第三話 それぞれの原点 青木遥 その2
ドームという名前がついていながらも、機械的な空調管理ではなく自然の風を流し込むことで空調を調節するために、西武ドームは完全な屋内というよりは屋根が設置された球場と呼んだ方が分かりやすい。そのため、外からゲートをくぐって坂を上ると、そのまま球場全体を見渡すことができる。懐かしい風景だ。最後に来たのは、一〇歳にもなっていない時だったか。
「……懐かしいな」
「私も懐かしいよ。初めてきた七年前の日は、今でも思い出せる」
俺の呟きが聞こえていたらしい。遥も通路からグラウンドを見渡していた。
少し進むと、電光掲示板に今日のスターティングメンバーが発表されているのが見えた。それを確認して、お気に入りの選手がいたのか嬉しそうに武田が跳ねていた。
すぐに外野の自由席へと降りようとするが、遥はその首根っこを掴んで、
「すまない。お腹が減ったからタコ焼きを買ってきてもらっていいかな。あとお茶も」
「え、ええ!? さっきまでお腹減ってないって言ってたじゃん!」
「急にお腹が減ったんだ。試合が始まってから買いに行くのは嫌だからね。お願いするよ」
武田はぷくっと頬を膨らませながらジト目で遥を見つめる。
「むむぅ。いいでしょう! 買ってきてあげる! 冬也くんもいる?」
「あー、明太チーズで」
「合点承知! 熱々のタコ焼きをお届けするぜ!」
ドヤ顔で親指を立てた武田は、小走りで売店へと走っていった。
「場所は私たちが取っておくから、戻ってきたらそのまま降りてきてくれ!」
遥が声を張ると、武田は手を振りながら「はいよ~」と返事をして視界から消えていった。
俺はその背中を見つめながら、
「こういうときは男が行くべきだと思ったんだけど、今回は違うよな?」
「そうやって意図をくんでくれるとありがたいよ。二人だけで話したいことがあったんだ」
遥はゆっくりと外野自由席へと足を踏み入れる。席と言っても、椅子は一つもない。ピクニックでもできるような短い人工芝の坂が、外野のフェンスの手前まで続いているだけ。基本的に気合いを入れて応援をする人たちがここに来るイメージがあるが、指定席ではないために安く、レジャーシートを敷いて座っている人も多い。
遥の荷物は小さめのショルダーバッグが一つだけなので、おそらくレジャーシートは持ってきていないだろう。遥が向かうのは、センターの守備位置に近いフェンス際。あと数分もすれば試合が始まるところで、選手たちがベンチから出てきていた。
二人だけで話したいと言われたが、緊張はしなかった。ふと見えた横顔が真剣そのもので、俺を茶化そうという顔に見えなかったのだ。
「最初はさ、父親が野球好きで半ば強引に連れてこられたんだよ。ちょうど、この場所だった」
そんなふうに、遥は切り出した。
「そのころは野球なんて家のテレビで少し見る程度だったし、大人ばかりだったし、騒がしいし、ずっと帰りたいと思っていた。それでも父親は楽しいからとここまで連れてきたんだ」
始球式が始まった。最近テレビに出始めた芸人が、なにやらマウンドで騒いでいる。しかし、遥の目は外野にしか向いてなかった。昔を思い出している、遠い目だった。
「七回が過ぎて、夜も遅くなって眠くなり始めたときだった。一人の選手が打った球が、ここ目掛けて飛んできたんだ。フェンスの前にいたから、自分に当たるかもしれないと怖くなった」
幼くて可愛いだろう、と遥は笑って、
「予想外の恐怖で眠気が吹き飛んで、ボールが自分に向かって飛んできている感覚だった。小さい上にフェンスの前だから、逆に一番安全な位置なのにね」
始球式が終わり、ドームにまばらな拍手が満ちる。
しかし、遥の脳内で響いているのはきっと、喝采だろう。
「時が止まっているかと思うぐらい、全てが鮮明に、ゆっくりに見えた。打球が目の前に飛んできたその瞬間も、私はただ見ていた。怖くて動けなかったんだ」
遥はフェンスをギュッと握りしめた。
