第三話 それぞれの原点 水原蛍 坂本諒

 翌日になって。昨日の部活が休みだったからか、どこか部員たちが元気よく部活に励んでいた。よくやるなあ、と素直に感心する。よく声も出ているし、気になった細かい箇所は互いに指摘し、それでも分からなくなると俺に訊きにくる。部員数こそ少ないものの、俺が見ている光景は間違いなく野球部の練習風景だった。

 そんな中でも、特に俺に練習を見てくれと言うのは坂本と水原だった。


「中村さん。今日は私の練習を見てもらってもいいですか」

「おう。分かった」


 前に坂本の練習だけしか見ることができなかったので、今回は水原を見ることになった。

 一見すると文化部だと思ってしまうような重めの前髪と肩にかかる程度のセミロング。いつも表情が明るい坂本の隣にいるから、余計に無表情が際立って見える。だからと言って不愛想というわけではなく、感情を表に出さないだけなのだろうなと思う。


 先日とは反対に坂本がノックを打ち、水原が打つ。この前に学校で見かけたときもずっと二人で過ごしていたし仲はいいのだとは思うのだが、どうやら野球に関しては正反対のようだ。

 坂本は基礎が甘かったのに対して、水原はきっちりと基礎が固まっている。多分、こつこつと努力するのが得意なタイプだな。しかし当然、課題はある。


「ちょっと、こっち来てもらっていいか?」


 俺は近くから適当な長さの枝を拾って、地面にアルファベットのMのような曲線を描く。なんだか、小さい頃に描いた簡単なカモメの絵にも見えた。

 そんなM字のカモメを、坂本と水原は覗き込む。


「なんだこれ、眉毛?」

「あー、国民的漫画の主人公の眉毛でもなければファストフード店のマークでもないし、ましてやカモメでもない。少し大げさだけど、ゴロを横から見た図と思ってくれ」


 俺は持っていた枝を水原に渡す。


「ちょっと質問だけど、このボールの軌道の中で一番取りやすい場所ってどこだと思う?」


 水原は少し悩んだ後に、波線の頂点を丸で囲んだ。

 そして、持っていたグラブを胸の近くに持ってくる。


「バウンドが一番上がったときでしょうか。胸の近くで取れますし、握り替えも早いです」

「それも間違いとは言えないけど、女子野球では正解じゃない」


 俺は枝を受け取って、某漫画の主人公の眉毛で言えば眉間の位置を丸で囲む。


「正解はボールが地面に落ちる直前、もしくはバウンドした直後だ」

「どうして上じゃ駄目なんだ?」


 坂本が首を横に倒した。


「お前たちもそうだけど、女子は基本的に男子に比べて身長も低いし、腕も短い。そうなると、バウンドの頂点を狙って動くと、イレギュラーが起こったときにグラブが届かないことがある」

「確かに! 頭の上に飛んじゃったらおしまいだ!」

「硬式だとそこまで跳ねることは滅多にないけど、もし公式戦で起こってしまったとき、そのワンミスが勝負を決めることだってあり得るかもしれない」

「自分の守備のミスで負けるのは嫌ですね」

「でも、バウンドの直前と直後なら身長は関係ない。直前ならそもそもイレギュラーは起こらないし、直後ならイレギュラーが起こってもグラブに収まる範囲内のブレにしかならない」


 高いバウンドを捌くプロ選手を見ていると、胸の辺り、もしくはバウンドの瞬間を狙っている。しかし俺たちが見ている野球選手と比べれば、女子たちは二〇センチほどの差がある。あれをそのままお手本にしても、自分にとってやりやすいとは限らないのだ。


