第二話 女子野球部の愉快な仲間たち その1

 翌日。

 昼休みが始まってすぐに、俺は職員室に足を運んでいた。

 記入欄に『野球部』と書かれた入部届を手渡された金子先生は驚きのあまり飲みかけていたコーヒーをこぼしかけていた。


「汚さないでくださいよ。その三文字を書くのに、二時間近くかかったんですから」

「あ、ああ! 悪い悪い。本当に野球部に入るだなんて思わなかったもんで」

「俺もつい昨日の夕方まで入るつもりはなかったですよ」

「ってことは、夜に何かあったのか?」

「まあ、いろいろと」


 夜に女子と会って話しているうちに説得されて入部することになりましたなんて恥ずかしくて言えるわけないだろう。

 俺が野球を嫌う理由を知っている金子先生は、それ以上は詮索することはなかった。

 妙に距離感が近いと感じるが、超えてはいけないラインをわきまえている辺りは大人だなと感じる。昨日はそのラインを笑顔で超えてくる誰かに説得されてこうなっているわけだし。


「とにもかくにも、これで天才王子の再来だな!」

「次その呼び方をしたらこれ破きますからね」

「おっと、すまん。これは大切なものだからな。大事にしないと」


 金子先生は素早く入部届をクリアファイルの中に入れた。

 天才王子なんて呼び方、どうしてこの人は覚えているのだろうか。

 去年の夏の甲子園で大会でもかなりの注目選手だった俺は、他の選手よりもわずかに顔が整っていたらしく、天才王子なんておかしな名前でテレビに映ることがあった。

 しかし、甲子園では結局二回戦で負けたし、そもそも甲子園に出ているやつで顔が整っている人なんて少ないために、特別イケメンでもないのに王子なんて大層なあだ名をつけられた俺はすぐに話題から消えていった。

