第一話 その白球は届かない その1

 学校への通学路は、なるべくゆっくりと歩くようにしている。

 最寄りの駅から学校までそこそこな距離があるため、人によっては駅から自転車を使う人もいるが、俺は朝の時間に余裕があるので電車を降りてからは徒歩で学校へとのんびり向かう。

 しかし、校舎の壁で黙々と時間を刻む時計が示すのはホームルーム開始の三分前。遅刻になる寸前の、他の生徒たちが小走りで校舎へと走っていく中で、俺だけがそのせわしない時間から取り残されたまま上履きに履き替える。

 いつもの習慣のせいで毎朝六時には目覚めているが、家を出るのは八時過ぎだ。そうしないと、嫌でも校庭が視界に入るこの学校で朝練をしている奴らを見ることになる。

 勉強を頑張ろうと気持ちを作っている中で、部活をやっている連中を見て朝から気分が悪くなるなんて考えたくもない。

 だから、いつも遅刻寸前の時間に教室に入る。


 一応、全生徒が部活に所属しているからか、朝練を終えた生徒たちで溢れかえっていた。

 やめてくれ。制汗剤と汗の混じった匂いでも眩暈がするんだ。

 出来る限り鼻から息を吸わないように、意識をして口呼吸をする。

 クラスの半分近くが朝練をしているなんて、どうなってんだ。教室の隅で可愛い女の子が表紙を飾る小説を読んでいる人もいるってのに、活気に満ちすぎだろう。

 俺は壁に肩を擦りながら、自分の席がある窓側の一番後ろの席へと向かう。

 無駄に身長も肩幅もあるので、隅の席はありがたい。

 後ろの人のためにわざと猫背をするの、疲れるんだよな。

 教室の半分辺りに差し掛かったところで、誰かが声をかけてきた。


「やあ、おはよう。中村くん」

「お、おはよう」


 わずかにどもりながらも、挨拶を返すことに成功。

 声をかけてくれたのは、昨日ぶつかった女子だった。

 改めて見ても綺麗な顔立ちで、高校生とは思えないほどの艶やかさをまとっていた。

 机に腰かける彼女の周りは、三人ぐらいの女子で囲まれていた。昨日少し話をしただけでも、同性にもモテそうな雰囲気はあった。

 周囲の反応を見る限り、かなり人気がある子らしい。

 そんな子から挨拶をしてもらったと思うと、途端に顔が赤くなってくる。


 俺は会釈をして席へと向かう。座った瞬間に、ホームルームを告げるチャイムが鳴った。

 ある程度偏差値が高い学校であるため、チャイムを聞いて話していた生徒たちがすぐに自分の席へと戻っていく。

 未だに小さな話し声はするが、担任の金子先生が入ってくるとその声も消えた。

 相変わらずのつやつやワカメを揺らしながら、出席確認が始まる。

 全員の名前を呼び終わり、諸連絡を終えると、金子先生は俺へ視線を移して、


「あと、中村。この後、少しだけいいか?」

「あ、はい」


 一限が始まるまでのほんの一〇分間。皆が教科書の準備をしている中、教卓へと向かう。

 金子先生は、俺に一枚のプリントを渡した。


「ほい、部活の申請用紙。入る部活が決まったら、これに書いて持ってきてくれ。そのときに顧問の先生へ提出する用のプリントも渡すから」

「はい。分かりました」


 なんの部活にも入りたくはないが、決まりなのだから仕方ない。

 どこか適当な部活を探して、幽霊部員にでもなればいい。


「ちなみに、どんな部活があるかとかは知ってるか?」

「いえ、あまり」


 野球部がないことを確認しただけで、他にどんな部活があるかは確認していない。

 というより、女子野球部すらも見過ごしていた俺が知っているわけがない。


「新入生に向けての部活説明はあるんだが、さすがに二年のお前にそれに混じってくれとも言えないからな。放課後、職員室に来てもらっていいか?」

