第四話 泥かぶり姫の革の靴 その1

 部活に時間を注ぐということは、日々同じことを繰り返し続けるということ。真面目に授業を受けて、放課後は部活に取り組み、家に帰ればその日の授業の復習と日課のトレーニングをして、倒れるように眠りにつく。

 フィクションのように何か特別なイベントが起きるわけではない。ただ淡々と練習をこなし、大会に備え、コツコツと実力を高めていくしかない。現実のスポーツをやっている中で、覚醒イベントなんてものは存在しないのだから。

 だから今日も、小さな努力を重ねる部員たちを眺め続ける。


「どうかな、私のスイングは」

「左打ちのお手本って感じだな」

「ははっ。私よりもずっと上手な左打者にそう言われると嬉しいね」


 いつもはサッカー部や陸上部との都合もあって、人数の少ない野球部はあまり広々と場所を使った練習ができないのだが、今日はサッカー部と陸上部の休みが偶然重なり、好きなだけ校庭を使えるようになったので実際に守備位置についてボールを打つ実戦練習をしていた。


 遥のバッティングは非常に賢く、無駄な力なく最短距離でバットを出して逆方向、つまりレフト側を狙うように打つことが多い。左打者は右打者に比べて、一塁までの距離が物理的に近く、バットを振った勢いのまま走り出せるなど、単打を打つのに適している。

 そのため、サードやショートの奥など、どうしても一塁にボールを送るのに時間がかかる位置に打てば、ほんの少し手間取っただけでセーフをもぎ取れる。


「俺は左だったけどあんまり内野安打は狙ってなかったからな。たまたま左だっただけで、右でも構わない打ち方なんだ。でも遥は塁に出ることを意識して打ってるぶん、俺よりいい」

「でも、悪いところもあるんだろう?」

「まあ、そりゃあな」


 バッティングフォームが人によって多種多様であるように、スイングに明確な正解はない。しかし、打てないときには万人に共通することは存在する。まずはそれを潰すべきだ。


「左打者によくあることなんだが、バットがボールに当たる前から体が一塁側に流れるってのはあんまり良いことじゃないと俺は思ってる」

「プロ野球ではたまに見るが、やらない方がいいのかい?」

「あれってよく見ると分かるんだけど、実は打つ瞬間の体重移動は前なんだよ。本当に流れているときは手だけで振って当てるだけのときだけなんだ」


 体重移動などを考えないセーフティバントのときならまだしも、普通に打つ場合はそこまで考える必要はない。そもそも素振りを普通に振っているのなら、打席でもそのスイングをするべきだ。試合では練習通りに。鉄則だ。


「ふむ。打つときに走ることは考えないようにした方がいいみたいだね」

「逆方向に打つなら、なおさら体重移動はちゃんとするべきだ。力が伝わりにくいから、内野を抜けない可能性が高くなる」

「なるほどね。少し見てもらっていいかな」


 遥はその場で何度か素振りをする。立ち振る舞いも、スイングも、何もかもが整っている。毎日の練習をサボることなく努力をしてきたのが一目で分かる。


「……綺麗だな」


 ぷつりと呟いた瞬間、遥の手が止まって俺を覗き込む。


「それは、私のことが綺麗で見惚れてしまうってことでいいのかな?」

「い、いや。スイングの話だけど……」

「ふふっ。知ってるよ。からかっただけ」


 楽しそうにまたバットを構える遥。何度こういう冗談を言われたことか。俺も野球部に入って二週間。夜には武田と練習すらしてるのだ。今なら、相澤に教わったあれができるのでは。


「でも、遥が綺麗だなって思ってることは間違いないよ」

「……え」


 ほら、どうだ。背中と脇から汗が止まらないけど、表面上は爽やかに言ってやったぞ。少しくらい戸惑ってくれれば、頑張った甲斐があるってもんだが、どうだろう。

 ヘルメットを被っているため表情がよく見えない。少しだけ体勢を変えると、ヘルメットの隙間から見えたのは顔を真っ赤にして緩んだ顔をしている遥だった。


「み、見ないでくれっ」


 遥は慌てて俺に背を向ける。なんだこれ。そんなに攻撃力があったのか?

