第一話 その白球は届かない その3

 今日は最悪の日だった。ボールを投げることになった(実際は投げることすら出来ていないが)上に、女子たちに対してあんなことを言ってしまった。

 明日からどんな顔して学校に行けばいいんだ。遥って子、同じクラスだったし。


「はあ、最悪だ」


 日課である夜のランニングをしている俺は、聴いている音楽のボリュームを上げた。部活を辞めてから、流行りの音楽は聴くようにしている。普通の生活をしていく中で、流行というものはかなり重要な要素になってくるからだ。

 音楽のテンポに合わせて呼吸をしながら、一定のリズムで走り続ける。

 部活はもう辞めたくせに、朝と夜の日課の運動だけは辞めることが出来なかった。

 体に染みついた習慣のせいで、走らないと寝付きが悪い。だからこうして、寝られるように意味もなく走り続ける。


 快眠と健康維持のためだから、無駄というわけではないが。

 それにしても、どの部活に入ろうか。

 あれだけのことをしてしまったから、女子野球部とは出来るだけ距離のある部活を探すことにしよう。活動場所がどこかの教室の文化部とかなら、万が一にも出くわすことはないだろう。

 それでいて幽霊部員でも構わない部活。

 せっかく部活に詳しそうな武田が案内をしてくれるというのに、ああ言って断ってしまった手前、今更気まずくて何も訊けないし、一人で選ぶしかなさそうだ。


「――――!」


 走っていると普段の数倍も思考が巡っている感覚になるせいで、余計なことを多く考えてしまう。気を紛らわせようにも、これ以上音楽のボリュームを上げたら耳が壊れる。

「――――!」

 いっそのこと、イヤホンを外してしまうのはどうだろう。俺が走っているのは国道254号沿いの歩行者専用道路だ。夜でも多くの車が通っているため、気を散らすには車の騒音を意識的に耳に入れるのもいいかもしれない。

 俺は走りながら右耳のイヤホンを外して――


「待ってってば、冬也くんっ!」

「うおおおッ!?」


 イヤホンをしていたせいで聞こえていなかった声が突然耳に突き刺さり、思わずその場で飛び上がって急停止した。

 バランスを崩しそうになりながらもどうにか立ち止まると、後方で膝に手をつきながら肩で息をしている誰かがいた。

 街灯が少ないためによく見えないが、声からして女子だし、高めに結ばれたポニーテールには見覚えがあった。


「武田か……?」

「はあ……はあ……、そうだよ。山伏高校二年A組、野球部部長の武田千夏だぜ……がく」


 俺の走っているペースに必死についてきていたからか、武田はその場に崩れるように座り込んだ。見た限り、スポーツウエアを着ているようだから、武田も運動をしていたのだろうか。