「バウンドに合わせる都合もあるから胸の前でもいいけど、上手くタイミングが合うならバウンドする直前を狙って練習する方がいい。難しいからな」

「なるほど。なら、私はそこに合わせるようにすればいいと」

「簡単に言えばそうなるな。でも、その合わせ方が多分課題なんだと思う」

「と、言いますと?」


 ここまでは守備をやるにあたっての前提。ここからが、本当の水原の課題だ。


「坂本には基礎が課題だって言ったけど、動きの滑らかさは悪くないんだ。打球へ辿り着く速度と、それに合わせる動きが綺麗だ」

「えっへん! それほどでも!」

「まあ、基礎が甘いから取ってからはかなり酷いけどな」

「かなり酷かったのか!」


 坂本はがっくりと肩を落としていた。

 俺も水原も、うなだれる坂本をスルーして話を進める。


「反対に水原は基礎が固まっている分、丁寧にやりすぎて打球を待つ癖がついてる。本来ならもう一つ前で取れたはずの打球も、後ろに下がって合わせてる」

「セカンドなので、ゆっくりでもいいと思っていたのですが」

「それは試合の話だ。練習でそれをやっていると、本番で反射的にあと一歩が出ずに内野安打っていう可能性もある。バッターの方は死ぬ気で走ってるんだからな」

「体に染みついた動きが本番で足を引っ張ってしまうと」

「試合中は、セカンドなら特に打者の動きが見えるはずだ。前で取るか後ろで取るかの選択肢は、そのときに選べばいい。練習するべきは難易度の高い、前での捕球だ」

「非常に納得しました。ありがとうございます」


 水原はペコリと頭を下げた。武田とか相澤とか坂本とか、グイグイくるやつを見すぎてこうした丁寧なお礼がとても新鮮に感じる。


「それじゃあ、またノックを始めましょうか」

「あ、ちょっと待って」

「……? なんでしょう」

「多分、部活以外の時間も自主練とかやってるよな?」

「ええ、まあ」

「壁当てができる環境とかある?」


 一人でやる練習の定番、壁当て。テニスでも壁に向かってボールを打ち、それを返し続ける練習がある。俺が水原にやってもらいたいことも、壁を使った練習だ。


「はい。いつも近くの公園を使っているので、壁当てならできます」

「そしたらさ、リアクションボールで練習するのが、一番いいと思う」

「リアクションボール、ですか?」


 普通のボールとは違い、シリコン製でいくつもの楕円形が合わさったようなデコボコのボールがリアクションボールだ。スポーツ用品店の棚の隅っこにあるタイプの、遊び要素がありながらも練習ができますよ的なアレだ。俺がどうにか説明すると、坂本が知っていたらしいので、今度一緒に買いに行ってくれるそうだ。


「それで壁当てをすればいいんですか?」

「ああ。あのボールは複雑な楕円だから、頻繁にイレギュラーするんだ。素直に待っていても、おかしな位置でボールを取ることになる」

「だから、素早くバウンドを把握して上手く捕球する必要があると」


 俺は首肯した。


「それで、できるならいつもよりも一つ前で取るように意識してほしい。捕球位置はもちろん、ボールがバウンドする直前が直後で。ちゃんと送球まで意識してステップを踏みながらな」

「分かりました。やってみます」


 少しだけ、水原の口元が緩んだ気がした。どこかワクワクしているようにも見えた。

 思わず、俺の口から考えていたことがそのままこぼれる。


「二人とも、そんなに練習が好きなのか?」


 唐突な言葉に少し戸惑う二人だったが、すぐに坂本が返事をしてくれた。


「うーん。好きか嫌いかって言われたら好きだけど、めっちゃ好きってわけでもないかな」

「じゃあ、なんであんなに朝練とかやるんだ?」


 この質問に関しては、二人とも即答だった。


「蛍に負けたくないから」

「諒に負けたくないからです」


 同時に、互いを指差して。息ピッタリの言葉だった。


「……仲は良いんだよな?」

「良いというよりは腐れ縁というやつです。家も近くて、中学も同じソフト部でしたから」


 その言葉に、坂本も同意しているようだ。幼なじみというやつだろうか。


「こんなふわふわチワワみたいな諒に負けるとか、嫌なんです。だから練習してます」

「私だってじみじみダックスみたいな蛍には負けたくないもん!」


 ふわふわチワワに対抗する言葉がじみじみダックスってどうなんだろう。多分何も考えずに言ってるよな。


「ライバルって感じだよな?」

「簡潔にまとめるなら、そうなります」


 こいつにだけは負けたくないという気持ちを持って練習をすることは悪いことじゃない。ちゃんとした対抗心があれば、その必死さが部内の雰囲気をいい方向に運ぶが多いからだ。

