カナリヤと狐
給仕服を纏ったテディは、レモネードのグラスを乗せた銀盆を手に、庭園へ戻った。
まずは小さなガス灯の下で話し込んでいる母親たちとその娘である令嬢二人に近づいていった。
「お飲み物はいかがでしょうか」
「あら、ありがとう」
茶色のドレスの母親がレモネードを取った。黄緑のドレスのもう一人の母親も。その後にそれぞれ娘達がグラスを取る。小柄な令嬢がぽうっとテディを見上げていたので優しく微笑み返す。すると彼女は恥じ入ったように顔を伏せてしまった。
しかし、そんな事お構いなしという風に、母親たちはお喋りに興じている。
「ほんとうに素晴らしい庭ですわねぇ」
「あら、でもこれは奥方のご趣味なんですって」
「タウンゼント卿も懐の広いお方ね。奥方のご趣味の為にこんな広い庭園を用意してくださっているなんて」
「でも先代のタウンゼント卿ってほら、息子がいなかったから」
「ああ……でも現当主が奥方に一目惚れしたんでしょう? 持参金もかなりって聞いたけど」
「ここだけの話、奥方というより、爵位と相続した領地目当てだって聞いたわ。インドに大きな鉱山を幾つも所有していらっしゃるし、新しい事業を始めるという噂よ」
「まあ、結婚なんてそんなものよねえ」
それだけ聞いて、テディは彼女達から離れた。あまり聞き耳を立てていると怪しまれそうだからだ。
タウンゼント夫妻の噂はどうもあまり良いものではなさそうだった。
夫人が相続した所領目当てだとか、夫人こそ卿の持参金目当てだったんじゃないかとか、真偽のほどはわからないが噂には事欠かないようだ。
(みんな、花すら見ていないじゃないか。まぁ、こいつらには噂って毒花のがお似合いだが)
内心でせせら笑いながら、恭しく首を垂れて参加者に飲み物を勧める。
この庭園には温室があるようだ、と紳士の一人が連れの淑女に言っているのを聞いて、テディもそちらへ向かう事にした。
鉄とガラスでできた大きな温室が見える。中には沢山の珍しい植物が栽培されているようだ。いかにも金持ちの道楽としかテディには思えなかったが、参加者たちがこぞって賞賛やらおべんちゃらやらを垂れ流している程度には凄いらしい。
その温室の近くのテラスで、明らかに周りとは違う紳士たちが歓談しているのが見えた。恐らくは、警察と軍の高官方だ。その周りを警護するかのように体格のよい男達が付いていた。
その中の一人は、テディにも見覚えがあった。
明るいベージュの髪を後ろに撫で付け、鋭い視線で周りを見回す長身の男。明らかに周りの者達とは雰囲気が違っていた。
内務局から来た、冷酷無比で切れ者の捜査官。
(あれは、グローヴァーだ!)
心の中で声を上げた時、色素の薄い灰銀の瞳がこちらを見た。まるで猛禽類に捉えられたネズミみたいに、テディの心臓は縮み上がった。
(やばい!)
