第四話 泥かぶり姫の革の靴 その2
自動ドアが開くと、スポーツ用品店特有の新品の布と革の匂いが混じった風が冷房の流れに乗って俺たちを包み込んでくれた。いらっしゃいませという声は聞こえないが、陽の下で本来の役割を果たしたい商品たちが連れ出してくれと訴えかけてきている気がする。
ごめんな、俺はお前たちには用はないんだ。代わりの主人は俺の横で胸を躍らせていた。
ちょこちょこと小走りでグローブの陳列された棚へと向かった武田は、目を輝かせて少し高い位置にある投手用グラブをつま先立ちで見つめていた。
「うわー! アシックスのグローブだ! 格好いい~!」
「俺は昔のローリングスのマークの方が好きだったんだけどなぁ」
「なにそれ知らない!」
「そりゃ半年前に初めたやつは知らないだろうな。俺も最後に見たのは小学校だし」
グラブを作っているメーカーはたくさんあって、それぞれがオシャレなロゴを刺繍している。しかし、大人の事情もあってかいつの間にか好きなメーカーの刺繍が別の名前に変わっているなんてこともある。好みのメーカーであることは変わりないはずなのだが、少し寂しいと思ったりする人もいる。なんだか、昔を思い出す。でも、不思議と悪い気はしなかった。
「冬也くんはどこのグローブ使ってたの?」
「俺もアシックスだけど」
「私とお揃いだ! ここまで来たら色も同じかな?」
「残念。俺は黒だった」
武田のグローブが赤なのは知っているから、余裕で答える。
「あらら~残念! ペアルックまであと一歩だったのにな~」
「グラブがお揃いとかさすがにヤバい奴だろ」
「確かに!」
武田は楽しそうに笑って目の前のグラブを手にはめ込む。新品の硬式用グラブはかなり硬いので、女子の握力程度ではピクリとも動かない。
ふんぬぅ~とプルプル腕を振るわせて、武田は顔を真っ赤にさせる。微動だにしないグラブに敗北した武田は、ぷはぁと息を吐いてグラブを棚に戻した。
「やっぱり硬いなぁ。初めて買ったときを思い出すぜ……」
「スチームをかけてもらわなかったのか?」
グラブを買ったときは、基本的に硬すぎる革を柔らかくして型をつけやすくするために蒸気でむんむんの箱に叩き込んでスチームをかけ、木製のハンマーのようなもので初見の人がドン引きするぐらいグラブを引っぱたく。それをしてもらうだけでも一気に楽になるのだが、どうやら武田はやってもらわなかったらしい。
「いやぁ、一人で買いに行って何がなんだか分からなかったから、とりあえず大丈夫ですって言っちゃって……」
「武田なら気にせず店員さんに訊くと思ったのに」
「女の子って、初めてのときはいつだって緊張するものなんだぜ……?」
「よし、スパイク選ぶか」
「ちょっと、冗談だってば! 本当に緊張してて大丈夫ですって言っちゃっただけなの~!」
野球が絡むと緊張せずに武田に対して少し優位を取れるのは、ちょっとだけ気分がよかった。
グラブが並ぶ棚を少し進むと、黒光りする革に覆われ、金色に輝く金具をつけたスパイクたちが並んでいた。グラブとは違った革の匂いが鼻腔を撫でる。
さて、この山ほどあるスパイクから武田に合うスパイクを見つけなきゃいけないわけだが。
「今まで使ってたスパイクはどんなやつだ?」
「えっと、分かんなかったからグローブと一緒のアシックスのやつにしたの」
「底は? 樹脂とか革とか。金具が埋め込みかどうかも知りたい」
「じゅ、樹脂……? 埋め込み……?」
「毎回思うけどよくそれで胸張って野球部の部長やってるよな」
「えっへん! それほどでも!」
「今回に限っては本当に褒めてない」
「いつもよりも厳しいぜ!?」
武田がしょんぼりとするが、ここは厳しくいかなければいかない。ピッチャーをやるにあたって、スパイクというのは本当に重要な道具だ。自分に合っていないものを使い続ければ、足腰にかかる負担は倍以上になるし、コントロールや球速にも影響が出る。
俺の真剣な表情を見て、武田も真面目な視線をスパイクへと向けた。
「俺自身が怪我で野球を辞めてるんだ。お前は絶対に怪我なんかするな」
「……うん。わかった」
こくんと頷いた武田を、俺は近くの椅子に座らせた。
正直なところ、自分に合うスパイクを見つけるには試着するしか方法はない。メーカーによって形の違いはあれど、最後は使用者の感覚が一番大切になる。
「足のサイズは?」
「二十五!」
ちなみに、サイズ表記もメーカーによって差があるので、二十五と言われてもそれより大きいものや小さいものを試着する必要がある。