「でも、その打球はフェンスにはぶつからなかった。外野手が見事に取っていたんだ。スーパープレーというやつさ。代わりにフェンスにぶつかった選手は地面に転がりながらも、すぐに爽やかな顔をして立ち上がって、取った球を私のところに投げてくれた」
ショルダーバッグを漁って、遥は一つのボールを取り出した。年季が入ってはいるものの、丁寧に取り扱われていたのが一目で分かる。
「私が生まれて初めて取ったボールだ。あの瞬間から、私は野球選手になった」
手の中でそのボールを転がしながら、遥は言う。
「ここが、私の始まりなんだよ」
何かを始めるということに関して、大抵の人にはきっかけがある。それが些細なことであれ、鮮明に記憶に焼き付くものであれ、それは常にその人の中にあるはずだ。
「何かを長く続けるときには、ほとんどがその始まりに楽しいという感情があったはずだ」
遥も例外ではなかったらしい。その日のうちに野球を始めると両親に告げ、すぐに近くの野球チームに所属し、中学でも野球を続け、今に至っていると。
「君はどうして野球を始めたんだい?」
「……覚えてないな」
物心がついたときには、ボールを握っていた気がする。両親が野球好きで、小さなときから気が付いたときには父親とキャッチボールをしていた。
「じゃあ、質問を変えよう。君はどうして、野球を続けたのかな」
「それは……」
すぐに言葉にすることはできなかった。記憶を辿っても、どうして続けていたのかがよく分からない。いつの間にか練習が日課になっていて、生活の一部になっていた。
「当たり前になってしまうと、楽しさが埋もれてしまう。君のように人並み以上の努力が染みついてきた人ならなおさらだ」
「同じようなことは、武田も言ってたな」
俺は楽しいということを忘れてしまっているだけだと。
その解決方法は、楽しんでいる自分を見ろという荒療治だったが。
「あの子は感覚で生きている子だからね。私のような理屈っぽい人間からもアドバイスをしてあげようと思うんだ」
「楽しさを思い出すってことか?」
「少し違うね」
微笑みながら遥は訂正する。
「辿っていくんだ。君が野球を嫌いになった瞬間から楽しかった瞬間までの道のりを。甲子園という高みに上ったとしても、君が初めてボールに触れ、野球を始めた原点とは地続きだ」
「……なるほどな」
少しだけ理解できた気がする。でも、すぐに思い出せる範囲に楽しさと苦しみの比率が入れ替わった転換期のようなものはない。それどころか、楽しいと思った日もあったかどうか。
「原点はそのときは気づいていないときもある。後になって、思ってみればあの瞬間から人生が変わったのかもしれないと思うときだってあるかもしれない」
「改めてそれを探していけば、野球の楽しさが思い出せるってことか」
「そうだね。だからまずは私の原点を君に教えたわけだ。私は特に印象的で、説明が簡単だからね。冬也が自分の原点を見つけるきっかけになるかもしれないと思ったんだ」
「いいのか。そんな簡単に話してくれて」
「冬也が原点を見つけたら教えてくれ。それで私は満足だよ」
もうすでに試合が始まっていた。遥は動き始めた白球を目で追いながら「さて」と呟いて、
「試合が始まったということは、そろそろ千夏が帰ってくることだね」
「そんなピッタリに帰ってこられるものなのか?」
「逆だよ。どれだけ回り道をしたとしても、さすがに試合は私たちと観たいだろうから」
遥の言葉が終わる直前に、武田が雄叫びを上げながら自由席の坂を滑り降りてきた。
「やあやあ、お二人さん! 熱々のタコ焼きはいかがかね? 安いよ~!」
どう反応していいのか分からないキャラで来たぞ、こいつ。
「実はそこまでお腹は減っていないから半分食べてくれないかい?」
「え、いいの!? 喜んで!」
一瞬でキャラが崩れていた。
俺が買ってきてくれた明太チーズを受け取ろうと手を伸ばすと、武田は優しく笑って、
「遥といいお話は出来た?」
「さすがに気づいてたのか」
「うん。特別何かがあるわけじゃないんだけどさ、こういうときって遥は自分で買いに行くか、冬也に任せると思ったから、何かあるのかな~って」