 俺の方まで恥ずかしくなってくる。


「なんか、ごめん。遥ならこれくらい普通かと思って」

「……言っただろう。私は男子にリードされたい側なんだ」

「と、いいますと」


 遥は顔を隠した両手の指の隙間から、ほんの少しだけやけに艶っぽい瞳を覗かせて、


「その……男子の方から真っ直ぐ来られると、弱い」


 なぜか罪悪感で一杯だった。いつも凛々しい態度を取っている遥だからこそ、女子らしい仕草をされると破壊力がとてつもない。普段はこういう姿を見せていないのに武田と並んでツートップなのだから、瞬間最高風速は武田を超えていたかもしれない。

 これ以上、変な空気になるとおかしくなりそうだ。どうにか話を変えなくては。


「そ、そうだ! 武田のやつ、まだバッティングが仕上がってないんだよ。投球は良くなってはきてるんだけどさ! どうしたもんかなー!」


 わざとらしく俺が声を上げると、遥は目を丸くしてから小さく噴き出した。


「……あははっ。そうだね。どうしようか」


 すぐにいつもの感じに戻ってくれた遥は、バッターボックスで豪快に空振りをしてこの前に相澤とやったゲームのように目を回す武田を見て、


「千夏は野球こそ初心者だが、足は県内でも上位に入るくらい速いはずだ。走塁を磨く、というのも手かもしれないね」

「左打者だし、ありだな」


 プロ野球選手でも、足を武器にしている選手は多い。何日か一緒に走って、身体能力が並外れて高いことは充分に理解している。走塁なら、比較的早く伸びるかもしれない。


「じゃあ、次は千夏の番かな?」

「ああ、少し走塁の話をしようと思う」

「それじゃあ、私はまた練習に戻るよ」


 グラウンドへ走り出そうとした遥は、ふと足を止めて俺の耳元に口を寄せる。

 甘酸っぱい匂いとともに、撫でるような囁き声が鼓膜を揺らす。


「さっきの。新鮮でとても気分がよかったから、また不意にやってもらってもいいかい?」

「……期待はしないで」

「あははっ。楽しみに待ってるよ」


 遥らしくない無邪気な笑顔だった。あんな風にも笑うんだな、遥って。

 真っ白な練習着の後ろ姿を見送った俺は、少し上ずった声で武田を呼んだ。




「私にはバッティングの才能がないかもしれないよ冬也くん……」

「おう。そう思ったから別の武器を考えてきた」

「ちょっとくらいは才能あるってフォローしてくれていいんだぜ!?」

「野球に才能は必要ない。大切なのは正しい形と継続的反復だ」

「むむぅ~」


 たいへん不満そうだった。細い目で俺を軽く睨んでいる。


「武田は走塁の練習はしてるか?」

「う~ん。ベースランニングとかはやってるけど、それでいいのかな?」

「盗塁の練習は?」

「私以外にピッチャーがいないからやってない……」


 やはり人数不足だとできる練習も限られるのか。でも、実は盗塁の練習というのはやり方によっては場所を取らなかったりする。


「盗塁で一番大切なことがスタートってことはさすがに分かるよな」

「うん! 少しでも遅れたらアウトになっちゃうからね!」

「じゃあ、盗塁をするときに一番気にするべきところはどこだと思う」

「う~ん。キャッチャーの肩かな」

「悪くないけど、一番じゃない。盗塁するときに見るべきは、当然ピッチャーだ。正直な話、どれだけキャッチャーの肩が良くても完璧に盗めば盗塁は必ず成功する」


 俺はその場でピッチャーの投げる体勢を作った。ボールを持たず、マウンドにもいかなければこれくらいならできる。……あまりやりたくはないが。


「例えば、俺はこう投げていた」


 体に染みついた動きをするだけ。へその前にグローブを置き、視線を二回ランナーへ向けて、キャッチャーを見てから一秒間ボールを持ってから投げる。


「ピッチャーってのは、投げることに関しては誰よりも練習を同じ動きで投げたい生き物だ。数センチ単位でコースを調節するからな。腕の振り、足の角度、ボールを離す位置。どれか一つでもずれれば思い通りにいかないことは武田も知ってるはずだ」

