第一話 その白球は届かない その2

 予想した通りだった。武田に連れられてきたのは、女子野球部が練習をしている場所。

 白い練習着に着替えた女子たちが、準備運動を始めようとしているところだった。


「お~い、みんな! ストップ、ストップ~!」


 制服姿のままグラウンドの中へと入っていく武田は、大きな声で部員たちの注目を集める。

 女子野球部に部長が男を引っ張ってきたのだ。部員たちは何事かと俺たちの元へと集まってくる。部員の人数は、武田を含めて九人。ギリギリ試合ができる人数だった。


「ち、千夏先輩! どうしたっすか、男なんて連れて!」


 いち早くこちらへ走ってきたのは、部員の中でも一番背が小さい女の子だった。敬語を使っているし、一年生だろうか。


「ふっふっふ。驚くがいいよ、友奈ゆうな。今日はハイパー凄い人を連れてきたのだ!」

「え!? ……もしかして、彼氏、っすか……?」

「は、はぁ!?」


 思わず俺が声を上げてしまった。

 どこの世界にこんな大っぴらに部員に交際報告をするやつがいるってんだ。

 予想外の返答だったのは武田も同じらしく、少し頬を赤らめながら首を横に振る。


「ち、違う違う! そうじゃなくて、野球がハイパー凄い人だよ!」

「野球がハイパー凄いっすか? でも、男子野球部がないうちにそんな人がいるなんて思えないっすけど……」


 訝しげに、友奈と呼ばれた一年生は俺の顔を覗き込む。

 と、横から聞き覚えのある声が聞こえた。


「彼はつい最近転校してばかりだからだよ」


 昨日ぶつかり、今朝も挨拶をしてくれた女子がそこにいた。

 よりにもよって野球部だったのか、この子。

 癖のない直毛のショートカットだからか、野球帽がやけに似合っていた。

 わざわざ自分よりも身長が高い俺と目を合わせるために、帽子のツバを上げながら、


「やあ、中村くん。体つきからしてなにかしらスポーツをやっているとは思っていたが、まさか野球だったとは」

「あ、いや。その……」


 クソ。なんでこの野球部は顔がいい女子ばっかりなんだよ。

 妙に心臓が多く動く感覚がする。口が回らない。


「あれ、はるか先輩、この人と知り合いだったんすか?」

「彼とは同じクラスなんだ。クラスメイトの名前と顔を覚えるのは当たり前だろう?」


 ……実は俺、未だにあなたの名前を知らないんだけど。

 いや、友奈って子が遥先輩って呼んでいたから、下の名前は遥か。

 それにしても、どうしてこの人たちはこんなにもグイグイくるんだ。

 思わず後ろに一歩下がると、俺が困っているのを察してくれたのか、遥が武田へ視線を移す。


「それで、千夏。どうして彼を連れてきたのかな?」

「そりゃあ、ハイパー野球が凄いからさ!」

「あの、千夏先輩。それ、説明になってないっすよ」

「それでもそうだ! ではでは、冬也くん。さあ、自己紹介を!」


 武田を両手の人差し指を俺に向けて、全員の視線を俺へと集める。

 待て待て。こんなにも女の子の視線を受けて、俺が喋れるわけがないだろうが。

 でも、さすがに何も言わないと空気が最悪になってしまう。

 とりあえず、これ以上話をややこしくしないためにも。


「えっと……野球は、辞めました」


 瞬間、その場の空気が凍りついたのが分かった。

 ああ、やばい。間違えた。さすがにこの場で言うには唐突すぎた。

 そんな中、精一杯のフォローを入れてくれたのは武田だった。


「あ、あははっ。確かに、野球部がない山伏に転校してくるってことは、何か事情があるってことだもんね! それなら仕方ない。私が代わりに説明してあげましょう!」


 武田は「ふふんっ」と胸を張って、


「中村冬也くんは、野球の超名門大阪葛桐高校で一年生であるにも関わらず五番ピッチャー、背番号一のエースとして去年の夏の甲子園に出場し、すでにいくつかの球団が彼の獲得のために動き出している、二〇年に一度の天才と呼ばれる最強ピッチャーなのだよ!」