遥のいう、感覚で生きているとはこういうことなんだろう。なんとなくだが相手の意図を汲み取って、最善の行動が取れる。遥とは方向性が違えど、武田も人の気持ちに寄り添うことができる人間なのだと改めて感じた。……俺に対しては問答無用で踏み込んできたが。
「まあ、いろいろ話せたよ」
「ふむふむ。それで、いろいろとは!」
興味津々という目で俺の顔を覗き込んでくる。話したと言っても、遥の昔話が大半だったので、武田に言っていいのかは遥の判断に任せるべきだ。俺は遥に視線を送る。
すると、遥は艶やかに人差し指を唇に当てて、
「ここは秘密にしておく方が面白そうだね」
「なんでっ!?」
「ってことだ、武田。ほら、お前は黙ってピッチャーを見て少しでも学んだ方がいいぞ」
「あははっ! 冬也もいい感じに千夏をいじれるようになってきたね」
「二人して私で遊ばないでよ!」
「え? いや、本気だけど」
「それはそれでスパルタすぎるぜ冬也くん! ドームでぐらい楽しませておくれ!」
武田はぎゅむっと細長いメガホンを抱きしめた。それを見て遥がさらに笑う。
そんなやり取りをもう何回か続けているうちに、試合も中盤を超えた。開幕してから二週間ほどなので満員の観客というわけではないが、それでもちらほらと空席が見える程度で、周囲から聞こえる声援が身体の芯まで響く。
試合は一対一の同点で、投手戦が繰り広げられていた。当然、互いに守備が超ハイレベルで、一つ一つの動きが完成されていた。改めて、プロという次元の高さを感じる。
そして、武田はそんな動きの全てを逃すまいと手に持っていたタコ焼きに手も付けず、食い入るように見つめていた。頬を流れる汗にも気づかす、首に巻いたタオルがなければそのままタコ焼きに落ちていただろう。こんなに好きなのに、野球を始めたのは半年前なんだよな。
武田はかなり集中しているので、リラックスしながら試合を眺める遥に声をかける。
「なあ、武田って半年前から野球を始めたんだよな?」
「うん。去年の夏だったかな。夏休みの真っ最中に千夏から電話がかかってきてね」
「それで野球がしたいって言われたのか?」
「野球部を作るから部員になってくれって言われたよ」
「行動力の塊だな……」
野球経験者である遥が知り合いで、教えてほしいと相談するのなら分かるが一直線に部活を目指すのが武田らしいというか。
「てか、遥はどうして野球部がない山伏に入部したんだ?」
「私は中学の頃から部活ではなくガールズで野球をやっていたからね。高校に上がってもそっちの方で続けていたんだ。だからそれまでは陸上部にいたよ。足腰の強化になるからね」
「じゃあ陸上部は辞めたのか?」
「千夏に誘われた日に、陸上部もガールズも辞めたよ」
「ま、まじ?」
普通はそんな即決できないだろ。武田のことを言えないくらい行動力あるな。
「冬也は千夏がどうして野球部を作ったか知っているかい?」
言われてみれば、武田が野球を始めたきっかけも、野球部を作った理由も俺は知らない。素直に首を振ると、遥は思い出すように遠くを見つめて、
「甲子園に行きたいって、そう言ったんだ」
ほぼ全ての高校球児の目標であり、全国高校野球選手権大会の舞台、甲子園。確かに、近年では女子野球も競技人口が増え、時期をずらして女子野球の全国大会も準々決勝からは甲子園で行われているため、女子でも全国のベスト十六に入れば甲子園でプレーができる。
「最初は驚いたよ。ゼロから野球部を作って、甲子園にまで行きたいっていうんだからね」
「それでも、野球部に入ったってことは武田の言葉を信じたんだよな」
「もちろん。だからここにいるわけだからね」
それはそうだが、理由が分からなかった。
「どうしてか、って顔だね」
微笑みながら俺の心を察した遥は、野球部に入った理由を一言でまとめる。
「武田千夏が甲子園に行くって言ったからだよ。それ以上も以下もない」
思わず「……?」って顔をしてしまった。それ、理由なのか。
「実際、君だって千夏の言葉で野球部に入ってくれたんだろう。それなら分かると思うけど」
