第三話 それぞれの原点 相澤友奈 その2
自分でもどうしてだか分からないが、なぜか俺は正座をしていた。別にあぐらをかこうが雑魚寝をしようが問題はないはずなのに、これからお茶を点てようとでも言わんばかりに姿勢を正し、ただまっすぐ一点だけを見つめていた。他の場所を見てはいけない気がしたのだ。
可愛らしい花柄のカーテンが春風でオーロラのように揺れているのも、ふわふわとしたクマのぬいぐるみが俺よりも楽な体勢でミニチュアの椅子に腰かけているのも、やたら甘い香りが漂うタンスがパンドラの箱のように見えるのも、思考から排除しなきゃいけない。
「あ、お待たせしたっす~」
俺をがんじがらめにしていた重苦しい空気が、ドアが開かれたと同時に風とともに吹き抜けてカーテンの隙間から消えていく。
俺の隣に腰かけた相澤は、麦茶の入ったグラスとコンソメ味のポテトチップスを低めのテーブルに置くと、すぐにそれをパーティー開きにして「よし」と呟く。
「んじゃあ、勝負っす」
「ちょっと待て。説明が足りない」
すかさずツッコミを入れる。足が痺れてきたが、そんなのは気にならない。
しかし、相澤はあっけらかんとした表情でポテトチップスを口に運ぶ。
「なんすか。別に友達と部屋でゲームぐらい普通じゃないっすか」
「放課後に後輩の女子の家にあがりこんで二人っきりでゲームするのが普通なわけないだろ」
「別に普通っすよ。異性でも家に呼んでゲームしたりしません?」
「さてはお前、異世界の住人かなんかだな?」
どんどんと変な汗が湧いて出てくる。どうしてこうなった。
電車に乗ってどこかに行くくらいから少し嫌な予感がしていたが、まさか相澤の家に行くだなんて思わなかった。どこかのバッティングセンターにでも連れていかれるかと思ったのに。
「あーでも、兄ちゃんの影響もあるかもしれないっす。小さい頃から兄ちゃんの友達と一緒にゲームとかしてたんで、他の人よりかは慣れてるかもっす」
「一応お前が俺と同じ世界にかろうじて住んでいるのは分かった」
それでも、高校生で男の先輩を家に連れてくるって相当じゃないか? 相澤の家族と出くわしたらどうすればいいんだよ。
「あれ。もしかして先輩、女の子の家に上がるの初めてって感じっすか?」
「当たり前だろ」
日頃から女子の家に遊びに行くようなやつなら足が痺れて指先に感覚がなくなっても正座のままでいるわけがないだろう。甲子園の打席より緊張するんだが。
「先輩の初めて、私が貰っちゃいましたね」
「つい最近まで中学生だったやつが言っていいセリフじゃねえぞ」
「もう高校生だからセーフっす」
「高校生でもアウトだっての……」
俺がぐったりと肩を落とすと、相澤は「冗談はさておき」と部屋の棚を開く。
こいつの冗談、いつになっても慣れないなぁ。
ふと相澤を見ると、四つん這いで棚の中を物色していた。他の女子よりもスカートが短いため、少し角度を変えれば見えてしまいそうだった。本当に心臓が悪い。
俺は慌てて視線をひらひらと揺れる相澤のカーテンから可愛らしい花柄のカーテンへ移す。
「そ、そういえば、親とかは大丈夫なのか。知らない男が上がりこんでたらさすがにあれだろ」
「心配いらないっす。親も兄ちゃんも今日は遅くまで帰ってこないっすから」
「それ、もっとやばくない?」
本気で二人っきりってことか。余計に体が硬くなる。
何かを抱えた相澤が棚から顔を出した。
「その、ヤバくないか。男と部屋で二人っきりって」
「私だって人は選ぶっすよ。それに先輩は女子を襲えるような人じゃないっすよね」
「俺、そんなに弱そうに見える?」
問いかけると、相澤は行動で答える。
「えいっ」
「あぎゃ!?」
相澤は俺の足をグッと掴んできた。限界まで痺れていた俺の足から弾けるような刺激が波のように流れてくる。泣きそうだった。
「足を崩すタイミングを逃して痺れてもずっと正座の先輩の何を怖がれって言うんすか」
「それは、確かに」
ぐうの音も出なかった。
「ってことで早速始めるっすよ。勝負っす」
相澤は棚から取り出した何かをテレビの前に置いた。ゲーム機のようだが、勝負ってまさかゲームか。ほとんどゲームなんてやったことないんだけど。
「先輩はボールに触れないけど野球しか能がないということなので、間を取ってゲームっす」
有無を言わさず、相澤はコントローラーを渡してきた。昔から誰かと対戦することが多いので、コントローラーは多めにあるらしい。
