしに辞めたわけではないことぐらいは分かっていたはずだ。
高橋はわずかに空いた間を埋めるような早口で、
「だ、大丈夫だよ。転校してすぐは大会に出れないからゆっくり肩は治せばいいし、イップスだって環境が変われば良くなるかもしれないし」
「夏が終わってからの四ヶ月間、どれだけやっても無理だった。環境一つで変わるならとっくの昔に治ってるよ」
「それは……」
高橋は必死に言葉を探しながら、つぎはぎの言い訳を紡ぐ。
「なんとか、なるよ。だってお前は……天才なんだから」
「……だから、お前みたいなやつらが嫌いなんだよ、俺は」
いつだって、お前たちは才能って言葉で片付けるんだ。
「お前はただ、楽をしていい気分をしたいだけだろ」
「そんなことは……」
「お前、良くてもベスト4って言ってたよな。ってことは、練習だってその程度だってことだ。それなのに、俺が来たら甲子園? ふざけるな。最初から甲子園を目指して練習をしているわけでもないやつばっかりのチームが、たった一人の力で甲子園になんていけるわけないだろ」
俺のいた大阪葛桐高校は、居心地こそ悪かったが練習自体はハイレベルだった。他を蹴落としてでも自分が上にいくという野心を持って、甲子園を前提にした努力をしていた。
「お前はどうせ俺より投げれないし、打てない。でもその理由は天才だって言い張るはずだ。だって努力のおかげだなんて言ったら、俺と同じ量の努力をやることになるんだからな」
「そんなことねえよ。俺だって死ぬ気で――」
「気持ちの問題じゃねえよ。努力の価値は質と量でしか決まらない。ただ気合いを入れて素振りをしたって、そんなのただの自己満足の非効率的な筋トレだ」
「な……っ」
「報われる可能性があるのは、意味を持って行った正しい努力だけだ」
自分なりに見つけ出した正しい努力すら俺はドブに捨てた。間違った努力なんて、そもそも捨てることすらできない。ただそれっぽい形をもって、蜃気楼のように揺らめくだけだ。
しかし。
「そんなの、才能があるやつの言い分だろうが」
高橋は自分の努力を否定されて素直に引き下がるような男ではなかった。
「お前みたいな天才に、凡人の気持ちなんて分からねえだろ! やってきたことが当たり前に自分の力になって、簡単に結果の出るやつに、凡夫の苦労なんて!」
「天才なんかじゃないよ、俺は」
自分に才能があると思ったことはない。というよりも、才能なんて言葉はそう簡単に使っていいことじゃないと、そう思う。
「俺はただ才能なんて言葉に逃げなかっただけだ。他の誰よりも努力して、試行錯誤を繰り返して、正しい努力を見つけてひたすらに積み重ねてきた。それだけだ」
「努力できるだけでも、才能じゃんか」
「ならお前だって天才じゃないか。死ぬ気で努力してるんだろ?」
「――ッ!」
努力ができる才能なんて存在しない。自分の怠惰に言い訳をしたい連中が、ただそんな言葉で逃げただけだ。ずっと努力をしてきたやつらは、誰一人として才能なんて言葉に逃げない。
俺の言葉に反論ができなくなった高橋は、強く唇を噛みしめていた。
と、横から別の声が割って入る。
「……もう、やめてよ」
荒畑は俺を睨みつけていた。
「直久だって、頑張ってるよ。誰よりも早く朝練に来て、誰よりも残って最後まで自主練しているんだよ。今日だって、グローブの紐が切れたからその修理に来たんだよ」
「長く努力することが正義じゃない。とりあえず長くグラウンドにいるだけで、自分が努力をしている気分になってる勘違い野郎なんて山ほどいる」
「……直久は、そんなじゃない……っ!」
「口なら、いくらだって言えるよ」
お前たちの自己満足の努力に俺を巻き込むな。
「たとえ野球をもう一度やり直すとしても、俺はお前らみたいなやつらとは絶対にやらない」
「そんなの、そっちだって一緒でしょ……!」
攻撃的な、低い声。
「どうせその子だってあなたを誘ってるのは自分のためでしょ! 人数が少なくて勝てないから、甲子園に出るような天才の力を借りたいってだけじゃん! 直久と何が違うの!」
「武田とお前らを一緒にするんじゃねえよ」
反射的に、そんな言葉が口をついた。
「こいつはお前たちみたいな自己満足野郎とは違う」
何が違うと聞かれたら、何もかもだ。
高橋と武田では、瞳に映っているものが違う。
「こんな俺に、野球を楽しんでほしいって本気で言ったんだぞ」
武田が俺を野球部に誘ったのは、甲子園に行くためじゃない。あの野球部は、俺がいなくても甲子園を目指していた。武田はただ、俺のために野球部に誘ったんだ。俺が野球と部活を嫌いなままでいてほしくないからと。