 それにしても、女子で今のペースについてくるの、普通に凄いな。身体能力だけなら、俺が見た中でもトップクラスの女子だと思う。強豪校にも多くはいないはずだ。

 俺はぐったりと夜空を見上げて息を整える武田に、携帯していた水筒を渡す。


「えっと……これ、口付けなくても、押せば飲めるやつだから」

「あ、ありがとう~。干からびてコンクリートに溶けちゃうかと思ったよ~」

「乾くか溶けるのかは、はっきりしたほうがいいと思うけど」

「あははっ、確かに!」


 笑いながら、水を飲んだ武田ははっと何かを思い出したように慌てて立ち上がった。

 お尻を手ではらって俺に水筒を返すと、武田は深く頭を下げた。


「今日は本当にごめんなさい! 私、冬也くんに本当に酷いことをしたから……!」


 分かってはいたが、本当に謝るためについてきたんだな。

 どこまでもお人好しな性格をしているらしい。


「別に、いいよ。拒絶したのは、俺だから」

「でも、私が余計なことをしたから、冬也くんに辛い思いをさせて……」

「あれぐらいなら、寝れば忘れる」


 去年の秋や冬に比べれば今日の出来事は最悪の中でもまだマシなほうだ。

 だがまあ、さすがにノーダメージって訳にもいかないが。


「それでも、私が謝らないと気が済まないの。本当に、ごめんなさい」


 暗くてあまり見えないが、薄らと目に涙を溜めているように見えた。

 やっぱり、武田はいいやつだ。今日会ったばかりの俺のことをこんなにも考えて、傷付けたかもしれないと気にしてここまで謝ってくれる。


「もう、大丈夫だから」


 これ以上謝られても俺が困る。どうにか話を変えよう。


「それにしても、どうして俺の後を走ってたんだ?」

「えっとね、さっきまで近くの公園で素振りしてたの。私の家、すぐ近くだから」


 ということは、俺の家もこの近くだから近所に住んでいたのか。中学では見たことないから、きっと隣の中学だったんだろう。


「素振りしてたらね、見覚えのある大きな男の子が走ってたから、思わず追いかけちゃったんだ。まさか、あんなスピードで走っているとは思わなかったけど……」

「まあ、女子にはキツいだろうな……」


 武田の息が整ったので、俺たちは並んで歩き始めた。

 女子と夜に二人で歩くというのは緊張するが、暗くて顔がよく見えないのが幸いして、あまり詰まらずにしゃべることができた。


「冬也くんはどうして走ってたの? もしかして、次は陸上とか?」

「いや、普通に日課で毎日一〇キロ走ってて、走らないと寝付きが悪いから続けてるだけ」

「じゅ、一〇キロ……! ハードな日課だね……!」

「野球部だった時は毎日二〇キロだったから、減らしてる方なんだけどな」

「ひいっ……」


 強豪校でエースを務めているやつならそれくらいは普通にやっているんだろうけど、そんなの誰も他人に言わないからな。外からはやたら頑張っているように見えるのだろう。

 武田の受け答えが上手だからか、そのあとも雑談をすることができた。女子と話すのが苦手な俺でも、かなり話しやすい。こういうところが、モテる理由なんだろう。

 数分もしないうちに、武田が素振りをしていた公園についた。

 擦り切れたバッティンググローブと、表面に小さな傷が無数にある金属バッドが地面に転がっていた。少し見ただけで、普段からバットを振っているのが分かる。


「あ、あのさ、冬也くん」


 バットを拾った武田は、少しためらいながら、

「もしよかったらさ、私のスイング、見てもらってもいい……?」

「え」


 武田は顔の前で両手をぶんぶんと振って、


「あ、いや! 嫌だったらいいんだよ! もうバットも見るだけで体がかゆくなるとかだったら、もう帰ってもらって大丈夫だから!」

「いや、別にアレルギーってわけじゃないんだけど……」


 俺の甲子園でのプレーにも詳しかったし、きっと俺のバッティングも見てくれていたのだろう。スマホで見ていた人が目の前にいたら、アドバイスを貰いたくなる気持ちは理解できる。

 ボールに触らない限りは、トラウマが蘇ることはあまりない。武田との関係も修復できそうだし、素振り程度なら今日だけ特別に見てやるか。別に誰かと喧嘩したいわけじゃないし。


「これが最初で最後でもいいなら」

「ほんと!? やったやった!」


 ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、武田はすぐにバッティンググローブをはめた。

 グリップをギュッと握りしめ、バットを構える。

 右投げ左打ち。俺と一緒か。


「――ふう」


 小さく息を吐いて、武田は肩の力を抜く。

 まだ少し身体が硬い。脱力しきれてはいないが、俺に見てもらうからと緊張しているのだろうか。あれだけのことがあったから当然か。

 ゆらゆらとバットの先が揺れ、武田の視線が俺ではない仮想投手へと向く。

 素振りをするときでも、実際に球を打つイメージを持って振ることは重要だ。

 武田の頭の中にいる投手に合わせて、右足が上がる。

 そして、ブン! と空気を裂く音が公園に響いた。

 ……おや?