俺はとりあえず自分が使っていたスパイクに似たものを持ってきて、武田に履いてもらう。
「どうだ?」
「うーん。自分に合うって、どういうのなのかな……?」
「そこはもう感覚としか言えないけど、足の指に自由がありつつ、踏み込んだときにスパイクの中で足がずれないってところかな。ピッチャーってのは強く踏み込んだときにちゃんと踏ん張れないといい球を投げられないし」
言うと、武田は立ち上がって何度か床をコンコンと踏み込む。
「……ちょっと違うかも」
「なら次だ。片っ端から探すぞ。履かないと合ってるやつがどれか分からないからな」
「よっし。いくらでもこい!」
なんて、意気込んでいたのだが……
「合うスパイク、見つからないね……」
三〇分ほど試着をした辺りで、神経を尖らせて立ったり座ったりを繰り返して蓄積された疲れが武田を襲っていた。合うスパイクと言っても、まだ新品の固いものでは本当に合ったものを探すのは難しい。それこそ、一目惚れに近い感覚を得られないといけないのだ。楽に見つかるわけがない。最悪の場合、別のスポーツ店にはしごする可能性だってある。
武田は疲れをどこかへ飛ばすかのように足をブラブラさせていた。気持ちはよく分かる。例えば五キロ走れと言われたときと、とりあえずずっと走っていろと言われたときのどちらが楽か。同じ距離だとしても、ゴールがあるというだけでモチベーションというのは簡単に変わる。
俺が新しいスパイクを持ってきても、武田は足を宙に浮かせたままだった。
「冬也くーん、履かせてー」
「急にわがままになったな」
「あ、靴擦れが痛いから踵を擦らないようにお願いします」
「さらなる注文まで加わるとは思わなかった」
仕方ない。疲れる気持ちは分かるし、少しくらいは言うことを聞くか。
俺はスパイクを右手に持って、武田の足を左手で持ち上げる。
「…………、」
というか、女子の足をこうやって触るってやばくないか。座っている角度も少し間違えればスカートの隙間から桃源郷が見えてしまうかもしれないし、そもそも足というだけでも心臓に悪い。ほんの少し蒸れた足と薄らと肌色が透ける黒ソックスは男子高校生には刺激が強すぎる。
「……? どうしたの、冬也くん」
変なところで天然が出るのやめてほしい。しかし、ここで俺が意識しておかしな空気に成ったら、スパイク選びどころではなくなってしまう。俺は深呼吸をして、心を無に――
「ちょっと、息がかかってくすぐったいよ冬也くん」
「……」
心を、無にする。
「あ、あれ? どうしたの? もしかして私の足、臭かった!?」
心を無にする!
「……あははっ」
くすぐったいのか分からないが、武田は自然な笑い声を上げた。
反射的に顔を上げると、武田は穏やかな顔で俺を見降ろしていた。まるで子どもが水遊びでもしているような無邪気な笑顔で、緊張は感じなかった。
「なんだか私、シンデレラみたいだね」
「シンデレラに合わない靴をたくさん履かせ続ける王子なんて嫌だけどな」
「ぷふっ。ダメダメ王子様だ」
「とてつもなく不本意な名前なんだけど」
「ええー。でも、王子様だよ?」
「……嫌いなんだ。王子って呼び方」
去年の甲子園で、俺のことをもてはやしたメディアが勝手につけた天才王子という異名。ブサイクばかりの高校球児の中だと相対的にマシという程度の顔なのに、メディアは注目選手に王子という名前をつけたがって、しかし特徴がないために天才王子という安易な異名をつけた。
俺が無愛想だったこともあり、野球もやめてしまったので半年経った今ではその呼び方はまったくされなくなったが、今でもその言葉が嫌いだった。
天才でも、イケメンでもない俺についた身の丈に合わない名前。
甲子園での俺を知っている武田は、すぐにその意味に気づいてはっと息を乱した。
「そう、だったね。ごめんね」
「いや、俺こそごめん。もう過ぎたことなのにな」
一気に空気が悪くなってしまった。気にしていないといえば嘘になるが、数ヶ月前に比べれば嫌な気分などほとんどない。トラウマが蘇ることもないし、武田が特別に気にする必要ない。
武田は落ち込んだ顔で俺を見つめていたが、その頬に泥がついていた。ついさっきの練習でのヘッドスライディングでついたと思うのだが、どうして気づかなかったんだろう。
「武田。顔に泥ついてるぞ」
「え、嘘!? どこ!?」
慌てて頬を擦る武田を見て、思わず笑ってしまう。そこは恥ずかしがるんだな。
素手で擦ったせいで、泥は拭けてはいたがわずかに残って頬に伸びてしまっていた。サバイバルでもするんですかって馬鹿にしたくなる。