「何かパンフレットでもあるんですか? それなら、次の休み時間にでも貰いに行きますけど」

「あー、いや。そうじゃなくて、俺が顧問をしている部活の子で、部活の紹介をしてくれると言ってくれた子がいてな。放課後はその子に案内をしてもらってくれ」


 ……少し、嫌な予感がした。


「ちなみにその子って、女子ですよね?」

「そうだな。まあ成績も優秀でコミュニケーション能力も高いから、安心してくれ」


 問題はそこじゃない。

 女の子と二人で部活を見て回るなんて、そんなイベント、俺には早すぎる。

 会話をもたせる自信もないし、何が好き? なんて聞かれてもまとも答えられない。

 それなら一年生に混じって部活説明会に顔を出したほうがマシかもしれない。

 だが、俺が何かを言う前に金子先生は手元の紙の束をとんとんとまとめて、


「部活のことは教師よりも生徒に訊く方が実態も分かって選びやすいだろうからな。せっかくだから、楽しい部活を選んで学生らしい青春でもしてくれ」


 笑いながら、先生は俺の肩を軽く叩いた。

 部活に、青春。俺の嫌いな言葉たち。

 だが、皆の前で反抗的な態度をとるわけにもいない。


「……分かりました」


 精一杯の作り笑いをして、俺は席へと戻った。

 机に教科書を並べると、すぐに授業開始のチャイムが鳴り、別の教師が教室へやってくる。

 俺はそっと視線を左へと移す。窓からは、誰もいない校庭が見降ろせた。

 ……楽しい部活、か。

 ありもしない幻想。部活が楽しいと言っている連中は、結局は気が合う友達と一緒に過ごしている時間が好きなだけで、部活自体が好きな人はほとんどいない。

 そういうやつらは、結局部活がなくても気の置けない仲間とともに別の遊びをして青春の一ページを描いていくのだ。しかし、大人たちにそんな時間を無駄だと言われないように、部活という理由付けをして遊んでいるだけ。


 どうやって考えても、この世に部活が必要な理由はない。スポーツのプロ選手になる人たちは、学校の部活なんかではなく、もっといい機材といいコーチのいる環境を選んで自分をいじめぬき、高みへと昇っていく。

 所詮、部活なんて学生同士の当たり障りのない馴れ合いに過ぎないのだ。

 だからもう、部活に対して全力で取り組むなんて、あり得ない。

 そんなことが授業中も頭から離れないまま、いつの間にかその日の授業は全て終わっていた。


 *


 放課後。金子先生に言われた通り、職員室へと足を運ぶ。

 転校の手続きなどもあって、学校の中で一番迷いなくたどり着ける場所が職員室だった。

 テンプレートの挨拶をして、職員室の中へと入る。管理された空調と、ほのかに漂うコーヒーの匂いは、どの学校でも大人たちの特権らしい。

 当然、金子先生の机の場所も知っている。俺はまっすぐに先生の元へとたどり着いた。


「どうも」

「おっ、来たな、天才王子」

「あの、本当にその呼び方、やめてもらっていいですか?」

「……そうか。テレビでも特集されていたぐらいだから、悪い気分じゃないと思うけどな」

「もう野球は辞めましたし、天才なんて言葉、俺には相応しくないですから」


 天才というのは、いつだって運命に選ばれた側の人間だ。

 才能なんて誰だって持っている。それを誰よりも綺麗に磨き上げて、なおかつ運よく結果に繋がった人たちに努力すらできない輩がつける総称が天才だ。中には本当の意味で他とは一線を画す天才も存在するが、そんな人は人生で一度出会うかどうかで、ほとんどは秀才だ。本物の選ばれし天才というのは、挫折なんてしない。万が一挫折したとしても、次の日には糧となりさらなる高みへといとも簡単に上っていく。