「ど、どうかな……?」

 確かこいつ、野球部の部長だったよな?

「も、もう一回振ってもらっていいか?」

「う、うん!」


 多分見間違いだろう。野球から離れすぎて、すぐにスイングの良し悪しを判断する能力がなくなっただけに違いない。

 俺は暗かったからと言い訳をしないように、しっかりと目を凝らして武田のスイングを見る。

 ブン!


「…………まじ?」

「え。え? どうしたの、冬也くん」


 構えるところまではまだいい。俺の構え方にも近いし、悪いようには見えない。

 問題は、その先だった。


「すまん。もう一回だけ振ってくれ」

「ら、らじゃー!」


 ブン!

 ……なるほどな。どうやら、俺の目が狂っていたわけではないようだ。


「お前、実は野球ヘタクソだろ」

「ふぇ!? 私、下手かな……?」

「基本的に、全部ダメ。右足をつく前からバットが動き出してるし、そのせいで体は開くし右肩は上がってるし、ヘッドは泳いでるし、体重移動もできてないし、回転も使えてないから手打ちになってるし、フォローも小さい。いい場所を探せと言われる方が難しい」

「火の玉ストレートでダメ出しきたぁ!?」


 武田は涙目になっていた。

 ちょっと言いすぎたかもしれないな。いや、でもここで嘘をついても意味ないからな……。

 だが、良いと言える部分も確かにあった。

 スイングスピードは人一倍速かった。男子にも引けを取らないレベルだった。

 ということは、俺の勘が正しければ。


「……もしかして、お前。最近野球始めたのか?」

「え!? なんで分かったの!?」

「スイングスピードがやたら速かったんだよ。足も速いみたいだし、身体能力が高いのは明らかだ。スイングスピードは筋力さえあればある程度は速くなるからな」

「えへへ、それほどでも……」

「褒めてない。やたら身体能力だけ高い初心者にありがちなんだよ。力だけでヒットを打って自分のフォームが正しいと思い込んでるってのは」

「またまた火の玉ストレートっ!?」


 ぎゅむっと目と口を引き締め、武田は持っていたバットを抱きしめた。

 暗闇でも分かるくらい可愛い動きをされるとさすがに緊張してくるのでやめてほしい。

 俺は目線をバットに移して一気に心を盛り下げる。


「それで、いつから野球を始めたんだ」

「半年前!」

「なんでお前が野球部の部長なのか余計に分からなくなってきた」

「ふっふっふ。気になるかい? 気になるのかい、その理由が!」

「…………、」

「急に黙られると困っちゃうぜ!?」


 このノリでグイグイ来られている俺の方が困ってると思うんだが。

 またぎゅむっとしている武田は、こほんとわざとらしく咳払いをして、


「実は、そもそも山伏には野球部自体なかったんだよね。なんだか昔にいろいろあったらしくて。だから、作っちゃったんだぜい!」


 渾身のダブルピース。

 まあ、野球部がないから作ろうと行動に移せるのは素直に凄いと思う。


「部員が少なかったのも、新設した部活だからか」

「うん! 全員、私が誘って野球部に入ってもらったの!」


 野球部を作りたいって思って八人集めるのって大変なことだと思うんだが、それも武田のコミュ力とかの賜物なんだろうな。


「……ってか、あーそっか」

「ん? どうしたの?」

「女子野球部って、半年前に出来たんだよな?」

「ちゃんと部として認められたのは一〇月だったかなぁ」

「俺、野球部がないかを学校のパンフレットで確認したんだよ。さすがに二学期から新設された部活は入ってなかったんだろうな」

「もしかして冬也くん、野球部がないから山伏に転校してきたの?」

「決め手はそこだな。野球部がない学校って意外と少ないし」


 探してみて痛感したが、野球部がない高校というものは埼玉には意外と少ない。普通科があり、県立で、ある程度偏差値が高く、家からも近い高校を探したとき、山伏高校ぐらいしかなかったのだ。