「そういえば、シンデレラって日本語で灰かぶり姫っていうらしいぞ」
「そうなの!? 知らなかった!」
「よく分からないけど、姉たちに掃除ばっかりさせられて埃とか灰まみれだったかららしい」
そこまで言って、ふと思い浮かんだ言葉を俺はそのまま口にする。
「でも武田は泥がついたシンデレラだから、泥かぶり姫だな」
「なんだか全然嬉しくない名前だよ!?」
不満そうに頬を膨らませた武田は、何かを思いついたのかふふんと鼻を鳴らして、
「それなら冬也くんはチェリーボーイだからさくらんぼ王子だ!」
「うっわ。なんだそれ。めっちゃ嫌だな」
「ならば昇格を目指して早く私に合うスパイクを見つけるのであ~る」
「はいはい。分かりましたよ、泥かぶり姫」
「なんですと!?」
武田はもう少しで靴が入りそうだった足をわざと大きく振った。
危ない危ない。金具がついているんだから気をつけてほしい。頑張って足を押さえながらスパイクをねじ込んで、すぐに具合を確かめさせる。
「これもなんだか違う~」
「うーむ。何か視点を変えてみるのもありかもしれないな」
俺はイワシの群れみたいに同じ方向を向いて規則正しく並ぶスパイクたちを眺める。そもそもの話として、どこか違うと違和感を持てるということは、自分の中で正しいという感覚があるということだ。その理由を考えよう。
「武田の中で、しっくりくるってどんな感じだ」
「上手く言葉にできないんだけど、ぎゅってしててグンっ! って感じ」
「おお。気持ちいいくらい何一つ伝わらなかった」
ここは逆に野球から離れてみるのもありかもしれない。
「武田って陸上部だったんだよな? そのときはどんなやつを使ってたんだ?」
「えっと、アシックスのやつ! うーんと……」
少し大きなスポーツ店に入ったおかげで陸上のスパイクも取り扱っているのは僥倖だった。武田は自分が使っていたスパイクの実物を俺に手渡す。
「関東大会に行ったときはこれ使ってたかな」
「ちょっと貸してくれ」
底はプラスチックに近い素材で、爪先についたトラックを踏みしめるピンは思っていたより短かった。これなら、樹脂底で埋め込み型の方がよさそうだな。でも、同じようなスパイクならもちろん試着している。どこか違いは。
スパイクを隅々まで確認しているうちに、違和感を覚えた。
「陸上のスパイクって、思ったより薄いんだな」
「うん。走ることだけ考えればいいから、軽いやつが多いみたい」
「そこが違和感だったのかもな」
野球のスパイクというのは、がっしりとした革で作られ、金具もついている。陸上の軽いスパイクに慣れているから、重さに対して違和感があったのかもしれない。それに、あれだけの靴擦れをしているということは。
俺は一つのスパイクを選んで武田を座らせる。
「こちらの靴はどうでしょうか、シンデレラ」
「……お、おお!」
立ち上がって靴の具合を確認した武田が、感嘆の声を漏らす。
「ぴったりだ! なんかこれだーって感じがする! すごいすごい!」
片足だけ金具がついたスパイクなので、不格好にカランカランという音を鳴らしながら飛び跳ねる。よかった。ぴったりだったみたいだ。
俺が選んだのは、樹脂底でも埋め込み式でもなく、真逆の革底のスパイクだった。
「スパイクって、革底の方が薄いんだ。最初は樹脂底のほうがいいと思ってたけど、慣れてる陸上の方に合わせてみた。金具も埋め込みじゃないものでも短めのものを選んだ」
「だからこんなにしっくりくるんだね!」
嬉しそうだった。武田はもう一度座って、
「これで全国優勝間違いなしだね!」
両手を伸ばしてダブルピースをしていた。まるでもう優勝しましたかのような笑顔。
それを見て、俺はなぜか胸の奥が痛む。
「武田はさ」
思わず、口をつく。
「今やってる努力が無駄になるかもしれないとか、思わないのか」
俺が野球を諦めて全てを無駄にしたように、武田だって今の頑張りが何かのきっかけで無意味に消え去ってしまう可能性。この世にあり得ないなんてことはない。俺だって、こんなことになるなんて思ってもみなかった。だから武田の心のどこかには絶対にその可能性が存在しているはずなのだ。絶望をした俺を見て、それでも武田はどうして笑えるんだろう。
武田はきょとんとした顔で俺を見てから、静かに笑った。
「人生に無駄なことなんてないんだぜ……って言ってはいるけどさ」
目の前の俺を見ているようで、ずっと遠くを見ているかのような透明な視線。
俺は初めて、武田の心の底のほんの一部を垣間見た気がした。
「本当は、ちょっとだけ怖い」