 俺の捨てたはずの過去を、これでもかと武田は語る。

 聞けば聞くほど、忌まわしい歴史だ。

 しかし、俺の事情を知らない部員たちは、有名人でも見るような顔で俺を見ている。


「ほらほら! ネットにも動画が上がってるんだよ! テレビで特集されたこともあるくらいなんだから!」


 まるで自分の自慢をするかのように、武田はスマホで流れる俺の動画を皆に見せる。

 本当にやめてくれ。野球をしている頃の馬鹿な自分なんて、見たくない。

 しかし、昔の俺のプレーをみた彼女たちは、感嘆の声を上げる。


「はぇ~。ストレートも鬼で、変化球もキレッキレで、バッティングも化け物っすね」

「ああ、どこかで見覚えがあると思ったら、去年の夏で大活躍していた中村くんか」


 友奈と遥が、動画の俺を眺めながら呟く。

 そして、今の俺を見比べて、


「んで、そんなスター選手が野球をやめて山伏に来た、と」

「素直に勿体ないと、思ってしまうね」


 俺の事情を知らないから出てくる、率直な感想。今まで何回も言われてきたことだ。

 それなら、早めに伝えるべきことを伝えるべきだ。そうすれば、諦めてくれるだろう。


「夏に肩を壊したんだ。だから、もう野球はできない」


 今度は、ちゃんと伝わったはずだ。肩を壊したのも、野球を辞めたのも、全部本当だ。

 女子に囲まれたせいで意識が向いていなかったが、落ち着いてくると自分がグラウンドにいるという事実を改めて思い出して気分が悪くなってくる。

 しかし、スマホで俺の情報を探していた武田が、むむっと顔を上げる。


「肩の怪我、冬にはだいぶよくなったって書いてあるけど……」

「あ、ああ。でもまだ、完治じゃないから本気で投げられない」

「だったら、リハビリでもいいから一緒に野球しようよ! 楽しい野球部生活なら、この私が保障するぜ!」


 きっとそれは、心の底から俺のことを想ってくれたがゆえの言葉なんだろう。

 周りの女子たちも、俺を拒絶している人は誰もいなかった。

 友達同士の繋がりの強い、笑顔の絶えない部活。

 どこまでも、俺の大嫌いな部活そのものだった。


「俺はもう二度と、野球はやらない」


 また空気が凍りついた。

 さすがの武田も、笑顔が強張っている。


「ほ、ほら、きっとみんなでやれば楽しいよ! 冬也くんを知っている人だって、またあんな風にプレーをしている姿を見たらきっと喜んでくれるから……」

「そんなわけないだろ。一年からレギュラーだった俺をよく思っていた人は、先輩にも同級生にもいなかったよ」

「でも、でもさ。あんなに上手なんだから、大学になってからまた結果を出せば絶対にプロになれるよ。こんなところで終わっちゃうのなんて――」

「勿体ない、ってか」


 いつの間にか、女子への免疫なんて忘れていた。

 胸の中から際限なく湧き上がってくるイラつきが、次々に言葉を紡いでいく。


「俺のことを何も知らないくせに、知ったような口をきかないでくれよ。勝手に期待を押し付けて、努力は全部俺にやらせて、成功した結果で自分が努力したつもりになりたいだけだろ」「そ、そんなことは……」


 分かっている。お前たちがそんな卑しい人間じゃないぐらい、俺でも分かる。

 でも、言わずにはいられなかった。吐き出さなければ、俺が壊れてしまいそうだった。


「いつもいつも、そうやって才能だのなんだの言いやがって。努力しない言い訳を用意して、努力したやつらは勝手に天才って一括りにして、いざ挫折したら他人事みたいに諦めるにはまだ早いって?」