 当時は別に気にしていなかったが、野球が嫌いになった後にその単語を聞くと甲子園を思い出して気分が悪くなっているのだ。天才も王子も、俺には似合わない。

 掘り下げるのも嫌だし、話題を変えてみようか。


「そういえば、金子先生が野球部の顧問なんですよね?」

「おう、そうだな。野球をやったことはないけど、テレビで試合はよく見るぞ」

「なるほど。未経験ですか」

「経験の有無でいえば、そうなるな」


 なぜか得意げな顔で金子先生はコーヒーを啜った。

 経験者じゃないってことは、練習に参加しているわけじゃないんだよな。


「ノックとかって打てるんですか?」

「いや、やったことないぞ。練習は全部あいつらに任せてる。俺は顔を出すだけだな」


 ノックができないってことは、シートノックとかは生徒でやってるのか? ベンチ入りが九人だけなら、少し時間がかかってもノックの本数自体は確保できそうだが。


「試合とかってどうしてるんですか? コーチャーとかはどうにかできても、スコアとかを分担とかは大変そうですけど」

「ん? なんだそれ」

「もしかして、試合でスコアとか取ってないんですか?」

「そもそも、まだ試合をしたことがないからな」

「公式戦以前の問題じゃねえか……」


 武田のやつ、試合すらしたことがない野球部で全国優勝するって言いやがったのか。


「これからどうなるか分かりませんが、練習試合はするはずなので、そのときは相手校への連絡やグラウンドの確保はお願いしますね。生徒だけではできないことなので」

「それなら任せておけ。実は俺、初雁球場のおじさんと仲いいんだ。かなり厳しいスケジュールでも使えるようにしてやるよ」

「誰にも迷惑をかけない範囲でよろしくお願いします」


 そういえば、山伏高校のすぐ隣は川越初雁球場だったな。夏の県予選でも使われているところだし、部員たちの力量を見て一度公式戦もやるような球場で動きをみるのもありか。

 俺が軽く頭を下げると、金子先生は微笑して、


「それにしても、想像以上にやる気があるんだな。入るとしても、サボると思ってたよ」

「俺がやるって決めたことなんで」


 今でも当然野球は嫌いだし、部活なんて時間の無駄だと思っている。

 だが、覚悟は昨日のうちに決めてきた。


「夏休みまでの四ヶ月間をドブに捨てる気持ちで入部届それを書いたので」


 やりたいことが決まっていたわけでもない、とりあえず勉強をして将来に繋がるものを見つけようと漠然と考えていただけだ。

 それなら、夏休みまでに見つければいい。そうすれば、夏休みより先の時間は無駄にせずに済む。だから今は無駄な時間を過ごすことを覚悟していくしかない。

 金子先生はコーヒーの入ったマグカップを置いた。


「教師ってのは、生徒がそのとき向かい合っていることに対してサポートしてやるものだ。後悔しない選択を選ばせるなんて無難なことをしているやつは二流だ」

「じゃあ、俺は後悔するかもしれないですね」

「ああ、それでいい。ちゃんと後悔できれば、ちゃんと前を向ける。その後悔は、無駄にはならない。お前が駆け上がる階段のための、力強い土台になってくれる」


 金子先生は、オシャレワカメの髪の隙間から俺を見上げて、


「お前の心のどこかに、まだ諦めたくないって気持ちが残ってるから入部届これがある。だったらちゃんと向き合え。もし野球の道に戻ったならそれでよし。後悔して本当の意味で野球との縁が切れたならそれでもよし。どっちも大切なお前の人生だ。俺は否定しない」