武田と出会ってすぐの俺でも、その言葉を信じてみようと思ってしまった。あの時にあの言葉を言ったのが武田以外だったら、きっと俺はどこか別の部で幽霊部員になっていただろう。
「なんとなくだけど、分かる気がする」
「野球部のみんなも、冬也の想像以上に真面目に練習していただろう? 元々千夏が甲子園に行きたいと言って誘っているから、生半可な子はいないんだよ」
「それで、目標が半年後には全国優勝になったと」
「最高だね。目指すなら一番上の方が楽しそうだ」
人と話すととき以外は前と上しか見ない主義、だったか。
「どうして、そんなに頑張れるんだ」
「そういえば、君は部活なんて時間の無駄だって立場だったね。今も変わらないのかい?」
「まあ、そうだな」
夏休みに入るまでの時間は、俺が人生を無駄にしてちゃんと心の底から野球を諦めるための期間だと思っている。いうなら、後悔する準備だけしてあると言ったところか。
「わざわざ、人生の大半のこういうスポーツに捧げるのは無駄だって思う。プロになって、あの舞台で稼げる人なんて数えるほどしかいない。大半は辞めて、そんなことなかったみたいに社会に出る。それなのに、厳しい上下関係や中途半端な繋がりの中で役にも立たないことを必死になってやる必要なんて、ないじゃないか」
「いわゆる青春、とやらが嫌いなのかい?」
「口だけの目標を掲げて、ダラダラと努力して、目標に届かなくても仲間と過ごした時間がかけがえなのない青春だって言い訳をして生きてるやつらが嫌いなだけだ」
そして、そんなやつらがごまんといるのが部活という世界。吐き気がする。
「でも、それなら私が野球をしている時間は、きっと無駄ではないね」
「どういうことだ?」
「私の夢の話だよ」
はっきりとした口調で遥は言う。
「プロ野球選手になって、私はここで試合がしたい」
それはそこら辺のやつがいう、このまま続けて運よくそうなればいいな、なんて中途半端なものではない。明確な目標として、自分の足でそこまで辿り着こうとする意志があった。
小さな頃の憧れを、遥は今でも追っている。
その歩みを、俺は無駄だと切り捨てることはできなかった。
「なれなかったら、どうするんだ」
プロという夢を諦めたとき、それまでの努力は水泡に帰す。それは怖くないのだろうか。
俺の問いかけに、遥は真面目な表情で、
「私のポリシーを忘れたのかい、といいたいところだけれど、怖いという気持ちは当然あるさ。簡単な道ではないからね」
遥は「でも」と笑う。
「それでも進むしかないんだよ。これが正しいのか間違っているのかなんて、分からないから」
「……そっか」
きっとそれは、誰だって思うことだ。今やっていることが正しいのか。間違っていたら全てが無駄になるんじゃないか。そんな恐怖は誰だって抱いている。後になっても何が正解になんて誰にも分からない。そんな中で、遥は進むことを選んだ。
「遥は、強いんだな」
やけに重たい言葉が口からこぼれた。
「ただの強がりだよ」
遥はわずかに口角を上げた。
「千夏が努力を楽しいものに彩ってくれることが私を支えてくれるのかもね」
「確かに、武田は楽しそうに練習してるな」
一週間ほど武田の練習を見ているが、つまらなそうにやっているところは見たことがない。常に笑顔で、いつも新鮮そうにできないことすら楽しんでいる。
「そういえばさ」
ふと疑問が湧いた。
「武田って、どうして野球を始めたんだ?」
野球部を作った理由もついさっき知ったばかりだし、思い出してみれば武田が野球をここまで好きになる理由を知らなかった。半年前に始めたばかりでこれほどのめり込んでいるということは、遥のように深く印象に残るきっかけがあると思うのだが。
「おや、聞いてなかったのかい?」
意外そうな顔だった。
「俺が訊いてないからだと思うけど」
別にきっかけなんて聞かない限りは言わないからな。俺が疑問に持たなかったから、単に言わなかっただけなのだと思う。
「なら、訊いてみようか」
試合に集中しきって無防備な武田の頬を、遥は人差し指でつんと突いた。