 死に物狂いで努力をしたことのない人間が、どうして俺たちを上から評価するんだ。

 諦めなければ夢は叶うって、どうして夢を叶えていない奴が語る。

 理由は明確だ。この部活という存在が悪い。

 頑張っただけで、仲間意識を高めただけで、目標を達成した気になっている勘違い野郎たちが、形だけの努力を押し付け続けているからだ。

 人並みの努力が報われるわけがない。でも、自分は頑張ったんだと納得させるために、部活や青春だという言葉がその過程を美談にするにはうってつけなのだ。

 無意味な馴れ合い。中途半端な努力。

 そんなふざけた美学に嫌気がさして、俺は野球を辞めたんだ。


「お前たちの努力不足を俺に押し付けるな。やりたきゃお前たちで勝手にやってろ。俺はもう、人生を無駄遣いしたくないんだ」


 ただ言葉を放っただけで、息が上がっていた。体力は落ちていないはずだが、相当の気持ちを込めて語っていたらしい。

 全てを吐き出した俺の脳内が、すっきりと晴れていく。

 周囲の光景が、やたら鮮明に見えた。

 案の定、全員ドン引き。雰囲気は、最悪だった。

 ああ、これじゃあもうこの高校で女子と話す日は二度とこなさそうだな。

 あれだけ明るかった武田も、さすがにここまできたら――


「無駄なんかじゃないよ」

「……え?」

「冬也くんの頑張ってきた時間は、無駄なんかじゃないよ」


 予想だにしない言葉が、武田から帰ってきた。


「怪我だって辛かっただろうけど、きっと絶対に治るよ。またいつか、野球が楽しいって思える日が来るよ」


 痛いと感じるほどに、力強い視線。

 なんの根拠があって、こいつはこんなことを言えるんだ。


「私は冬也くんに、野球なんてつまらないって、部活なんて時間の無駄だなんて思ったままでいてほしくない」


 そうか。この子はきっと、全てが上手くいってきた人なんだ。

 報われない努力などないと、やり直せないことなどないと、本気で信じている成功者。

 勉強をしたら偏差値が上がって、走り込んだら足が速くなって。

 もう二度と立ち上がれないという挫折を知らないまま、これから先も生きていく人。

 武田千夏という人間は、おそらくずっと幸せな人生を歩んでいくんだろう。ふと今までの道のりを振り返ったときに、満足してまた前を向ける人なんだろう。

 ならば。


「俺は、そっち側の人間じゃなかったんだよ」


 この世界には、報われない努力も、再起不可能な挫折もあるということを。

 主人公になれなかった人間なんて、この世界に山ほどいるってことを。

 他でもない俺が、伝えなければならない。

 俺はグラウンドの真ん中にあるマウンドを指差した。


「投げてやる。誰でもいいから、受けてくれ」

「え……?」


 あれだけのことを言ったのだ。こんな展開になるとは思っていなかったのだろう。

 目を丸くする武田だったが、すぐに遥のグローブを借りてホームベースへと走り出した。


「私が受けるよ、冬也くん! ほら、ボールもあるから!」


 制服で革靴のまま、武田は俺へ向かってボールを転がした。

 俺はボールを拾い上げ、マウンドに立った。

 立つだけで、意識が宙に浮いた感覚に襲われる。ただそこにいるだけで、息が上がる。


「座らなくていい。本気では投げないから」

「うん! さあ、どんな球でもとってあげるからね!」


 武田はパンパンとグローブを叩いて、大きく開いたグローブの腹を俺へ向けた。

 どんなボールも取る、か。そんなキャッチャーがいてくれたら、どれだけ心強いか。

 でも、俺の球を取れる人なんてどこにもいない。


「……どうせ、届かないんだから」


 マウンドからホームまでの距離は、約十八メートル。

 五〇メートルを一〇秒で走ったとしても、四秒もかからない短い距離。

 この距離から何度も何度も、この球を投げ続けてきた。

 今でも、あの記憶は鮮明に脳裏に焼き付いている。

 満員の観客。蒸しかえるような熱気。どれだけ集中をしても耳に入ってくる応援と歓声。帽子のツバに染み込んだ汗とロジンの粉。相手バッターの突き刺すような視線。

 そして、内側から鈍器で殴りつけるような肩の痛み。