 とん、と軽く俺の体を叩くと、子どもみたいな無邪気な笑顔を浮かべた。


「やれるだけやってこい。燃え尽きたら一緒に飲みにつれてってやるから」

「俺、がっつり未成年ですけど」

「言葉の綾ってやつだよ。教師なら一度は言ってみたいだろ? こういうクサい台詞」

「はあ。それじゃあ、もうすぐ授業始まるので行きますね」


 せっかくいい感じのことを言っていたのに、最後の最後で台無しになった。

 ため息まじりに踵を返した俺だったが、「ああ、それと」という言葉が聞こえて立ち止まる。


「野球部の女子たち、男どもから人気あるから気を付けろよ。ハーレム状態を羨ましく思うやつはたくさんいるだろうからな」

「俺からしたら地獄そのものなんですけどね」

「あははっ。聞いて極楽見て地獄ってやつか!」

「…………、」

「言葉の綾ってやつだってば。冗談ぐらい笑ってくれって」

「もう少し面白い冗談を言ってくれたら笑えると思いますけど」

「甲子園に出ていた中村を思い出す剛速球が来たなぁ」

「……言葉の綾ってやつですよ」


 昨日の夜に冗談が一切分からなかった反省を踏まえて会話をしてみたが、この苦笑いを見る限り失敗したみたいだ。男相手でこれなら、女子相手にはやめた方がいいかな。

 今まで冗談とかをいうような友達がいなかったせいで、女子に免疫がないどころかコミュニケーション能力までなくなっているみたいだ。さすがにそれはないと将来が危ない。

 武田の提案も意外と悪くないのかもしれないな。……部活と野球を除けば。


「勉強になりました。それじゃあ、失礼します」

「お、おう。部活、頑張れよ」


 コーヒーは机の上に置かれているのに、金子先生は苦そうな顔で手を振っていた。



 午後の授業も終わり、耳障りなチャイムの音とともに放課後が訪れる。

 昨日の決意や、昼での金子先生の会話はあれど、これから部活に行くとなると体中から寒気がしてくる。今日は体調が悪いからってことにして明日からにしようかな。

 多分、武田が俺のところに来るだろうが、クラスが違うからまだ数分ほどの時間があるはずだ。その間に全力で帰宅すれば、逃げられるかもしれない。

 本当にグラウンドに行きたくない。ボール怖い。女子も怖い。

 よし、逃げよう。

 そう思って、立ち上がった瞬間だった。


「おや。嫌がっていた割には随分と元気よく立ち上がるんだね。それほどまでに部活が楽しみだったのかい? それなら私も嬉しいよ」


 行く手を阻むように俺の前にやってきたのは、すらっとした高身長の女子。

 癖のない真っ直ぐな黒髪は短く前下がりに整えられており、頬にかかる髪の隙間から見える口元のホクロがやけに色っぽく見える。

 俺と同じクラスで、声をかけてもらうのは三回目のはず(ちょっとした挨拶を一回と数えていいのなら)だ。名前は確か、遥だったか。

 武田と違って、ザ・美人という雰囲気がこれでもかと彼女を覆っており、否が応でも緊張してしまう。


「え、えっと……」


 咄嗟に言い訳が紡げず、言葉が詰まる。

 戸惑う俺を見て、遥は上品に口元を手で隠してクスっと笑う。一つ一つの動きが綺麗で、思わず見惚れてしまう。


「やっぱり、女子のことは苦手のようだね。すまない。では、一歩ずつ歩み寄ることとしよう」


 遥は右手を差し出して、


「女子野球部副部長、青木遥だ。改めてよろしくお願いするよ、冬也」

「お、おう……」


 ゆっくりと握手をする。手汗がものすごいことになっていそうな気がする。

 俺はすぐに手を離して一歩後ろへ下がる。酷い動きだ。

 だがまあ、苗字を聞けたのは僥倖か。青木さんね。いきなり名前で呼ぶのはハードルが高かったから助かる。

 体中に力が入っている俺とは反対に、青木さんには一切狼狽えている様子はなかった。


「緊張する必要はないよ。私たちはもう仲間だ。遠慮することはない」

「あ、ああ」


 そうは言われても、緊張するものは緊張するのだ。武田と違って、慣れるまでに時間がかかりそうな気がする。

 それに、他にも気になることがある。

 周りがこちらも見ながら何かを話しているのだ。確かに得体の知れない転校生とこんなきれいな子が話していたら気になるだろうけど、そこまで騒ぐものか?

 俺の落ち着かない視線に気づいたのか、青木さんは穏やかな口調で、


「別に何かをしたわけではないのだけれど、皆から慕ってもらっていてね。冬也とは交流がなかったから、みんな驚いているんだろう。数日もすれば落ち着くから安心してくれ」

「わ、わかった。あと、その……」

「どうしたんだい?」

「あの、名前……」


 つい昨日までは中村くんと呼んでいたはずだ。それが急に下の名前で呼び捨てとなれば女子免疫ゼロの俺からしたら大事件なわけで。

 青木さんは「そんなことかい?」と笑って、


「千夏だって君のことを下の名前で呼んでいるだろう?」

「いや、それはそうだけど、武田だし」

「あははっ。確かに千夏の性格だと距離がある方が違和感があるからね。納得だ」


 クシャっと笑う青木さんに、思わずドキドキしてしまう。

 こういう他の女子にはない大人っぽさには特に耐性がないみたいだ。


「でも、千夏が呼んでいるのに私がダメな道理はないだろう?」

「まあ、そう……だな」

「それに、これからは日本一を目指すのだろう? 部員数の少ない私たちが勝つには、チームワークは必要不可欠だ。仲はいいに越したことはない」


 当然だが、俺を説得するために武田は既に部員全員に全国優勝を目指すということは伝えている。驚きなのは、みんながそれを快諾したというところだ。

 本気で日本一を目指すということは、それだけ辛い練習をするということ。お遊びで集まっている部活だと思っていただけに、それを普通に受けとめるのは驚きだった。


「本気で目指すのか、日本一」

「少なくとも、私は本気だよ」


 笑いながらも、その言葉は真剣だった。


「最初は驚いたが、なかなかに面白そうだしね。元々、全力で野球に取り組むつもりでこの部活に入った。明確な目標を改めて設定してもらって、むしろありがたく思っているよ」

「簡単なことじゃないぞ、日本一って」


 実際に甲子園に言った俺だからこそ、言えることだった。

 どれだけ上手いかだけじゃない。高校野球で一番になるということは、一度として負けないということだ。多く勝つことは出来ても、一度も負けないとなると実力だけじゃどうにもならない。人並外れた運と、それを手繰り寄せるだけの努力が不可欠だ。