 野球部がない高校を見つけて即決してしまったが、転校早々こんな事態になってしまったということは、俺の高校選びが悪かったのかもしれない。

 はあ。思わずため息がこぼれる。


「あ、あのさ、冬也くん」


 俺の表情を伺いながら、武田は上目遣いでこちらを見上げる。


「やっぱりもう、野球も部活も、やらないんだよね?」

「ああ。二度とやらない」


 きっぱりと俺は言い切った。

 武田が寂しそうな表情で俺を見る。

 辞めるなんて勿体ない、なんて聞き飽きるほど言われてきた。


「嫌いなんだ。野球も部活も」

「……そっか」


 武田はバットのグリップを強く握りしめた。

 どれだけ悲しそうにされたところで、俺は野球をやるつもりはない。

 俺が野球を辞めた理由も、部活が嫌いになった理由も、武田はもう知っている。

 今まで野球を辞めるなと言っていた人たちも俺の話を聞いたら何も言えなくなっていた。

 だから、今まで通り、武田も諦める。


「でも……」


 そう、思っていた。


「それでも私は、冬也くんに野球部に入ってほしい」


 その目は本気だった。野球にも部活も絶望した俺に対して、全てを知ってもなお、武田は諦めようとはしなかった。


「私ね、部活も野球も、大好きなの」

「俺は大嫌いだ」

「ずっと、大嫌いだったの? 大嫌いなまま、野球を続けてたの?」

「それは……」


 その質問に関しては、即答できなかった。

 今の俺が、野球が嫌いなことは間違いない。しかし、野球を始めた、物心ついて間もない昔はどうだっただろうか。初めてバットを握った日は。初めてマウンドで投げた日は。初めて変化球を投げた日は。初めてホームランを打った日は。

 その全てを、俺は嫌いだったのだろうか。


「きっと冬也くんは、野球が大好きなんだよ」

「あんな俺を見て、そう思うのか」

「うん。だって、あれだけ辛い思いをするってことは、それだけ努力をした証拠だから」


 まっすぐな言葉が、俺の心の奥に響いている感覚があった。


「私が冬也くんみたいな思いをしても、きっとこんなに辛くない。多分、半年もしたら平気になっちゃうと思う」


 それに比べて、半年経っても俺は誰にもボールを投げられなかった。

 でも、だからこそなんだと、武田は真剣な瞳を向ける。


「心の底から大好きだったから、心の底から嫌いになった」

「自分じゃあ、分からない」

「私よりも好きだったはずだよ。好きじゃなきゃ、こんなに頑張れないよ」


 武田は突然、俺の手を握ってきた。

 ちょっと待て。部活に連れていかれたときもそうだったけど、気軽に男と手を繋ぎすぎじゃないか? 俺の感覚が間違っているのか? 手を繋ぐって、恋人になるかならないかの男女が駆け引きをしながら少しずつ指を絡めるものだと思っていたのに。