 ただ、そんなことよりも俺は素直に羨ましいと思った。


「楽しいだろうな。隣を全力で走ってくれる人がいると」

「そうだな! 私は蛍と練習するの楽しいよ!」

「私も、諒がいるから頑張ろうと思えることは多いです」


 言ってから、水原は俺の表情を伺うように口を開く。


「中村さんには、そういう人はいなかったんですか?」

「負けないっていう人はいたけど、気がついたらいなくなってたな」

「天才が故の悩み、というやつですかね」

「そんな大層なものじゃないよ。俺が本当の天才だったら、もっと楽だったと思う」


 別に俺は才能があったわけじゃない。ただ黙々と、やるべき努力を積み重ね続けていただけだ。天才だと言われてきた人にも出会ってきたが、野球というものは努力の量がものをいう。


「俺が天才じゃなかったから負けるもんかって付いてくる人がいて、勝手に諦めて俺を天才だって言葉でまとめて消えていった。俺にも才能なんてないのに」


 効率の良い練習をしようとも心がけていたし、頑張った分だけ成長できたのは運がいいとは思う。でも、それでも誰よりも努力をしている自信はあった。


「俺と練習して楽しいって言う人はいなかったよ。だから二人が羨ましい」

「でも、私は中村に教えてもらうの、楽しいぞ」

「そう言ってもらえると、助かるよ」


 気の抜けた声が出てしまった。想像以上に、たった一言が嬉しいんだと思う。

 思わず緩んだ俺の口元を見て、水原が笑う。


「そうなら、私たちは中村さんにも負けないようにしなければいけませんね」

「中村にも?」

「全国優勝を目指す以上、きっと辛い練習をすると思いますが、それを私たちは最後まで楽しんでやろうと思いまして。中村さんの想定する努力に、私たちは負けませんから」


 水原の言葉の意味を理解した坂本が、おお! と声を上げる。


「なるほどな! それなら私も負けないもんね! 蛍にも中村にも負けねーぞ!」


 心の底から、二人は言っていた。負けたくないという気持ちを向けられたことは何度もあるが、こんなにも心地の良い対抗心を感じたのは生まれて初めてだった。

 なら、俺も正面から応えなきゃいけない。


「そしたら、お前たちの練習メニューを考えておくよ。全国レベルのキツいやつ」

「ちょっ!? 蛍が余計なこと言うから一気にキツくなりそうなんだけど!?」


 飛び跳ねた坂本を見て、水原が嘲笑を浮かべた。


「ふ~ん。私は別に大丈夫ですが。そうですか、諒は辛くてできないですか」

「かっち~んと来た! なら私は蛍よりも多くやってやるもんね!」

「出来ることならやってみればいいんじゃないですか? 諒には無理でしょうけど」

「言いやがったな! 夜も寝られないくらい悔しい思いさせてやる!」


 そんな煽り合いをしながら、二人はグラウンドを走り、練習を再開させる。

 坂本も水原も、俺の言ったことを実践しながら、失敗と成功を繰り返して、悔しそうにしながらも、楽しいそうに次のボールを求め続ける。

 何度も何度も楽しそうにボールを追いかける二人は、それこそ草原で遊ぶ犬たちのようで。

 なんだよ、練習もお互いのことも大好きじゃんか。


「本当に、この野球部のやつらには敵わないな」


 しばらく経ってこちらにやってきた武田に言われて初めて、自分が笑いながら二人が練習している様子を見ていることに気づいて、慌てて頬を叩いた。

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