「うん。だからフォームチェックが大事なんだよね」

「そうだ。だからピッチャーは、マウンドで極力練習通りに動こうとする。なら、俺たちはそこを狙って盗塁すればいい」


 武田はまだ分かっていないのか、次の言葉を待っていた。

 俺は何も言わずに、もう一度投球動作をする。

 見ていた武田は思わず「あっ」と声を出した。


「ランナーを見る回数とかも、同じになっちゃうんだ」

「そう。意識しないと、ピッチャーは同じ動作を繰り返す。そこが狙い目だ」


 例えば俺の場合、二度ランナーを見てからキャッチャーを見る。投げると決めている場合、このときにはもうランナーのことは考えていない。


「さすがに何度も盗塁できることはないが、癖を掴めば一試合に一度、多くて二度は必ず盗塁が成功する瞬間がある。相手がプロレベルじゃない限りはな」

「冬也くん! もう一回だけやってみて!」


 早速実戦をしてみたいのか、ワクワクした顔で武田は姿勢を下げてスタートの準備をする。

 俺は再び形を作り、動作を繰り返す。そして動き出す直前に、武田は完璧な第一歩を決めた。感覚を掴んだのか、目を輝かせて武田は俺の元に走ってきた。

 フリスビーを咥えてきた犬のように俺からの言葉を待っている。これ、多分褒めろってことだよな。さっきちょっと不機嫌そうだったし。


「いいスタートだった。今の感覚、忘れないようにな」

「うんっ!」


 武田は大きく頷いた。やはり、野球に関しては不器用なだけで、運動センスは悪くない。盗塁は野球の中でも身体能力が重要で、技術はスタートとスライディングさえ上手くできれば問題ない。これなら、夏までには強力な武器になる。では、次だ。


「武田。ちょっと二塁のランナーをやってみてもらっていいか?」

「およ? 打ったら走っていいの?」

「外野に抜けたらホームを狙ってみてくれ。アウトになっていいから」

「らじゃー!」


 ビシッと敬礼をして、武田は二塁へと走っていった。

 ちょうど、外野の守備もいる実戦練習をやっているのだ。ランナーの練習をしておくに越したことはない。それに、武田の走塁をちゃんと見ておきたかった。

 女子野球では、外野に抜けた球でも二塁からホームに帰ってこられないことが多い。男子よりも飛距離が短いために外野が前で守っていること、女子で足が速い人がそもそも少ないことなど、理由は多いがランナーが武田の場合は話が変わる。関東大会に出場経験のある元陸上部なら、ホームへと帰ってこられる可能性は十分にある。


 キン、と快音が響く。打ちやすい球を放っているため、水原が丁寧にセンター前にヒットを打った。相手は外野の中でも一番上手い遥だ。俺の意図を察して、完璧な捕球と完璧な送球で武田を差しにくる。マウンドを超えてワンバウンドをしたボールが、綺麗にキャッチャーの相澤のミットへと吸い込まれていく。


「とりゃあぁああああ!」


 武田は渾身のヘッドスライディングでホームに滑り込んだ。相澤も素早くタッチをするが、ほんのわずかに武田の手の方が速い。


「やったー! セーフだぁー!」


 真っ白だった練習着を砂で汚して、顔すらも茶色で装飾した武田が嬉しそうに両手をあげる。

 悪くはなかったが少し気になるな。万が一の場合は、速めに対処した方がいいかもしれない。

 褒めてもらえると思って笑顔でこちらへ武田が駆け寄ってくる。

 残念だが、褒めるよりも注意だな。


「あーっと、武田」

「うんうん。なにかな冬也くん!」

「出来る限りヘッドスライディングはするなよ。危ないから」

「今度こそ褒められるかと思ったのに!」


 ぎゅむっとしていた。

 でも、本当にヘッドスライディングというのは危険なのだ。高校球児がよくやっているイメージがあるためやりがちだが、正直なところ、やるデメリットが多すぎる。


「いいか。ヘッドスライディングってのは、スパイクを履いている選手の足元に手を伸ばすってことだ。万が一踏まれたら最悪縫うほどの怪我にもなる」


 特にピッチャーの指は生命線だ。もし指を踏んでしまって骨折となれば、二度と満足にボールが投げれないなんて可能性だってある。


「あとは、普通にヘッドスライディングの方が遅い。プロみたいに上手く滑れるなら別だが、とりあえず頭から滑っても、触れる面積が多いから摩擦が増えて遅くなる。やっていいのは、どうしても届かない一歩を無理矢理押し切るために全力で踏み切るときだけだ。ヘッドスライディングってのは、最後まで諦めなかったやつだけが得られる特急券だ」

