第四話 泥かぶり姫の革の靴 その3

「あの……ありがとうございます……」


 あれだけ大きな態度で俺にドヤ顔をしたあとに足りない分の五千円を貸してくださいという武田の顔は写真にして売ったら元が取れそうなほどだった。


「いいよ、これくらい。返さなくてもいいし」

「ダメダメ! 人を狂わすのは金と女だってパパが言ってたんだから!」

「武田家の教育方法、絶対どこかで間違ってるよな?」


 まあ、返してもらえるならそれでもいいか。変に意地を張るのも良くないだろうし。

 武田の父親の言葉はスルーして、会計を済ませた俺たちは出口へと向かう。

 と、俺の横を歩いていた武田がすっと前に出て、くるりとこちらを振り返る。


「スパイク、選んでくれてありがとね!」

「おう。手入れ、忘れるなよ」

「もちろん! さくらんぼ王子が選んでくれた、魔法の革の靴だからね」


 魔法もかかっていないし、ガラス製でもないからその話をいつまでも続ける必要もないとは思うのだが、本人が満足そうだからいいか。


「はいはい。泥かぶり姫も頑張ってな」


 俺が適当にあしらったのが不満なのか、武田はむっと細い目を俺へ向ける。

 スパイクの入ったビニル袋を床にそっと置いた武田は、スカートの端を掴んで上品に頭を下げる。仕草も表情も声色も何もかもを完璧に整え、その全てを持ち前の美しさに上乗せして。