相澤がテレビにコードを繋ぐと、画面に野球選手が映し出された。あんまりゲームをやらないから、野球選手の顔が現実とそっくりで驚いた。グラフィックも綺麗だ。
「普通にプロ球団を使った対戦でいいっすよね」
「すまん。やったことないから分からん」
「とりあえず使いたい球団選んでくださいっす」
メニュー画面を手慣れた動きで選択して、プロ野球十二球団の選択画面になる。
「相澤は何にするんだ」
「当然、埼玉西武ライオンズっす。埼玉県民なら当たり前っす」
「じゃあ俺はソフトバンクで」
「ソ、ソフトバンク!? 裏切り者ぉ!」
「え、なに。ダメだった?」
「埼玉県民がソフトバンクを選ぶなんて反逆者っす! あいつらが何回私たちの聖地で胴上げしやがったと思ってるんすか! リーグ優勝を毎年見せつけられるこっちの身にもなれっす!」
「んな横暴な……」
だって強いじゃん、ソフトバンク。確かにズルいとは思うよ。めっちゃ強いし。
しかし、相澤はニヤリと笑って、
「そっちがその気なら手加減しないっす。ライオンズがソフトバンクをぼこぼこにできるのはゲームの中だけっすからね。これ以上ないくらい負かしてやるっす」
「それ、どっちにも失礼だと思うぞ」
「うっさいっす! プレイボールっす!」
問答無用で試合が始まった。操作のやり方も知らないのにどうしろってんだ。バットの振り方も知らないのに打席に立つとは思わなかった。とりあえず〇を押したらバットを振ってくれたので、なんとなく動かしてみる。
「お、当たった」
「なんで初打席からバットに当たるんすか!?」
「でも、アウトだし」
俺が打った打球は、コロコロとグラウンドを転がってセカンドに取られてアウトになった。
思っていたより難しい。その後もサクッとアウトを取られ、攻守が変わる。さて、ピッチングもやり方が分からない。多分〇で投げるんだろうな。
「ふっ。甘いっすよ!」
俺が考えなしに放ったど真ん中のストレートが、一瞬でバックスクリーンに叩き込まれる。まあそうだな。ゲームに慣れてるやつこんな球を投げたら打たれるよな。
「ふふんっ! この調子でぼこぼこっす!」
そのうち慣れてきてある程度なら戦えると思ったが、そんなことはなかった。
画面に映った試合結果を見て、俺は思わず笑ってしまった。
「十五対一って、プロ野球で年に数回見れるか見れないかの泥仕合だぞ」
完全敗北した俺とは対照的に、相澤はコントローラーを握る手を震わせていた。
どうやら、悔しがっているらしい。
「一点、取られたっす……」
「そんな悔しがることか? 相澤の圧勝だろ」
「でも打たれたのは事実っす! 悔しいに決まってるっす!」
試合の最中も、偶然俺がヒットを打っただけでも「くそー!」と叫んでいた。唯一取った一点も、相澤の操作ミスがきっかけで得た一点で、別に俺は何もしていない。俺に負けたと感じる要素は何もないはずだが。
「そうやって悔しがってたら、野球なんてやってられないぞ」
野球というのは、失敗の方が多いスポーツだ。生きている時間のほとんどを野球に使っているプロ野球選手ですら何百回もアウトになり、一度は必ずエラーをする。
「日本で一番すごいピッチャーだって、防御率は一点を超える。つまり、一試合を通じて一点は取られるもんなんだよ。バッターも打率はよくて三割。一〇回打って、三回打てばいいバッターだ。その七回はもう仕方ない。割り切った方がいい」
「じゃあ、先輩は甲子園で打たれても悔しくなかったんすか」
「打たれるときは打たれるからな。気にして次のプレーに支障が出るからすぐ忘れる」
「私は、悔しいっす」
画面に映るたった一つの失点を見つめながら、相澤は強い声で言った。
「中村先輩は、悔しくないのに頑張れる人なんすね」
「負けたときの課題を潰すのも日課みたいな感じだったからな。そこまで熱くはならなかった」
「私とは逆っすね。私は悔しいって思えないと頑張れないっす」
そんな話をしながら、相澤は再び試合開始の画面を選択した。どうやらもう一度やるらしい。しかし、手を動かしながらも相澤は言葉を繋げていく。
「私って小さい頃からやれば大抵のことはできたんすよ。天才って呼ばれてたっす」
「いきなり自慢したな」
「でも、私って天才じゃないんすよ。先輩ならわかりますよね?」
「なるほどな。それならよく分かる」
