第三話 それぞれの原点 武田千夏

 相澤との勝負から解放された俺は、日課のランニングをしていた。長々と続いていく国道254号線を、黙々と進んでいく。しかし今日は、流行りの音楽は聴いていなかった。

 いつもよりも少し遅いスピードで、少し道路側を走る。後ろからは、リズムの崩れた荒い呼吸がせわしなく聞こえ続けていた。


「ペース、落とすか?」

「大丈夫だぜって言いたいところだけど、あとちょっとだけ落としてもらえると助かるかな」


 俺は歩幅を狭めて少しだけスピードを落とす。

 後ろを走る武田から「ひぃ~」という叫び声が聞こえた。だが、止まることはしない。というより、止まると怒られる。

 一昨日辺りから、俺の日課に武田がついてくるようになった。別に誘ったわけでも誘われたわけでもないのだが、いつも同じ時間に走っているために待ち伏せされるのだ。別に邪魔をしてくるわけでもないので、一緒に走っている。どちらかといえばついてくるという感じだが。

 一〇キロが走り終わったので、武田が俺を説得した公園へとやってきてクールダウンをする。


「かぁ~。疲れたぁ」

「お疲れ。ほら」


 俺はスポーツドリンクの入った水筒を武田に手渡す。


「ぷはぁ~。ありがとう、冬也くん!」

「よくやるよな。キツいだろ」

「大変だけど、ピッチャーをやるなら大事でしょ?」

「そうだな。純粋な持久力や心肺機能はあって困ることはないな。武田の場合は他のピッチャーがいないから先発完投型でなきゃいけないし、やったほうがいい」

「だよね~」


 武田はごろんと芝生に転がって星の煌めく夜空を見上げていた。


「ほら、さっさとストレッチだ。柔軟性も大事だぞ」

「ほいほい。冬也くん、一緒にやるかい?」

「俺は俺でやるからとっととやってくれ」

「は~い」


 むくっと上体を起こして、武田はストレッチを始めた。やたらスタイルがいいので、夜でも直視すると心臓に悪い。俺は背中を向けて体を曲げる。


「ねえねえ、冬也くん。またスイング見てもらってもいい?」

「……まあ、いいけど」

「見えてないけど絶対嫌な顔してたよね?」

「そんなことないぞ。ヘタクソすぎて気が進まないだけだ」

「相変わらずの火の玉ストレートきたぁ!」


 見えていないが、ぎゅむっとしていると思う。そもそもぎゅむってなんだ。

 数分してストレッチを終えると、武田は早速素振りの準備を始めた。


「いっくよ~!」


 ブン!


「うん。まだまだヘタクソだな」

「だ、だよね~」


 さすがに苦笑いをしていたが、どこか楽しそうな顔で俺からのアドバイスを待っている。


「でも、良くなってるところもある」

「ほ、ほんと!? どこどこ?」

「足がついた瞬間にちゃんとした形ができてる。前はここが曖昧で全部が微妙になったが、ここが整い始めているから全体的に綺麗になってきてる」

「やったー!」


 ぴょんぴょんと武田が跳ねる。まるで主人と遊んでもらっている犬の尻尾のように高めに結ばれたポニーテールが揺れていた。


「でもまだ全体的に力が入りすぎだ。振り始める前から力が入ってると、腕が固まってバットの軌道が悪くなる。左打者なら、左手の力はボールに当たる瞬間までゼロでもいい」

「なんだか、ホームランを打ちたいって気持ちが強くなっちゃって……」

「だったら余計に力を抜け。ホームランってのは狙って打つもんじゃない」

「でもでも、プロの人たちは狙ってる人いるよね?」

「ありゃ狙わなくてもホームランが打てるプロだからだよ。アマチュアでもホームランが狙えるのはそのままプロになれるような別格のやつだ」

「ちなみに、冬也くんは?」

「狙ってホームランを打ったことはない」


 甲子園でもホームランは二本打ったが、どっちも俺がピッチャーだからと甘めの球を投げられたところで偶然打てたというだけだ。油断せずに投げられてたら、ホームランは無理だった。