 本当に絵本の世界からシンデレラが出てきたのかと、錯覚するほどに。


「ちゃんと私を輝かせてくださいね、王子様」


 褒めることすら、できなかった。目の前にいるお姫様にひきつられて、すぐそこの扉が別の世界の入り口だと言われても嘘だと思えないほどに、その魅力に引きずり込まれる。

 でも。


「中村、冬也……?」


 たった一つの声が、俺の意識を一瞬にして現実の世界に連れ戻す。

 異世界への入り口だったはずの自動ドアから入ってきたのは、見覚えのあるエナメルバッグを肩に掛け、これまた見覚えのある女子を連れた高校球児。


「どうしてお前が、ここにいるんだよ」


 名前は……高橋だったか。この前に電車であった私立高校の野球部ってことだけ覚えてる。

 さて、面倒なことになった。おかしなことを言えばまた前よりもしつこく勧誘を受けることになる。ここは違和感があるとしても時間をかけて言い訳を考えるべきだ。


「冬也くんにスパイクを選んでもらったんだぜ!」


 満面の笑みでピースをしてやがるこの天然が、一番の爆弾だったらしい。

 さて、もっと面倒なことになったな。

 案の定、高橋は眉間にシワを寄せていた。


「スパイク……? お前、野球は辞めたんじゃ……」

「ああ、辞めたよ。俺は辞めてからはまったくボールを触ってない」


 嘘はついていない。それに、これだけ言えば武田も話を合わせてくれるはずだ。

 俺が一瞬だけ視線を送ると、武田は察してくれたのか爽やかな笑顔で、


「そうなんだよね! 私が野球部で、冬也くんに無理言ってスパイクを選んでもらったの!」


 完璧なフォローだ。嘘をつくときは、真実を織り込むのが一番それっぽく聞こえるものだ。


「なるほどな。ってことは、お前も山伏か?」

「そうだよ。山伏高校の女子野球部の部長なんだぜ!」


 さすがコミュニケーション能力の塊というところか。自然な流れで俺から武田へと話題の中心を上手にずらした。これは五千円、返してもらわない方がいいな。

 高橋も部長という言葉につられて、興味をそちらへと向けた。


「女子野球部? 山伏って、男女のどっちも野球部ってなかっただろ?」

「つい半年前に私が作ったの。まだ一〇人しかいないけど、本気で全国優勝を狙ってるんだぜ!」


 さりげなく俺も部員数に数えられていた。喜んでいいのかは分からないが。


「へえ~。でも中村は関係ないんだろ?」

「残念ながらね~。誘ってるんだけど、入ってくれないんだよね」


 それを聞いた高橋は、笑顔でこう答える。



「よかったよかった。そんなお遊びみたいな部活に入ってたらどうしようかと思ったぜ」



 その言葉に、悪意はない。ただ思ったことをそのまま言っただけ。

 しかし俺たちには、軽く放ったその言葉が宙にぶらんと浮かんでいるように感じた。


「本気で野球がやりたくなったらいつでもこっちに転校して来いよ。この前監督にお前の話したら、転校生でも特別待遇でいろいろやってくれるって言うしさ」

「前にも断っただろ。俺は野球はやらない」

「分かってるって。でも、そこの可愛い子に取られたら残念だからさ」

「……えっと」


 俺はこちらへと戻ってきた武田をそっと右腕でかばうように動く。

 大丈夫だ、武田。男との会話だったら問題ないから、俺に任せてくれ。


「こいつらはこいつらで頑張ってるんだ。誤解を生むような言い回しには気を付けろよ」

「悪い悪い。悪気があったわけじゃないだ」


 爽やかに手を軽く上げて高橋は言った。

 武田もまだ落ち着いている。早めに切り上げよう。


「あ、そうだ。こいつも女子野球部なんだよ。もし野球ができないって言っても、教えるくらいは大丈夫だろ? それでも俺が交渉してやるから、特待枠」

「もう少しくらい、面白い冗談を言ってくれると助かるな」


 俺が牽制のために睨みつけても、高橋は気づいていない。多分、素でこういうことを言っているんだ。こういう馬鹿が一番厄介だな。


「ほら、今のうちに頭下げておけって、麻里」


 とんと背中を押された女子が、小さく頭を下げる。


「は、初めまして、荒畑麻里です。川越北で野球部やってます」

「……どうも」


 前に電車で会ったときとは違う反応だった。俺の動画をネットで見て、想像よりも有名だったというところか。人見知りとは違う緊張が感じ取れた。

 一応俺も軽く頭を下げる。野球道具に囲まれているからか、武田や遥にとって感覚が狂っているのか、普通に整った顔の荒畑を見てもそこまで緊張しなかった。


「麻里のやつさ、改めて中村のこと調べたらずっとお前の動画ばっかり見てるんだ」

「……どうも」


 形だけ、会釈をしておく。


「こいつら、県のベスト4を目指してるんだ。よかったら見てやってくれよ」

「甲子園じゃないんだな」


 心の中で留めておこうと思った言葉が、うっかり口からこぼれた。


「そりゃあ行きたいって夢はあるけど、まずは現実を見ないとな。そっちだって、実際はベスト8とか目指してるんだろ?」

「わ、私たちは本気で全国優勝を目指してるよ!」

「ははっ。そりゃすげーや!」


 高橋は余裕のある笑顔のまま続ける。


「でも、一〇人じゃあ厳しいだろ。ピッチャーの継投もできないし、いざってときの代打も代走もないし、コーチャーもメンバーで回さなきゃいけないから体力だって使うし」

「頑張って体力をつければそれくらい大丈夫だよ!」


 武田が声を張っても、高橋は真面目に受け取らない。


「遊びなら遊びでいいんだよ。そういう部活だっていっぱいあるし。だからもうちょい楽にやったほうがいいぞ。そんなに頑張っても、どうせ辞めるんだからさ」


 俺の鼓動は速くなっているのに、なぜか血の気が引く感覚があった。まるで、津波を予兆する引き潮が体の中で起こっているような気分だ。

 小さく息を吐いてから、俺は言葉を紡ぐ。


「お前も、甲子園に行く気はないのか?」

「そりゃ、行けるなら行きたいさ。でも、埼玉は強い高校はたくさんあるし、ベスト4まで行ければ大金星だろ。うちみたいな中堅高校はさ」

「人並み以上の努力をしない言い訳だろ」

「そういうこと言うなって。中村は天才だから俺たちの感覚は分からないだろうけどさ、手堅く結果出して満足する人間だっているんだ」


 どこまでも、俺の嫌いな言葉を高橋は振りかざす。

 店の冷房は強くないはずなのに、背筋に寒気がした。


「でもよ、そっちのお遊び部長よりも、きっと麻里の方が頑張ってるぜ」

「……」


 あえて、俺は返事をしなかった。

 しかし、無言の圧力など一切に感じ取らない高橋はヘラヘラとした口調で、


「お遊びの部活で時間を無駄にするくらいなら、こっちで野球をやった方がよっぽどいいぜ。中村に関してはそんなお遊びで時間を無駄にするなんて勿体ない――」

「無駄なんかじゃ、ない」


 高橋がその言葉を言い終わるより先に、上書きするように武田は静かな声を放つ。

 俺にももう、止めようという気はなかった。表情こそ、声色こそ、穏やかだが。ふと視線を武田へ移したときに視界の端に映った握り拳を見てしまったから。


「冬也くんが頑張ってきたことにも、野球部のみんなが頑張ってることにも、無駄なことなんて一つもない。何も知らないあなたがみんなの努力を否定しないで」


 本当に、武田千夏という人間は。

 どんなときだって、自分じゃなくて誰かのために笑って、怒れるんだな。


「え、なんか俺、変なこと言ったかな……?」


 高橋は武田の言葉の理由が分からず目を丸くしていた。

 隣の荒畑はなんとなく察しがついているようで、バツの悪そうな顔をしている。

 武田も堪えてはいるが、これ以上は我慢の限界だろう。皆の努力を馬鹿にされたことが悔しいのか、目尻には涙が浮かんでいる。

 もう一つ何かしらの後押しがあれば、溜め込んでいたものがすべて溢れてしまいそうだ。

 俺は武田の肩に手を置く。


「武田、落ち着け」

「でも、みんなたくさん頑張ってるから……」

「俺も、今の言葉は納得いかない」


 その一言だけで、武田の体から力が抜ける。

 天井を見上げて大きく深呼吸をした武田は、半歩下がって俺に譲ってくれた。


「長い時間いると店にも迷惑がかかる。少し、外で話そうか」

「お、おう……」


 俺が先頭になって出口へと進む。

 自動ドアが開いて、すっかり暗くなった空と涼しげな風が俺たちを迎えてくれる。


「高橋。一つ、言っておくよ」


 店から出る直前、俺は横目に高橋を見て告げる。


「積み上げた努力を否定していいのは、努力をした本人だけだ」

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