「はえ?」
遥が指でつついたままだったので、そのまま振り返った武田の頬がぷにっとまんじゅうのような弾力を見せる。
「どーしたの、遥」
未だに指が押し付けられているので、もごもごとした口調で武田は言った。
「一つ、教えてほしいことがあってね」
「お! なんだい、遥! 私が知っていることならなんでも教えてあげるぜ!」
「君が野球を始めた理由を冬也に教えてあげてくれ」
「ごぶはっ!?」
凄まじく動揺していた。
「ど、どうして冬也くんに言う必要があるのかな?」
「何か大きな出来事でもなければ、すぐに甲子園に行きたいなんて言わないだろうと思って」
「……そ、それもそうだね。なんでだろうね~」
斜め上を見ながら口笛を吹くというなんとも古典的な誤魔化し方をしていた。
それを見て、遥が小さく笑う。俺をからかっているときの表情だった。
「じゃあ、私が冬也に伝えてもいいってことかな?」
「ダメダメダメ! 秘密、秘密ってことでお願いします!」
武田はバタバタと大袈裟に両手を振った。心なしか、顔が赤い。
何か恥ずかしいことでもあるのだろうか。
と、派手なリアクションを取っていた武田の動きがピタリと止まった。そして停止した武田はある一点を真っ直ぐ見つめていた。その視線の先は、バットを構える一人の選手。
「どうかしたのか?」
「……なんか、あの人、打ちそう」
なんの根拠もない、ただの勘だろう。しかし、野球においてはその言葉に出来ない危険を感じることが多々ある。俺も、投げる前から打たれるという直感がよぎる瞬間があった。それに似たものを、武田の感じ取ったのかもしれない。
俺はあしらわずに、その勘を掘り下げようと思った。
「どうして、打ちそうだと思った?」
その場の勘には、根拠がある。多くの人はそれを偶然だと片付けるが、その偶然は必ずそれまでに積み重ねてきた理由の上に積み重なっている。だからそれを自分のできる限りの言葉で表すことは、投手をやっていく中で非常に重要になる。同じケースになったときに、相手と勝負するべきか逃げるべきかの選択肢を間違える可能性が減るからだ。
「ピッチャーの人、さっきのカーブが甘かったの。多分ちょっとだけ疲れてるんだと思う。それにバッターの人、今までずっとカーブで空振りしてカウントが悪くなってた。でも今、一度も当たってなかったカーブがラインぎりぎりのファール」
「次の球、何が来ると思う?」
「ストレート。あのカーブは怖くて、投げられないもん」
「今、キャッチャーが構えているコースは?」
「外。最初の打席で、あの人が空振りしてたところ」
「それなのに、打つと思うのか?」
「うん。多分、ここに来る」
「どうして?」
「なんとなく」
最後以外は、いい観察眼だ。それに、最終的にはなんとなくという感覚に頼らなくてはいけない瞬間が来る。それを心の底から信じ切れるかどうかという才能も、当然必要だ。
武田はバッグからグローブを取り出した。こいつ、ホームランが来るっと思ってるからかキャッチする準備を始めやがった。
「おい、怪我するからやめろって……」
「なら、冬也が怪我をしないで取れる方法を教えてあげればいいんじゃないのかい?」
遥は触れてしまいそうなほど近づいて、息が当たるほど近くから俺を見上げる。
「私はまだ君から野球を教わっていないんだ。是非この機に外野の守備を教えてもらいたい」
「それなら練習で……」
「ここじゃ、駄目なのかい……?」
天然の武田とは違う、自分の可愛さを自覚して、それを最大限に生かすような動きと表情と言葉遣い。こんな甘い言葉をかけられて、いいえと答えられる人間なんていないだろう。
「……外野の守備で一番大切なのは、一歩目だ」
その一言を聞いて、武田と遥が微笑む。
「前か後ろか右か左か。打った瞬間に落下地点を予測して、そこに真っ直ぐ走ることができるかが、ボールに追いつけるかどうかを大きく分ける」
「はいはい! どうやって予測すればいいですか、とーやせんせー!」
わざと幼げな声を放ちながら武田は手を挙げた。