俺も中学の頃から天才だと言われてきたが、自分ではそうは思わない。ただ他人よりも努力して、その努力を自慢しなかっただけだ。相澤も同じだったんだろう。
「小さい頃から男子と遊ぶことが多くて、いろんなことで負けたりしてたっす。でも負けっぱなしは悔しいから、勝てるように努力して、負かしてやりました」
「それを繰り返しているうちに、天才って呼ばれたと」
「別に自分が勝てることばっかりやってるだけなんすけどね。努力を見せなかっただけで、表面しか見てない人たちは天才って呼ぶんすよね」
「迷惑な話だよな」
「ほんとっす」
二人で肩をすくめる。あ、ホームラン打たれた。雑談しながらでも容赦ないな。
この調子だと、またボコボコにされて負けそうだ。
「そういえば」
負ける負けないの話で思い出したが、俺はここに勝負しにきたのではなかったか。
まあ、武田の遊びたかったからという八つ当たりなわけだが。
「俺に勝負だって言ってるのは、武田が関わってるんだよな」
「そうっす。千夏先輩の隣は譲りたくないので」
「そんなに武田のことが好きなのか?」
「私が野球を始めたきっかけで、私の人生の目標っす」
「ほう」
だからあそこまでべったりだったのか。
「高校生になってすぐ野球部ってことは、中学から知り合いだったんだよな」
「同じ中学の一つ先輩っす。あの頃から千夏先輩は輝いてたっすからね~」
「今日みたいに悔しいってならなかったのか?」
「それがならなかったんすよ。生まれて初めてでした」
思い出すように遠くを見ながら、しかし俺の打った打球を完璧にさばいて、相澤は言う。
「悔しいより先に、憧れたんすよ。あんな人になりたいって」
「だから武田が野球を始めたって聞いて野球部に入ったのか」
「はい。千夏先輩みたいになりたいので」
中学の頃は、武田は陸上部だったらしい。県大会でもかなりいい成績を修めて、関東大会にも出るレベルで、相澤は一度も武田に勝てなかったそうだ。
「でも、楽しかったっす。負けたけど千夏先輩は私より頑張ってて、でも私の努力を認めたうえで天才だって褒めてくれたっす。本当に嬉しくって、この人に認められるような人間になりたいって思ったんすよ」
それには俺も覚えがあった。武田も俺を天才と言ったが、俺がどれだけ努力をしてきたかを知って、その上で俺を肯定しようとした。言葉以上に相澤の気持ちを理解できた気がした。
「だから、そんな人の隣にいたいってことか?」
「というより、千夏先輩の隣じゃないと楽しく努力できないっす。つまらないことなんてやりたくないじゃないっすか。努力が好きなわけじゃないんで」
悔しいという感情以外で頑張ることのできる理由が見つかったということか。本当に武田が誰かに与える影響というのは大きいらしい。俺も武田に影響を受けた一人だし。
「先輩にはいなかったんすか、憧れの人とか」
「憧れ、か」
野球を始めた理由すら忘れてしまって、日課のように野球を続けてきた。誰かになりたいと思ってやっていた記憶はどの引き出しを開けてもなかった。
「いない、かな。好きな選手とかはいたけど、その人みたいになりたいとは思わなかった」
いろいろと考えているうちに、重い吐息がこぼれた。
「どうしたんすか。ボコボコにされすぎて心が折れたっすか」
画面を見れば、いつの間にか八点くらい取られていたが、ため息の理由はそれではない。
「なんか俺って、なんにもないなって思って」
「そうっすか? 甲子園行ったじゃないっすか」
「でももう野球は辞めたし、憧れの人も、特別野球を続ける理由も、誰かとの約束もなにもない。俺は漫画の主人公なんかじゃない、空っぽの人間だなって」
今までの努力は全部無駄で、その努力に人生を懸けてきた俺には何もない。俺の中は、張りぼてのように空っぽだった。残ったのは、上っ面の甲子園に行った事実だけ。
しかし、相澤はケロッとした表情で、
「空っぽだろうとなんだろうと、先輩は先輩じゃないすか。体に内臓詰まってりゃ充分っすよ」
カラッとした笑顔を浮かべていた。
「難しく考えすぎなんすよ、先輩は」
「そう、なのかな」
「そうっすよ。何かを諦めて、どこかで妥協して、なんとなくで生きてる人なんて世の中には山ほどいるっすよ。でも、私はその人たちに生きる価値がないなんて思わないっす」
それは武田とは違う肯定だった。人生に無駄なことなどない、ではなく。俺の言う無駄を経験してる人など、数え切れないほどいるのだと。
「そもそも空っぽってなんすか。ちゃんと十七年も生きてるじゃないすか」