 しかし、青木さんは得意げな顔をして、


「私は人と話すとき以外は前と上しか見ない主義なんだ」


 青木さんの身長は見た限りだとおおよそ一七五センチくらいだ。高校の女子の中では文字通り頭一つ抜けているので、友達と話すときは常に目線が下なのだろう。

 青木さんは「まあ私より背の高い君に言っても説得力がないけどね」と笑っていた。

 とにかく、日本一という言葉に嘘をつくつもりはないらしい。まあ、俺の指導で日本一を目指そうとしているわけなのだが。

 今まで自分がプレーする側だったので、教えることに関してはまったく自信がない。というより、ボールにも触れないやつが野球を教えるという時点でおかしいのだ。


「あ、あのさ。青木……さん」


 これだけ話しておいて、名前を呼んだのは初めてな気がする。自分から話を振るだけでもこれって、本当に重症だな、俺。


「ポジションとかって……」

「そういえば、言ってなかったね。これだよ」


 青木さんは、近くに置いているバッグからグラブ袋を取り出した。

 一般的なものと比べて倍ほどの指の長さがある、薄いオレンジ色のグローブ。


「外野なのか」

「ああ。基本はどこでもできるが、希望はセンターだね」

「多分、経験者だよな?」

「一〇歳の頃から初めたんだ。よくわかったね」

「かなり手入れされているグラブだったから」


 一目見れば、どのようにグラブが扱われているかはある程度分かる。落ち着いた色の落ち方や、グラブの形からしても、長い間野球をやっている人のものだ。それも、真剣に。


「このグローブは私の好きな選手のモデルでね。お気に入りなんだ」


 メーカーの刺繍を撫でながら、青木さんは「ああ、それと」と続ける。


「私のことは遥でいいよ。君のことも冬也と呼んでいるしね」

「え、いや、それは……」


 俺がそんなに急に距離を詰められるわけはないだろう。

 青木さんって呼ぶだけでも大変だったんだぞ。


「女子への免疫がないのなら、まずは名前で呼ぶ練習だ。ほら、言ってごらん」

「……はる、か、さん」

「呼び捨てで」


 絶対楽しんでるだろこいつ! 本当に女子怖い!

 だが、立ち位置的に逃げるためには青木さんを押しのけなければいけない。女子の肩を掴んでどかすなんて俺に出来るわけがない。つまり、逃げ場がない。


「……遥」


 実に短い青木さん呼びだった。

 遥は艶麗に口角を緩めて、


「よくできました。ご褒美に今度デートでもするかい?」

「は、はあ!?」

「女子が苦手といっても、経験がないだけなのだろう? 冬也と話すのは楽しいから、私を君の経験値の一部にしてもらっても構わないのだけれど」

「い、言い方がおかしいって」

「ははっ。確かに少し良くない表現かもしれないね」


 笑いごとじゃないっての。変な噂が立ったら不登校確定だからな。

 おそらく冗談なのだろうが、冗談を冗談として消化できるような人間じゃないことが昨日と今日で自覚した。気にするなと言われても気にしてしまう。


「まあ、デートの件は誘ってくれればいつでもどこでも行ってあげよう。もちろん、友達として行ける範囲の場所だけどね」

「あ、当たり前だっての!」


 俺が声を上げると、遥はおもむろに振り返った。

 おそらく視線は、教室のドア。


「どうやら、来たみたいだね」


 釣られて俺もドアを見ると、廊下を走る音が聞こえてきた。

 それだけで、なんとなく誰が来たのかが分かってしまう。

 大きな音を立ててドアの開けたのは当然、武田だった。


「お待たせしましたァ! 遥、足止めは!?」

「完璧だよ。ほら、今も楽しく会話をしていたところだ」

「あ、足止め……!?」

「安心してくれ。冬也と話していた時間はとても楽しかったよ。デートの件も本当だ」

「で、デートォ!? 二人とも、こんな時間でそんな親密な関係に……!?」

「ば……ッ! 武田、声デカいって!」


 教室にいたクラスメイト達が一気に騒がしくなっていた。

 本当に不登校になるぞ俺、マジで。


「あれ、ちょっとヤバい感じ? なんかごめんね!」


 悪びれる様子もなく、武田はそれだけ言ってこちらへ向かって歩きながら、


「さあさあ! 冬也くんを部活に連れていくよ! 遥、捕まえて!」

「すまない。私は男子にリードしてもらいたい側なんだ。手を引くのは、千夏の仕事だね」

「そういうことならお任せあれ!」


 俺の手を掴んだ武田は、抵抗する時間すら与えず走り出す。


「ってことで行くぞ冬也くん! 楽しい楽しい部活の時間だぜ!」

「ちょっ、荷物とか机に置いたまんま……」

「荷物なら私が持っていくから安心してくれ。ほら、女子が男子の荷物を持って部活に行くというのもなかなか青春だろ?」

「そんな青春聞いたことねえよ!」


 周りの奇怪なものを見る視線に耐え続けて、廊下や階段を進んでいく。

 昨日に引き続き、今日も俺は武田に引っ張られてグラウンドへと連れていかれた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る