「基本的には練習あるのみ。経験則が一番ものをいう。ただ、見るべきものはちゃんとある」
「打球の角度などかな?」
「それもだな。他にも打球の上がる速度、打者の力、風とかだな。それと、見るときには気持ち目線を下げた方が分かりやすいとは言われるが、これは感覚の問題だから好きにしてくれ」
言い終わったタイミングで、マウンドのピッチャーが振りかぶる。武田の予想が正しければ、外角のストレートをこのレフトスタンドまで運ぶらしいが。
「本当にここに来ると思うか?」
「うん。多分」
その結果は、数秒後に明らかになった。
武田の分析通り、球種はストレート。しかし、キャッチャーの構えていた外角にボールはいかなかった。疲れか、はたまた単純な失投か。ボールは吸い寄せられるように内角へ。
「あのバッターの人、内角にはめっぽう強かった気がしたから」
金属のバットではないはずなのに、弾けるような音がバットから鳴り、人々の視線を一斉に集めた白球が美しい放物線を描く。おいおい。本当に来たぞ。
「……まずは視線を下げる」
小さく呟いて中腰の姿勢になった武田は、落下地点をいち早く感じ取る。そして、少しだけ後ろへと下がったところで、視線を俺へ向けた。次の指示を待っているみたいだ。本当に来るだなんて思ってなかったから、そんなに細かく教えてなかったな。
「体の力を抜いて、ボールが近くに来るまではグローブを構えずにちゃんと見ろ!」
守備において球が視界から消えることは避けなければならない。だから基本的に、グローブは取ると決めたときだけ構えればいい。
「グローブは大きく開け! 掴もうとしなくても、打球の衝撃で勝手に閉じる!」
こくりと頷いた武田は、飛んできた打球を再び見つめ、細かな位置調節をする。他にもホームランボールを取ろうと動いている観客がいるが、いち早く反応した武田が最もいい位置だ。
「取る直前でグローブを構えて、大きく開く」
そして、ぱすん、と小さな音を立てて、武田のグローブにボールが吸い込まれていった。
周囲からは、見事なキャッチに「おお」と小さな歓声が溢れる。しかし、当の本人が一番呆気に取られたように自分のグローブに収まるボールを見つめている。
「……取れた」
ひまわりの成長を早送りするかのように、みるみるうちに武田の表情に笑顔が咲き誇る。
「取れた取れた取れた! 本当に取れたよ冬也くん!」
その場で飛び跳ねた武田は、そのまま勢いよく正面から俺に抱き着いてきた。
「ちょ、ちょっと待て……!」
甘酸っぱい匂いに、興奮で火照った温もりに、服に染み込んだ汗の湿り気に、嬉しいと叫ぶ声に、帽子が落ちたせいで眼下に広がる滑らかな黒髪と。俺が外界から受け取る情報のほぼ全てが武田千夏で埋め尽くされる。
そして、みぞおち辺りに感じる、やけに柔らかいこの感覚は。
「は、離してくれ武田……!」
「やったやった! 冬也くんのおかげだよ! 本当にありがとう!」
「わ、分かったから!」
女子に慣れていない男に、この感覚は危険すぎる。本当にヤバい。
俺は武田を引きはがそうとするが、持ち前の身体能力でがっちりとホールドしてくる。
無理に引きはがそうとして変なところを触ったりもできない。
俺は助けを求めるように遥を見るが、
「千夏に抱き着かれるなんて、他の男子が見たら嫉妬間違いなしの美味しいイベントだよ。せっかくだから楽しむといい」
「何言ってんだよ遥ぁ!」
「よいではないか~よいではないかぁ~!」
「それは女子の言うセリフじゃねぇだろとっとと離せェ!」
数分経って、俺はようやく武田を引きはがすことが出来た。焦りのレベルで言うと、瞬間接着剤で指同士がくっついちゃったときの倍くらいだ。
俺は大きな深呼吸をしてどうにか心を落ち着かせる。しかし、体に染みついたあの柔らかい感触だけは、その日の睡眠時間を大幅に削るほどに思春期の男の脳髄の奥底にまでこってりと残り続けていた。
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