「……気をつけます」


 多分、武田に耳と尻尾があったらぺたんと垂れていたと思う。俺も少し言いすぎたなとは思うが、注意が甘くて怪我をするよりはましだ。


「お前が怪我をしないために言ってるってことは分かってくれてると思うが……」


 さて。問題はここからだな。


「武田。スパイク脱げ」

「と、冬也くん!? 女の子に突然脱げだなんて、ちょっとハレンチだぜ!?」

「誤魔化すってことは、当たりか」


 言うと、武田が力なく笑った。


「……あはは。やっぱり冬也くんって凄いんだね」


 武田は諦めたようにスパイクを脱ぐ。足は白いソックスで覆われているが、それでも異常は一目で分かった。日の丸のように、真っ白な中に浮かぶ赤いシミ。痛々しいほどに武田の踵には血が滲んでいた。


「……ずっと我慢してたのか」

「絆創膏は貼ってたし、そのうちタコになってくれるかな~って」


 乾いた笑みを浮かべながら、武田は頭をかく。

 走っている様子を見て覚えた違和感の正体はこれだった。昨日も一昨日も走っている武田を見ているから気づけた小さな変化。多分、ランニング用の靴は平気だが、革でできたスパイクでは靴擦れが酷かったのだろう。そのせいで少しだけ走り方が変わっていたようだ。


「そのスパイクはいつから使っているんだ」

「えっと、初めてからすぐだから……半年くらいかな」

「半年、か」


 使い始めて間もないスパイクなら、革が柔らかくなる前で靴擦れをすることは多々ある。しかし、半年も使って未だにここまで酷いとなると、結論は一つ。

 俺は外野で守っている遥を呼んだ。


「どうしたんだい、冬也」

「こいつが靴擦れ隠して練習してたから、これからスパイクを買いに行く。たぶんこいつの足にスパイクが合ってない。悪いけど、後の練習は任せていいか」

「と、冬也くん!? 今日の練習くらいなら問題ないよ!」

「馬鹿言うな。バレた以上はどうやっても周りに心配かけるだろ。お前に気を使って練習の質が下がるくらいなら、今日中に解決させるのが一番いい」

「そ、それは……」


 言い淀む武田を見て、遥は優しくその頭を撫でる。


「気にすることはないよ。むしろ、今まで気づいてあげられなくてすまない。私も心配だ。練習は私に任せて、冬也に合うスパイクを選んでもらうといい」

「……でも」

「千夏がどれだけ頑張っているかはみんな知ってるよ。一日だけ早く上がったところで、文句を言う人なんて誰もいないさ」

「…………うん」


 こくりと、武田は頷いた。

 それ見て、さらに口角を上げた遥は俺の背中を軽く押す。


「ほら、友奈には私から説明しておくから、早く行っておいで」

「悪い、頼んだ」


 また勝負っすとか言われるんだろうな。でも、スパイク選びに相澤はいらないし、仕方ないか。遥が上手く相澤の機嫌をコントロールしてくれることを祈ろう。

 武田に荷物をまとめさせて、相澤がこちらへと来る前にグラウンドから出る。

 俺は隣を歩く武田の様子を伺う。俺が怪我をきっかけにして野球をやめてしまったこともあって、少し強く言いすぎてしまったかもしれない。タイミングを見て謝るとしよう。


「ねえねえ、冬也くん」


 武田が小さく呟いた。今のうちに心の中で言う言葉を決めておいた方がいいかもしれない。心配するなとか、怪我には気を付けてほしいとか、元気な武田の方がいいぞとか、気の利いたことの一つくらい言えるようにならなければ。

 閉じた口の中に言葉をため込んだ状態で、俺は武田の言葉を待つ。


「二人で出かけるってことは、今度こそデートってやつだね」

「俺もお前くらいポジティブになりたいよ……」


 いたずらに笑う武田の前では、少し女子に慣れてきた程度の俺では手も足も出なかった。

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