武田の表情も声色も暗くはない。でも、珍しく武田は床を見つめていた。
「無駄になるとは思ってないけどさ、報われなかったらどうしようって思うことはあるよ。できないって壁にぶつかって、それ以上先に進めなくなったらどうしようって」
きっとそれは、誰にでもある葛藤。努力にゴールなんてない。それなのに、何度だって行く手を阻む壁が現れる。それを乗り越えた先に目的地があるのかも分からないのに、進まなきゃいけない。それでも、武田は「でもね」と顔を上げた。
「私は、後悔したくないの」
今度はまるで質量があるかのような、力強い視線だった。
「あのとき頑張ればよかった。あのとき諦めなければよかった。そう言って今まで進んできた道を、間違ってるって思いたくないの。昔の私に、嘘をつくことになっちゃうから」
「ありがとうって言いたんだっけ」
「うん。それにね、今の私だって、大人になった私から見たら昔の私。だから、今も頑張るの。遠い先にいる私が振り返ったときに、ありがとうって言ってもらえるように」
「武田は、強いな」
俺も武田くらい強かったら、別の未来を歩いていたのだろうか。肩を治し、イップスを克服し、部員たちとの関係も良好になって、もう一度甲子園を目指して練習に励む。そんな未来。
「強くなんてないよ。私は私にできることを精一杯やってるだけ。それに、たくさんの人に助けてもらってる。お母さんにお父さん、野球部のみんなと先生たちと、冬也くんも」
「それでも、武田は自分の足で進んでるじゃないか」
「冬也くんだって、そうだよ。私よりもずっと頑張って進んできた」
「でも、俺は……」
止まってしまった。
目の前の壁を前にして止まって、横に伸びていた楽な道へと逃げてしまった。
「大丈夫だよ。他の人よりも早く走って疲れたから、今は休憩してるだけだもん。諦めないかぎり、何度だってやり直せるから」
「諦めないことが正しいって言いきれないだろ」
例えば俺がまた野球を始めたとして。壊した肩が完全には治りきらず、以前のような投球ができないまま高校を卒業し、大学で野球をして、それでも芽が出ずに社会人になって。
何も為せないまま、人生が終わったとしたら。
進み続けるという選択が、ずっと辛い未来へ俺を導くとしたら。
「正しいかどうかなんて、今の私たちにはきっと分からないよ。だから信じるの。私たちは間違ってないって。だから頑張るの。この道が正解だって言えるように」
遥も西武ドームで同じことを言っていた気がする。
『それでも進むしかないんだよ。これが正しいのか間違っているのかなんて、分からないから』
頭の中でそんな声が響く。
「そっか。みんな、そうなんだよな。みんな、怖いんだよな」
全力で努力をしている人で、将来に一切の不安のない人なんていない。だからこそ、武田は笑顔で進み続けるのだ。自分の努力に後悔しないように。
「もちろん。だから私は楽しむの。今この瞬間を後悔しないために」
「俺がやってきたことは、どうだったのかな」
「その答えを自分で見つけるのが青春ってやつなんだぜ、冬也くん」
胸をこん、と軽く叩かれた。きっとこの奥に、答えが眠っているのだろう。
武田は試着していたスパイクを脱いで、箱にしまう前に俺に手渡す。
それこそ、王子が探していたシンデレラが私ですと伝えるかのように。
「でも、冬也くんの努力は絶対に無駄じゃない。それは私が証明してみせるから」
俺の指導で全国優勝をして、イップスも克服し、野球を再び好きになった俺を野球の世界へと再び導く。我ながら、笑ってしまうような計画に足を踏み入れてしまったものだと思う。
でも、まだ野球は嫌いだ。ボールも触りたくないし、グラウンドにだってできることなら入りたくない。でも、きっとこれ以上の機会はおそらく一生ない。武田のようにはいかないけど、でも、進むしかない。そうしないと、この道が間違っているのかも分からないのだから。
「間違いだったら、ちゃんと諦めるよ。今度こそ」
「無駄じゃなかったって絶対言わせてみせるからね」
得意げに笑う武田へ、俺はスパイクを返す。箱に詰めなおしてもちゃんと抱えているので、買う気は充分のようだ。
「急に連れてきちゃったけど、お金とか大丈夫か?」
「むふふ。この前の西部ドームのときにおろしたお年玉貯金が残ってるんだぜ!」
武田は一万円を俺に見せびらかしてきた。ちょっと足りない気がするけど、そのときは俺が出そう。連れてきたのは俺だからな。
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