 しかし、武田の表情に俺を異性として意識している様子はなかった。


「冬也くんの手を握っただけで分かった。ああ、この人はとっても努力をした人なんだなって。だから放課後はあんなに舞い上がっちゃったの」


 俺の手のひらは、マメやタコで分厚く、固くなっていた。野球を辞めて半年経った今でも残る野球の名残。俺は自分の手のひらを見るのも嫌だったのに。


「嬉しかった。私の憧れた人も、こんなになるまで努力できるほど、野球が好きなんだって」

「あ、憧れ……?」

「ご、ごほんごほん! な、なんでもないんだぜ、冬也くん!」


 手を握っても顔色一つ変えなかった武田は、急に顔を赤くして、わざとらしい咳をした。

 武田は、「とにかく!」と強引に話を変えて、


「私は冬也くんが野球を嫌いなままでいてほしくないってことだよ!」

「だから、野球部に入れと?」

「その通りだぜ!」


 武田は親指を立てた。


「でも、野球をやってほしいとは言わないよ。あんな辛い思いは、もうさせたくない」

「じゃあ、何を」

「ずばり、私たち女子野球部のコーチをしてほしいってことだぜ!」


 なるほど、そうきたか。

 だが、俺はもう野球に関わりたくないんだ。誰かに教えることだって、したくない。


「ボールに触るだけでも気分が悪くなるんだ。そもそもできない」

「そこは考えてあるよ!」


 武田はスマホを取り出した。なにやらメモを漁っているようだが……。


「まず一つ、ボールには触らなくて大丈夫! 見て、アドバイスをくれればいいから、ノックとかもやらなくて結構です!」


 そして二つ目、と武田は二本指を立てた。


「冬也くんからは何もしなくてよし! 私たちから聞いたことに答えるだけでいいです!」


 もうそれ、野球部に入る意味なくないか?

 まあ、ここまで来たら最後まで話は聞くか。


「それで、どうやって俺の野球嫌いをどうにかするつもりだ?」

「私たちが楽しんで野球をやっているところを見てもらいたいの!」

「……はあ?」


「冬也くんは野球の楽しみ方が分からなくなってるだけだと思うの。だから、私たちが全力で野球部を楽しんでいるところを見て、思い出してほしい」

「野球が楽しいってことを、か?」

「その通り!」


 武田は自信満々にビシッと俺に指差した。

 こいつ、何かある度に決めポーズをする癖でもあるのか?

 ただ、どれだけ言われたところで俺の意見は変わらない。


「遠慮しておく。部活なんて時間の無駄だ」


 お遊びのような九人だけの野球部。それにかける時間なんて無駄でしかない。


「プロになりもしないのに学生生活の大半を野球に捧げるなんて無駄でしかない。それだけ仲良くできるなら、普通に遊べばいいじゃないか」


 俺は友達と遊ぶ時間をなくして効率重視で勉強だけしろと言っているわけはない。別に、わざわざ金や時間を使ってまでスポーツを通じて人との繋がりを深めようなんていうのが無駄だというのだ。

 野球部に所属している学生のほとんどは大人になって野球を辞め、そんな日々などなかったように毎日を生きている。なら、それに費やした金や時間は無駄だ。

 それなら、最初からスポーツなんてせずにどこかのアミューズメント施設にでも行ってバッティングセンターで遊べばいいだけだ。部活なんて、無駄なだけ。

 しかし。


「人生に無駄なことなんてないんだぜ、冬也くん!」


 これでもかと胸を張って、武田は笑っていた。

 今ここで素振りをしていたことも、野球部を作ったことも、こうして俺を誘っていることも、全てに意味があると、後悔など一切ないと、主張するように。


「確かに、今の冬也くんにとって野球に捧げてきた時間は無駄に感じるかもしれない。だがしかし、それは無駄に感じているだけで実際に無駄になったわけじゃないんだぜ!」


 再び決めポーズ。今度はドヤ顔付きだった。


「でも、無駄になった。俺はもう野球はできないし、仲間なんて一人もいなかった」

「だったらこれから、君の努力を私たちが肯定してあげればいいだけさ!」

「何を……」

「私たち山伏高校野球部が、君の指導で全国優勝をするってこと!」

「…………、」


 人間というものは、本当に呆気に取られると声すら出ないらしい。

 自分が何を言っているのか分かっているのか、こいつは。


「冬也くんの今までやってきた努力によって培われた野球の技術で私たちが全国で優勝してその名を轟かせ、どんな形であれ冬也くんは野球界に再び舞い戻る! これなら無駄じゃない!」