急いで人垣の中に隠れながら移動する。
アーサー・バートレットがまだ捜査班にいた頃、赴任して来たばかりのジョナス・グローヴァーに一度だけ会ったことがあった。
急ぎの情報をアーサーに届けた後、ばったりと出会ってしまったのだ。
『ここは関係者以外立ち入ることは許されていない』
絶対零度の声音と視線は、今でもはっきりと思い出せる。
予想通り、アーサーと水と油のようにそりは合わなかったようだが。
不自然にならない程度に、大きな帽子の淑女の陰に隠れながらもう一度温室の方を見る。
グローヴァーはもう既にそこにいなかった。
自分の顔を覚えているとしたら本当に厄介だ。すぐに離れた方が賢明かもしれない。と本能が警鐘を鳴らす。
しかし、有力な情報をまだ得られていない以上、情報屋としての矜持が会場を離れる事を許さなかった。
温室から離れてアリスを探すことにした。幸い、すぐにベンチに座るアリスを見つけることが出来たが、テディは視界の端に軍人と思しき四人組の若者たちを捉えた。制服からして海軍だろうかとテディはあたりを付けた。
スコッチの入ったグラスを手にした彼等は強かに酔っているようだ。行き交う令嬢たちに不躾な視線を投げ、にやにやと笑いながら下卑た言葉で品定めに興じているようだった。
四人組の視線が、ベンチに座る令嬢に向けられる。
酷く下卑た言葉で若者達が話し合っているのが聞こえた。この声量だとアリスにも聞こえているだろう。もしもあの鬼警部補が聞いたら、お前らの前歯と鼻は無事じゃ済まないぞと憐れみを含んだ眼で彼等を鼻で笑う。
だが、アリスの方を見て、テディは酷く動揺した。屈辱に耐えるような表情で、バラ色の唇を真一文字に結び、じっと小さな手を握っている。
伏せられたまつ毛と、結い上げられた金色の髪、真っ白なうなじが金色の陽の光を浴びて光るさまは、とても美しいとテディは思った。
テディは直ぐにアリスに近づいて、あのろくでなしの男達の視線から彼女を隠すように立ち、上体を屈めてレモネードを差し出した。
「お飲み物はいかがですか?」
弾かれたように色白の顔がこちらを見上げた。青空色の瞳がきらきらとテディを見つめて、それからふ、と柔らかく微笑んだ。その笑顔に、柄にもなく胸がときめいたのは墓の中まで持って行こうとテディは決めた。
「ありがとう。喉が渇いていたの」
アリスが立ち上がる。花のような香水の香りがふわりと香った。
すれ違いざま、温室の方向に警察関係者らしき人間がいる事を伝えた。
その時に、グローヴァーがいた事を伝えなかったのは、テディの痛恨のミスである。
気づいた時には、既にアリスの姿は無く、テディは自分のしくじりに内心舌打ちをした。
(とはいえ、あの格好(なり)なら誰も旦那だって分からねえだろう)
そう自分に言い聞かせるようにして、テディは温室とは逆方向、屋敷の方へ足を向けた。グローヴァーと一度面識がある以上、下手に接触したら面倒な事になるのは火を見るよりも明らかだ。
もう少し何か良い情報は得られないかと周りを見回した時、人混みから少し離れた藪の中に動く影を見つけた。
銀盆を手近なテーブルに置き、そちらへ向かう。
藪を掻き分けると、木漏れ日の中に一人の少女がいた。生成り色のエプロンドレスに、艶やかな黒馬の尻尾のようなポニーテール。年の頃はアリスより年下だろうか。使用人らしき少女は地面に膝をつき、園芸用のはさみで丁寧に低木の枝を切っていた。
時折カナリヤのような軽やかな声音で鼻歌を歌っている。
テディの足元でぱきり、と枝が折れる音が鳴り、少女が弾けたように振り返った。
黒曜石のような大きな瞳がこちらを見た。
「あ……」
テディが声を上げた時、少女が恥じ入るように顔を伏せてしまったので、酷く後悔した。
その顔の右半分に、火傷跡のようなものがちらりと見えたからだ。
「すまない。仕事の邪魔をしてしまったみたいだ」
素直に頭を下げると、少女が慌てて長い前髪で右側を覆い隠すようにして髪を直して恐る恐るこちらを見上げた。
「我可以坐到你旁边吗?(隣に座ってもいい?)」
テディの口から流暢な中国語が発せられたのに、少女が目を丸くした。ダウンタウンには中国人も多く住んでいる。幼い頃から様々な人種や裏社会の中で揉まれて来たテディは、生きる為に様々な言語を覚えざるを得なかったのだ。
少女が小さく頷くのを見て、テディは彼女の左側に静かに腰を下ろした。
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