損得なんて存在しない場所から、笑って俺に手を差し伸べたんだ。
それだけじゃない。武田は、俺の努力を否定しなかった。才能なんて言葉を、諦める理由にさせてくれなかった。
「俺がドブに捨ててきた努力を全部拾い上げて、その全部が宝物だって言いやがったんだ」
お前たちにみたいに、天才の一言で俺を片付けなかった。
天才なんて言葉を使わずに、ボールを握れない俺を肯定してくれた。
「武田は俺のことをちゃんと見て、それでも野球をやってくれって言ったんだ。お前が見てるのは、俺の瞳で反射して美化された自分の姿だけだ。今まで通りの人並み程度の努力で成功した気分だけ味わいたいっていう、卑しいクソ野郎の目だ」
「だったらなに? どうせ県予選で簡単に負けて、人数が少ないからって言い訳するんでしょ。それで何も変わらなかったなら、あなたがいう自己満足の努力と変わらない!」
「負けないよ」
ぽつりと、武田が呟いた。
「私たちは、負けない。絶対に、日本一になる」
ふわりと灯る青い炎のように。穏やかなはずなのに、熱のこもった言葉。
負けじと、荒畑は言い返す。
「そんなの、結果が出なきゃ分からないじゃん! 私たちだって負けない!」
これ以上は水掛け論だ。感情的になった口論の先に答えなんてない。
向こうの言葉には納得いかないが、それでもそれをこんな形に発展させてしまった俺にも責任がある。自分で巻いた種は、自分で刈ろう。
「だったら証明してやる。こいつらの努力も覚悟も本物だって」
話が拗れて遠回りをしてしまったが、結局のところは単純だ。
「どれだけ本気なのか、どれだけ努力をしたのか。それは結果が証明してくれる」
ここから先は、賭けだ。
でも、あの夜の武田が俺を肯定してくれたように。
今度は俺が、武田たちを肯定してやらなきゃいけない。
「二週間後の日曜日、お前の高校の女子野球部と練習試合をする。それで決着をつけよう」
「そ、そんな急に言われたって試合なんか組めない――」
「お前たちが勝てば、俺はそっちの高校に転校して野球部に入るって言ったら?」
俺のためなら転校生でも異例の特待枠を設けると言ってるんだ。練習試合に勝てばそっちに行くなんていう好条件、呑まないはずがない。
「……本気なんだな?」
「本気だ。こればかりは嘘じゃない」
そもそも県内の中堅に負けているようなら、武田たちが日本一になれる可能性などない。
「大丈夫だよな、武田」
「うん。絶対に負けないよ。そのために頑張ってきたんだから」
確固たる自信は、積み上げた努力によって築き上がる。いつだって後悔しないように、全力で。それを愚直に続けてきた武田の瞳は、その場の誰よりも力強かった。
強気の発言に、突然高橋と荒畑も引けるわけがない。
「明日すぐにどっちもの監督に相談する。連絡は学校を通していくから、待ってろ」
「ああ。場所は初雁球場を用意しておくから、よろしくな」
それだけ告げて、握手も何もせずに俺たちは踵を返す。少し遅れて、武田が俺の横に並んだ。川越の埋め尽くす喧騒の中で、俺たちだけは海底を歩いているかのように重たい沈黙に沈んでいた。高橋たちに放った言葉に後悔はない。なのに、胸の中で言葉にできない感情が蠢く。
俺は野球も部活も、嫌いなはずなのに。俺は武田の野球部を肯定していた。
あんなにも自分が熱くなるなんて思わなかった。ただ居心地がいいからとか、仲が良いと思っているだけでは説明できない何かが俺の胸の中に確かにあった。
いや、今はそんなことを考える必要はない。
まずは勝とう。高橋たちと野球をするのはごめんだ。
川越駅の改札までついて、武田と目が合った。
余計は言葉はいらないと、そう思った。
「二週間で、完璧に仕上げる。気合入れろよ」
「冬也くんこそ、逃げないでね」
「逃げないよ」
それだけは、絶対にしない。少なくとも、夏の大会が終わるまでは。
真正面から向き合うって、決めたんだ。
「これから野球を続けていくとしても、野球を諦めるとしても、どっちの未来も逃げなかった先にしかないから」
「……うん。そうだね」
武田は小さく頷くと、にかっと笑って俺の背中を力強く叩いた。
「絶対にあの人たちには渡してやらないぜ! 私たちの冬也くんだから!」
それだけ言って、武田は改札を抜けてホームへと降りていった。
笑顔が可愛いとか、仕草がときめくとか、そんな状況じゃなかった。
「……めっちゃ痛い」
家で確認したら、春先の四月半ばのはずなのに俺の背中には大きな紅葉の葉が開いていた。
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