「それは、そうだけど」
きっと誰しも、俺ぐらいの歳の頃は特別な何かに成りたいと思っていたはずだ。俺だってそうだった。野球をやっていたころは、自分がこの物語の主人公だって、そう信じていた。
でも、自分が主人公ではないと分かって俺は諦めた。特別な何かには成れないのだと、悟ったような気になっていた。
「悔しかったら頑張って、次は勝てばいいんすよ。負けるのとかは嫌っすけど、怖くはないっす。別に常に勝つ必要なんてないんすよ。最後に生きて立ってりゃ勝ちっす」
話を聞く限り、相澤だって常に成功してきたわけではない。たくさんの失敗をして、負けを経験して、それを糧にして今を生きている。
「挫折しようが諦めようが、今こうして生きてるんだったら、好きなことをやればいいんすよ。何かに成りたいって思うより、自分であろうと思ったほうがいいって私は思うっす。今からでも全力で楽しめば、きっと笑い話にでもなるっすから。気楽に行くっすよ」
人生において自分が特別な何かになるというよりは、相澤友奈という人間が常に主人公なのだろう。だって失敗したのも成功したのも、相澤友奈なんだから。
「何回諦めたって、どうせ頑張らなきゃいけないときが来るっす。そうしたら頑張って、どうにかすりゃいいんすよ。過去も今も未来も全部、嫌でも繋がってるんすから」
野球を諦めたとしても、空っぽになったわけじゃない。野球を諦めた過去を持つ中村冬也という人間が、今もこうして生きているというだけ。それ以上も以下もない。
「そっか。そんな考え方も、あるんだな」
ほんの少しだけ気が軽くなった気がした。俺はまだ、野球を諦めたという事実を受け止めきれていないだけなのかもしれない。
野球を辞めても、俺の人生であることには変わりないと、肯定してもらえた気がした。
「ってことで。今を楽しむっすよ、中村先輩」
「言いながらコールド勝ちするって、やってること逆じゃない?」
「私がとても楽しいので何も間違ってないっす」
今度こそ十五対〇で俺に完勝した相澤は、満足そうに胸を張った。
教室に押しかけてきたときの怒りなど、もうどこにもない。というより、思ってしまえばこのやり取りをするために俺を呼んだのではないかと思うほどだった。
相澤は優秀な人間だ。今の話を聞いた限り、俺が思っているよりも多くのことを考えて生きている。なら、こうして二人きりの空間を用意したのも、野球ゲームを使って勝負を挑んできたのも、俺にこの話をするためなんじゃないかと思えてくる。
武田とは違うやり方だが、俺のトラウマが少しでも和らぐ方法を考えてくれたのかもしれない。過去を乗り越える必要ない。それも俺の人生だと笑えばいい、か。
「なんか、ありがとな」
「お礼を言われるようなことはなんもしてないっすよ」
相澤はくしゃっと笑っていた。
きっとこいつは、自分の努力を自慢したくない人間だ。それなら、しつこく礼を言うのも意図を掘り下げるのもやめた方がいいだろう。そもそも、この勝負が本当に憂さ晴らしだけっていう可能性だってある。なら、一方的に伝えておくとしよう。
「あー。じゃあ、ポテチありがとう」
そういってコンソメ味のポテトチップスを口に運ぶ。野球部だった頃はスナック菓子を食べることはなかったから、やたらと美味しく感じた。
「ふふっ。どういたしましてっす」
ポテトチップスを頬張る俺を見て、相澤は今までにないくらい可愛らしく笑っていた。頬は薄桃色に染まり、くすっと笑うことでふわふわの毛先が躍り、部屋に漂う甘い香りが意思を持っているかのように漂って俺の鼻腔を通り抜ける。
やはり相澤は美少女なのだと再認識して、コントローラーを握る手が汗ばんできた。
「さてさて。まだ時間もあるっすから、もう一試合やりますか!」
「え、またボコボコにされるの?」
「もちろんっす。千夏先輩とのデート、まだ許してないっすから」
「……そっかぁ」
女子に慣れていない俺では、笑顔の裏で息を潜める怒りを見つけることはできなかったらしい。満面の笑みで、相澤は再びライオンズを選択する。逃がしてくれる気はなさそうだ。
「お手柔らかにお願いします」
「分かってると思うっすけど、死んでも手は抜かないっすからね」
結局、俺は三〇点以上もの点差をつけて完膚なきまでに敗北した。
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