「プロ注目だったくせに!」

「ピッチャーとしてな。さすがに二刀流ができるほど凄くはないよ」

「謙虚なのか謙虚じゃないのか分かんないぜ!?」


 またぎゅむっとしていた。

 しかし、すぐに武田はバットを構えて素振りを始める。

 何度も何度も、楽しそうに笑顔で。


「楽しそうだな」

「もちろん! とっても楽しいよ!」


 汗だらけなのに、素振りをする姿は輝いていた。

 ブンブンと風を切りながら、武田は話し始める。


「私ね、昔は運動も勉強も苦手だったんだ」

「相澤は中学の頃から凄かったって言ってたけど」

「友奈と会ったときにはたくさん頑張ってからね」


 山伏高校は埼玉の公立でも指折りの進学校だし、中学では陸上で関東大会にまで出ていたと相澤から聞いている。それでも、昔は何もできなかったと武田は語る。


「きっかけは単純だったの。偶然、中学に入ってすぐに頑張ったら結果が出て、それから努力すればするほど足が速くなって、成績が良くなって。努力が楽しくなったの」

「それで今まで結果が出てるんだから凄いよ。普通はそんな上手くいかない」

「えへへ。頑張りましたから……」


 照れ臭そうに武田はバットで顔を隠した。いや、隠れてないから赤くなった頬が見えてるが。


「相澤がいうには、男子からの人気も凄かったらしいけど」

「へ!? ま、まぁ。好きだって言ってくれる人はいたけど……」


 モテるやつしかできない反応だった。去年は多くの男子が玉砕したらしいが、彼氏は作らないのだろうか。これくらいレベルが高いんだから、いい男も寄ってきそうだけど。


「でも、みんな断っちゃったんだよね」


 いつもとは違う、表面だけの笑顔だった。


「私は何もできなかった頃の私を知ってるから、期待に応えられないだろうなって。背伸びした自分のままでいなきゃいけないってなると、頑張ることが辛くなっちゃいそうだったから」

「昔の自分が嫌いってことか?」

「ううん、そんなことない」


 ゆっくりと、武田は首を振った。


「昔の私に会えたら、絶対にありがとうって言うって決めてるの」


 いつも通りの、太陽のような笑顔がいつの間にか目の前にあった。


「あの頃の私がいたから、今も頑張れてるよって。あのとき頑張ろうって思えた一歩が、私を変えてくれたんだよって。そう言いたいから」


 武田は静かに空を見上げる。


「何もできなかった私も、誰でもない武田千夏だから」


 どこまでも澄んだ満天の星は、深海の底に沈んだ宝石のようで。俺の前で輝く太陽がいるこの場所こそが空なのかと勘違いしてしまいそうだった。


「だから、人生に無駄なことなんてないんだぜ。冬也くん」


 それは初めて会った日に、武田が俺に言った言葉。


「きっといつか、未来の冬也くんがありがとうって言いにくるから。だから今は、昔の冬也くんにありがとうって言えるように楽しもうぜ!」

「そうだったら、いいな」


 俺はまだ、そうは思えない。野球なんてやらなきゃよかったのに。あんな無駄な時間なんて消えてしまえばいいのに。そんな思いが、心の奥で消えてくれない。


「冬也くんはまだ、部活も野球も嫌い?」

「……好きには、なれないな」

「そっか。でも、大丈夫だぜ!」


 武田は持っていたバットで夜空を差して、


「思わず冬也くんが叫んじゃうくらいに、私たちの野球部に熱中させてあげるから!」


 いつか、そんな日がくるのだろうか。

 これまで野球をやってきて、俺は叫んだことがない。声を張って連携を取ることはあったが、興奮して咆哮を上げたという覚えはない。

 野球をやっていたときですら熱くならなかった俺が、野球を辞めた今になってあのときよりも熱くなれるのだろうか。にわかには信じられないが。

 武田なら、もしかしたら。俺の想像のしない世界を見せてくれるのかもしれない。

 でも、まずは。


「なら、ホームランを打てるようにたくさん素振りしないとな」

「おお!? なんだか予想外の方向に打球が飛んだぜ!?」

「今日はオフだし、軽く三〇〇くらいにしておくか」

「あ、あの……冬也くん? なんだか聞き慣れない単位が聞こえた気がするんだけど……」

「楽しませてくれるんだろ?」

「……や、やってやるぜ、こんちくしょー!」


 素振りを最後までやりきった武田は、楽しそうに笑っていた。

 それを見て、思わず俺も笑う。久しぶりに、こんなに笑った気がした。

 少し休んでから武田を家まで送って、俺も家に帰る。明日の部活もよろしくねと、武田は手を振って見送ってくれた。

 シャワーを浴びて、髪を乾かし、布団に入る。LINEを見ると、武田が明日の練習メニューをグループに張り付けていた。部員たちもスタンプなどで返事をしている。俺も一応「了解」とだけ送って目を閉じる。


 次の日、俺は山伏高校野球部に入って初めて、朝練に顔を出した。

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