 暴論も暴論。論理性もなにもない強引な言葉。

 なのに、武田の言葉はそれが真実だと勘違いするほどに俺の心に染み込んでくる。


「以上が、先ほどまで女子野球部で行われていた『中村冬也コーチをどうすれば我が部にスカウトすることができるか作戦会議』の結果だぜい!」


 そう言って武田はスマートフォンの画面に映ったトーク画面を見せてきた。

 グループ名は『きらめけ! 山高野球部!』。多分、武田が作ったんだろうな。


「でも、俺は……」


 俺のことをここまで考えてくれていることは素直に嬉しい。

 だが、それでも野球部だけは嫌だ。本気でスポーツに取り組むという無駄さえなければ、武田達と仲良くだってしたいのに。

 さらに、部活に対する嫌悪以上に俺の心を蝕むのが、野球だ。

 恐怖がまだ残っているのだ。俺の心の深くにあるトラウマが、野球を強く拒絶する。

 しかし、武田は未だに得意げな顔のまま、


「部活には入りたくない、だよね。ここまでは想定済みだぜ! だからそれに関しては、ちゃんと冬也くんへのメリットをご用意させていただきました!」


 武田はトーク画面を遡りながら、


「冬也くん、女の子と話すの、苦手なんだって?」

「な、なに……?」

「遥から聞いちゃったんだよね。前に話したとき、女の子に慣れていないって可愛い顔をしてたよって」


 見せてきたのは、遥がグループトークの中で俺の女子への免疫のなさを伝えている画面。

 おいおい。どうしてよりにもよってグループでその話をしているんだ。

 死ぬほど恥ずかしいじゃん。女子、怖い。

 だが、ここで狼狽えてはこれからも女子の免疫のなさをいじられる。強気で行こう。


「だから、どうしたって言うんだ」

「女子野球部に入ってくれれば、冬也くんは必然的に私たちとたくさん話すことになるよね」

「まあ、そうだな」

「女子と話すことが当たり前になれば、女子と話すことに慣れること間違いなしだぜ!」

「当たり前に女子と話すことがそもそもできないんだが」

「でも私とは話がこうして喋ってるでしょ? それは間違いなく、野球という繋がりというがあるからだと思うの」


 振り返ってみれば、俺が武田に思っていることと素直に言えたのは、良くも悪くも野球に関する話題であることのときだ。

 武田は四本の指を立てて、


「四ヶ月。夏の大会で負けたらそのまま夏休みに入るから、そこで山伏高校の強制入部の期間は終了。日本一になれなかったらそのまま辞めてもらっていいよ。でも、もし楽しいと思ったら、もちろん最後まで一緒に野球部として楽しもうよ!」

「四ヶ月、か」


 俺が夏の甲子園で野球がトラウマになってから、冬に部活を辞めるまでの期間が約四ヶ月。

 必死に努力したその全てを、俺は無駄だと思っている。

 思い出すだけでも苦しくなるほど辛く長い四ヶ月だった。また、俺は無駄にするのか。

 武田は一歩、俺との距離を近づけて、


「冬也くんが部活を怖がっていることはちゃんと知ってる。私なんかが分かるような気持ちじゃないことも、ちゃんと理解できる。だから、私は無責任に冬也くんを野球部に入れるつもりはないよ」


 だから、と武田はさらに俺との距離を詰める。


「四ヶ月後、夏休みになっても冬也くんが野球も部活も嫌いだったら……」


 武田は、不敵な笑みを浮かべて、背伸びをして触れそうなぐらい俺に顔を近づけて、


「私が責任を取ってあげる」

「は、はあ!?」


 俺には似合わない裏返った声が思わず飛び出した。

 ニヤニヤと笑う武田。


「そ、それってどういう……」


 責任を取るって、つまりはそういうことなのか!?

 異性に対して責任を取るって言ったら、経験値のない俺からしたら意味は一つだぞ!?