 涼しげな風が吹く四月の空気の中、ねっとりとした汗が全身から溢れ出す。

 俺はすぐに投球動作に移った。左足をひきながら振りかぶり、右の股関節に体重を乗せて体を捻る。そして、大きく開いた足で地面を踏み、体の回転を使ってボールを投げて……


「……ははっ」


 やっぱり、無理だった。

 投げたと思っていたはずの球は、俺と武田の間で力なく転がっていた。

 俺の投球を見守っていた全員が、言葉を失っていた。


「……冬也、くん?」

「これが、今の俺だよ」


 乾いた笑みを浮かべながら、俺はもう一度ボールを手にして再び振りかぶる。

 二回目は、その異常が自分でもはっきりと分かった。

 投げる直前に、右腕が震えだして硬直し、強引に腕を振ろうとして手からボールが落ちていく。それが悪ふざけでないことは、腕の震えを見ただけ全員が分かっただろう。


投球障害イップスって、いうんだってよ」


 精神的な原因などで思い通りの動作ができなくなってしまう一種の運動障害。

 原因などは人それぞれで、症状も、それが出る状況も個人の精神に依存する。

 気持ちの問題と言ってしまえばそれまでだが、イップスのせいで引退に追い込まれたプロ選手だって数多く存在する。

 まさか、俺がイップスになるなんて思いもしなかったけど。


「夏の大会で肩を壊してから、誰かに向かって投げようとすると右腕が震えて、強引に投げようとすると指から力が抜けてボールが落ちる」


 壁などの無機物に向かって投げる分には問題ない。だが、誰かに対して投げようと意識した途端に、投げられなくなる。肩の怪我が落ち着いたあとも、これだけは治らなかった。


「お前の言う努力は散々やった。試せることは全部試した。それでも、俺は野球ができないままだった」


 精神科にも通った。神経の異常がないかも大きな病院で検査をした。他にも、様々な病院へ行き、筋肉や関節に問題はないかの確認は隅々までやった。やれることは全部やった。当然だ。人生の全てを懸けていたんだから。

 それでも、何も変わらなかった。誰かに球を投げることだけが、出来なかった。


「みんな、嗤ってたよ。惨めだなって。先輩が座るはずだったベンチに腰かけておいて、気が付いたらボールも投げられなくなってたんだから」


 一年生が名門校のレギュラーになるということは、それまで努力をしてきた上級生の努力を無駄にするということだ。気分がいいわけがない。しかしチームの勝利のためだからと、俺への怒りを飲み込んでスタンドでメガホンを握っていたのだ。

 誰も励ましてなんてくれなかった。一年のくせに生意気にスタメンだったんだから、これくらい苦しんで当然だと、さらに扱いが酷くなった。


「いじめなんて可愛い方だ。スパイクやグローブの紐が切られているのは、日常だった」


 友情も青春も、そこにはなかった。あるのはただ、終わりの見えないゴールに向かって走り続ける恐怖だけ。


「お前たちは楽しいかもしれないけどさ。俺にはもう、無理なんだよ。部活も野球も、二度と関わりたくないんだ。これ以上、無駄な努力をしたくない」


 もっと早く諦めていれば、ずっと楽だった。

 無駄にしたくないともがいたから、さらに人生を無駄にした。

 俺の言葉を静かに聞いていた武田は、様々な感情に表情を歪ませていた。

 こんな重い話をして申し訳ないが、これで俺に関わらなくなるのならそれでいい。

 武田は唇を震わせながら、


「あ、の……。冬也、くん」

「部活は俺が一人で適当に選ぶから。もう俺みたいな人間に関わらない方がいい」


 あれは謝ろうとしている顔だ。

 やめてくれ。悪いのは俺なんだ。無駄に人生を浪費した俺の責任だ。

 お前が謝ったら、俺は俺が悪くないと思ってしまいたくなるから。


「じゃあな、武田。野球、頑張れよ」


 それだけ告げて、俺はグラウンドを後にする。

 放課後のグラウンドには似合わない、重い沈黙の中、俺は足早に歩いていく。

 俺を追いかけてくる人は、誰もいなかった。

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