閑話 夢と目標と現実と
帰るための電車が上りだからか、この時間はあまり混んでいなかった。俺は端の席を見つけて腰かける。無駄に身長と肩幅が大きいせいで、端以外に座るとどうしても肩身が物理的に狭くなるために端以外は座らないと決めているのだ。
毎日運動自体は続けていたために体は疲れていないが、心が異常に疲弊していた。今日だけで去年よりも多く女子と話した気がする。上手く話せたつもりはないが、俺にしては上々だろう。この調子なら、大学へ進学する頃には男女関係なくコミュニケーションをとれるはずだ。
ふと電車内のモニターに春の甲子園の結果が映っているのが見えた。もう一度全国大会を目指しているという事実を改めて実感する。
俺はまだ、大嫌いな野球部に関わっている。
強引な縦社会の強制、傷を舐めあう横との中途半端な繋がり。武田の作った野球部にはそんなくだらない関係性は見られないが、そういう仲が良いという点を売りにしている部活に結果なんてでない。努力を怠り、負け、それまでの時間を無駄にする。どうせ大人になればほとんどの人間と関わらないのに、この出会いがあったから無駄じゃなかったなんて言い訳をする。万が一、武田たちが全国大会へ行ったとして、俺はまた野球を辞めるから、今この瞬間も無駄なのだろう。
しかし、それを結論付けるのは負けてからだ。今は少しだけ、あの夜の武田を信じてみようと思う。精一杯頑張るなんてことはできないだろうが、今の俺に出来る範囲は手を伸ばそう。
いつの間にか電車が進み、一つ先の川越市駅へと着いた。乗り込んでくるのは、直方体のエナメルバッグを肩から下げる坊主の男子高校生と、ショートカットの女子高生。見る限り、二人とも野球部のようだ。川越北高校か。確か、野球強かったっけ。
府大会で勝ち上がることばかり考えていたために、埼玉は甲子園常連の強豪の名前しかしらない。それでも知っているということは、中堅辺りだろうか。ぼーっとエナメルに刺繍された高校名を眺めていると、そのバッグを背負う高校生と目が合った。
「……え、お前、中村冬也か?」
なぜだか相手は俺を知っていた。テレビで見たというよりは、直接俺を知っているというような顔と言葉。俺の方は記憶にないけど。
「えっと……そうだけど」
「一応、中学の頃にシニアで何回かお前のところと試合したんだけど、覚えてるか?」
なるほど。昔に試合をしたのか。なら覚えてないな。俺、相手の顔あんまり見ないし。
「ごめん。ちょっと分からない」
「そっかそっか。そりゃそうだよな。俺、高橋直久っていうんだ。よろしくな」
「……ども」
俺は座りながら軽く会釈をした。
隣にいる女子が俺を見て「誰?」って顔をしているので、高橋がなにやらコソコソと説明をしていた。すぐに目を見開いて「えっ、こんな人が大阪葛桐のエース」って顔をしている。どうして女子というのは俺の心を折りにくるのか。泣いていいか?
「それにしても、どうして埼玉にいるんだ。高校は?」
「あー……、野球は辞めて、高校は転校した」
「嘘だろ。あんなに凄いのにか? それに転校って、どこに」
「山伏」
「あそこ野球部なかったよな?」
「だから選んだ」
まあ、女子野球部はあったけどな。
「またやるつもりはないのか?」
「プレーするつもりはない」
女子野球部に所属してはいるが、俺はボールに触らなくてもいいと言われているので一切の嘘はついていない。というより、もし少しでも復帰を匂わせようものなら……
「もしやる気があったら、うちに来てくれよ。私立だし、俺が監督に話せばすぐに転校できるぜ。大会の規定があるから今年の夏は無理だけど、秋からなら大会に出られるから」
匂わせずとも、やはりこういうことを言われるのか。
どうせお前たちも俺の嫌いな人種だろう。才能を言い訳にして努力を怠り、自分よりも頑張っているやつを僻み、中途半端な結果をすぐに連絡も取らなくなる程度の浅い友達と慰め合う。
大学に入って野球を辞めて、何事もなかったように社会へ出ていく。実に無駄だ。
「今はもう野球をする気にはなれないから、遠慮するよ。気にしないでくれ」
「そっか。気が向いたらいつでも言ってくれよ。お前がいれば甲子園にだって夢じゃねえからさ!」
「……じゃあ俺、ここで降りるから」
返事はせずに、俺は電車から降りた。振り返ると、高橋はまだどこか期待をした目で俺を見ている。ゆっくりと閉まっていくドアが俺と高橋との世界を分けた瞬間に、俺は呟く。
「甲子園を夢にしている時点で、お前はその程度だよ。本当に目指しているやつは、目標にしてどんな努力をするか決めて毎日死ぬほどやってる。奇跡が見たいなら漫画でも読んどけ」
どんなに困難な目標だとしても、辿ればいつだって現実と地続きだ。それを夢と一括りにした時点で、そいつは地続きだった道を自ら断ち切っているのだ。確かに偶然の要素だって絡むことはあるが、偶然を得られるのはそれまでに偶然を得るだけの努力をした者のみ。
奇跡とか夢とか、そんなことを言っている連中が甲子園になんて行けるわけがない。甲子園に行く連中は、形のあるゴールとして甲子園を見てそこへ向かって一歩ずつ進むのだから。
「ま、だからって爽やかで誠実ってわけじゃないのが、クソなところなんだけどな」
自分が試合に出て活躍するためだけに、出る杭を打ち続ける。みんな自分の努力が無駄にならないように必死なんだ。俺みたいに、野球が消えたら空っぽのやつしかいないから。
「きっと俺が漫画とかの主人公だったら、今ごろ仲間たちと自主練でもしてたのかな」
空を見上げながら呟いた言葉は、まるで波打ち際の砂浜に書いた文字のように、あっさりと居酒屋の喧騒にのまれて消えていった。
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