 武田の顔が近いせいで緊張して、思考が乱れる。

 揺れるポニーテールから流れてくるシャンプーと、服に染み込んだ汗と洗剤の混じった匂い。

 野球部だった頃には経験したことのない、鼻腔をくすぐられるような匂い。

 目の前の武田を女の子だと嫌でも意識してしまう。

 耳が熱い。確認できないだろうけど、多分顔も真っ赤だ。


「ふっふっふ。さ~て、どういう意味でしょうか」


 俺の反応を楽しむようにゆらゆらと動く武田は、その場でくるりと回る。


「ま、まさか。俺と付き合う……とか?」

「そそそ、それはさすがに飛躍しすぎじゃないかな!?」


 だよな。出会った初日に付き合ってもいいだなんて言えるような人間なんていないよな。一目惚れしているわけでもあるまいし。

 俺と武田の間に沈黙が流れる。付き合うとかいう単語を出してしまったせいで、武田もパタパタと手で顔を扇いでいた。

 しかし、これ以上の沈黙が流れると次を切り出すタイミングがないと思ったのだろう。

 武田はパンと手を叩いて、静寂を霧散させた。


「と、いうわけで、私から伝えたいことは終わり!」


 小さく息を吐いて赤くなった顔色を戻すと、武田は再び笑顔になる。

 夜空の下にいるはずなのに、まるで太陽が目の前にある気分だった。

 全てを諦め、今までの努力を否定した俺に対して。どれだけの拒絶と嫌悪を伝えても、武田は諦めなかった。


「過去の努力が無駄かどうかは、今この瞬間が無駄かどうかは、これからの自分が決めればいいこと! もう一度言うよ。人生に無駄な瞬間なんてない!」


 これ以上ないほどに。

 武田は俺が否定してきた全てを、俺自身を含めて力強く肯定する。



「さあ、人生で一番の、最高に楽しくて有意義な時間を一緒に過ごそうぜ、冬也くん!」



 そう言って、武田はバッティンググローブを外して右手を差し出した。

 半年しか野球をしていないくせに、すでに何ヶ所もマメを潰して治してを繰り返したことでガチガチに固まった手のひら。

 俺のトラウマを知ってもなお、あえて俺の心の深くまで土足で踏み込んでくる遠慮のなさ。浮ついた言葉と態度。それだけなら、今までの言葉なんて信じることはできないだろう。

 でも、武田の努力は本物だ。

 彼女の言動全てが、彼女の言葉を肯定している。ただ理想論を語っているわけじゃない。

 一度口にしたら、本当にそれをやりきるだけの意思と力が武田にはある。少なくとも、俺はそう感じさせられた。


 ということは。

 後悔はさせないと、無駄にはさせないとまっすぐに俺を見つめるこの目も、本物。

 一度野球で絶望の底に沈んだ俺を、野球で引き揚げようとしている。

 この手を取った先に、俺の努力が肯定される日が来るなんて確証はない。しかし、予感があった。自分ではどうしても克服できなかったトラウマが、武田によって綺麗に消え去っていく、そんな予感が。

 無駄な時間なんてない、か。


「これが、最後だ」


 一度、俺は心から諦めた。

 多分これが最後の機会だ。俺が部活に関わる最後の機会。そして、俺がこのトラウマを塗り替えられる最後の機会。

 一度諦めたことに対して、正面から向き合うことのできる、最後の機会。

 どうせ消えないトラウマだ。また諦めて、何ヶ月もの時間を無駄にする。

 でも、こいつがいれば。

 これから先の四ヶ月間だけでも、意味のあるものにしてくれるかもしれない。

 たとえ意味がなかったとしても、心の底から諦めることができるはずだから。

 まるで、死に場所を探すかのように俺は手を伸ばして。


「短い間だけだが、よろしくな」


 差し出された手を、握った。

 武田は強く、俺の手を握り返す。


「楽しくて辞められないだろうから私は卒業までよろしくって言っておくね!」


 期待と、喜びと、興奮と。

 多くの感情が混じりながらも、負の感情だけは一切混じらない、純度一〇〇%のプラスの笑みを浮かべて、武田は口を開く。


「ようこそ、これから君が日本一へ導く、山伏高校女子野球部へ! 後悔なんて、死んでもさせてあげないぜ!」


 こうして俺は。

 山伏高校女子野球部のコーチ兼男子マネージャーになった。

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