 残念ながら、俺は選ばれなかった側の人間だ。いくら実力があっても、天才にはなれない。


「最近の若者は謙虚だねえ」


 俺の気も知らずに、金子先生はコーヒーを啜った。

 この人だったのか、コーヒーを常飲しているの。


「まあいいや。もうすぐ武田が来るから楽にしていてくれ」

「武田……?」

「お前に部活の案内をしてくれる子だよ。男子の中でも超人気の女の子だぞ、ありがたく思え」

「はあ……」


 恥をしのんでも、女子に免疫がないことを伝えておくべきだった。

 どうせそういう子は性格もいいから、まともな受け答えもできない俺に対して優しく話しかけてくれるに違いない。

 考えるだけでも申し訳なくなってくる。一人で黙々と見学する方がよっぽど楽だ。

 今すぐにでも逃げ出したいところだが、どうやらそれも叶わらないらしい。


「失礼します! 金子先生はいらっしゃいますかー!」


 可愛らしく、はきはきとした女の子の声。

 振り返ると、金子先生の言う超人気が一目で分かるほどに顔立ちの整ったスタイル抜群の女の子が軽やかな足取りでこちらへ歩いてきていた。

 高めにまとめた黒髪のポニーテールが、文字通り尻尾のように揺れていた。


「おー、武田。元気か?」

「ハツラツですぜ、先生!」


 武田はぐっと親指を立てた。

 凄まじくエネルギッシュな子だな。こっちが疲れそうだ。

 横に並ぶと、武田は俺の顔を見上げる。


「はぇ~。おっきいね! 先生、この人が転校生の?」

「おう。せっかくだ。お互いに自己紹介をしたらどうだ?」

「それもそうですね! 相手のことを知るにはまず自分から、ってことで」


 武田はこほんと咳ばらいをすると、ピンと背筋を伸ばして、


「初めまして! 二年A組の武田 千夏ちなつです!」

「え、えっと。二年D組の中村 冬也とうや……です」


 巨躯に合わない小さな声で、俺は自己紹介をした。


「……ん? 中村、冬也……?」


 武田はなにやら眉間にしわを寄せて、俺の顔を覗き込んでくる。

 ち、近い。ぐいぐい来ないでくれ。

 きっと、こういう無意識な距離の縮め方が男子たちの心を奪っていくのだろう。


「……むむむ?」


 動揺している俺のことなんか気にせずに、武田はさらに俺に顔を近づける。


「今年から、山伏に転校してきたんだよね?」

「は、はい」

「ちなみに去年まではどこの高校に?」

「お、大阪の高校。名前は、そこそこ有名だけど、あんまり知らないと思う」


 野球では超名門だが、野球に興味がない人には耳なじみはないだろう。

 しかし。


「もしかして、大阪葛桐高校?」

「は、はい」


 なんだ、知っていたのか。ってことは、野球に詳しかったりするんだろうか。

 どうしよう、余計に関わりたくない。


「大阪葛桐高校、中村冬也……」


 口の中で小さく呟きながら、考え込むように「むむむぅ~」とこめかみに人差し指を当てる武田は、突然大声を上げた。


「えええええ!? 大阪葛桐の、中村冬也ぁ!?」

 武田は急に俺の手を掴んで、

「去年の夏の甲子園で、一年生で背番号一を背負って、二〇年に一人の逸材とまで言われた最強エースの中村冬也くん!?」


 しまった。この子、野球に詳しいとかじゃない。

 本物の野球好きだ。……しかも今になってみて、どこか見覚えがある気がする。

 ああ、そうだ。思い出した。この子は昨日、俺が帰るときに。


「私ね、女子野球部の部長をやってるの! よかったら私の部に来てよ!」


 俺がボールを投げ返さなかったあの女子野球部、この子だったのか。どうして気づかなかったんだ。気づいていたら、もう少し早く逃げ出せたのに。

 というより、武田は金子先生が顧問をしている部活の子だって言っていたはずだ。

 つまりは、こうなるだろう未来は容易に予想できたわけで。


「いやぁ。言ったらお前、逃げ出しそうだったから」


 俺の家に、昔使っていたバリカンがあった気がする。頭皮を破壊しながらそのワカメを収穫してやろうか。


「でもな、やっぱり若い才能がこんなところで終わってしまうのは勿体ないと思うんだ。武田もいいやつだし、少しずつでも踏み出していけばいいと思うんだよね、俺」

「…………は」


 異常な吐き気と寒気が、心の奥底から溢れかえる。

 ああ、またか。またそうやって、俺に押し付けるつもりか。

 ダメだ、我慢できない。学校にも来たくない。親には申し訳ないが、もう一度転校を検討してもらって……。


「逃がさないぜ、冬也くん!」


 武田は掴んでいた俺の手を握る力を強めた。

 やめてくれ。女の子の手を握ったのなんて小学校のフォークダンス以来なんだぞ。あのときにペアだった女の子に「手汗、凄いね」って苦笑いされた記憶が蘇るから離してくれ。

 しかし、女子免疫マイナス人生のせいで、抵抗することができない。


「金子先生! ちょっと冬也くん借りますね!」

「元々そのつもりだからいいぞ~。いろいろ部活を紹介してやれよ~」


 にへら~と笑って金子先生は武田に連れていかれる俺を見送る。


「ちょ、ちょっとまって……」

「冬也くんのような天才を、逃すわけにはいかないからね!」

「ちがっ、そういうわけじゃ……」


 早く説明しないといけない。きっと、勘違いをしているはずだ。

 どこかの漫画の主人公みたいに、野球部すらない高校から甲子園を目指すサクセスストーリーを夢見ているのかもしれない。

 早く伝えなければいけない。

 俺はもう、二度と野球はしないと。


「あ、あのっ……!」

「どしたの、冬也くん」


 足早に廊下を進みながら、武田はわずかに振り返る。

 横顔しか見えないが、それでも透き通りながらも輝く瞳と、愉快に上がる口角が視界に映る。


「俺はもう、野球は……」

「そんな暗い顔していたら、せっかくの整った顔が台無しだぜ、冬也くん!」


 どうしてこの子は、こんなにも楽しそうに笑うのだろう。

 俺は何も言えなかった。武田に引っ張られるまま、俺は校庭へと連れていかれた。

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