誰がキングを殺したのか?

 昼中から大分傾いた日差しがガラス張りの屋根から差し込み、温室の中を光の梯子が柔らかく植物たちを照らしていた。まるで天使が祝福するかのように。

 だが、それは神聖ともいえる光景には些か不釣り合いだった。

 うつ伏せに倒れた恰幅のよい身体。

 割れたグラス。

 倒れた椅子やティーテーブル、

 クロスや菓子、そしてチェス盤と駒が辺りに散乱している。

 横向きになった顔は青ざめ、苦悶に満ちた表情のまま時を止めていた。

 えんじ色のフロックコートには見覚えがある。

 このパーティの主催者。タウンゼント卿に他ならなかった。


「失礼。通して!」


 咄嗟にアリスは野次馬達を掻き分けて倒れている紳士に近づいた。

 跪いて素早く手袋を脱ぎ捨て、首筋に指先を当てる。脈があればまだ可能性はあるかも知れない。

 だが、それは無駄な事であった。

 ほんの僅かに温かい身体は既に土のうのような重さで、そのぬくもりも急速に失われてゆく。

 参加者たちがアリスを見て何やらひそひそと話し始めている。

 しかし、そんな事はどうだってよかった。

 ざっと身体を見るが、目立った外傷はない。

 眼を見開き、苦悶に青ざめた顔を検める。唇の周りに泡と吐しゃ物が付いていた。

 この状況下から導き出せるのは一つだけだとアリスは確信していた。


「毒、か」


 タウンゼント卿の遺体を見下ろしながら呟くと、細長い影が自分の背中にひやりとかかった。


「お嬢さん、そこから離れて頂けますかな?」


 ぶわ、とうなじの産毛が逆立つような感じがした。

 まるで人間味を失くしたような硬質な声音。あらゆるものに興味も無いという冷徹なそれは、アリスは以前嫌というほど聞いた。いや、アリスではなく、アーサー・バートレットの時であるが。


 ——アーサー・バートレット警部補、君には例の殺人事件の専従班を外れてもらう。

 ——理性的な捜査が出来ないものは私の捜査方針には不要だ。


 あの日に受けた屈辱的な言葉は、一言一句たりとて忘れた事は無い。

 ゆっくりと振り返り、影の主を見上げる。

 ダークグレイのフロックコートを纏った細身の長身のシルエット。後ろに撫で付けた明るいベージュの髪が陽の光を受けて輝いている。

 逆光の為にその表情を伺う事は出来ないが、灰銀色の眼差しが冷たく自分を見下ろしているのを容易に想像できた。


「ジョナス・グローヴァー……」


 ジョナスが懐疑に満ちた溜息を吐くのを見て、アリスは思わず名を口にしてしまった事を後悔した。

 おもむろにジョナスが近づいてきた。反射的にびくりと身体を震わせる。

 そのまま彼はアリスの隣に跪き、遺体を覗き込んでからアリスを見つめた。


(最悪だ。何でったって、こんな時にコイツと出会っちまうんだ!!)


 心の中で盛大に毒づいていると、ふわりと彼が使っている男物の香水と葉巻の香りが鼻を擽った。

 猛禽を思わせる切れ長の灰銀色の眼差しと、冷たい印象の端正な面立ちは、理知的な彼の魅力を際立たせて令嬢たちにもさぞや人気がありそうだったが、アリスはそれどころではなかった。


「以前何処かでお会いしましたか?」


 硬質な声音にアリスは小さく首を振ろうとしたが、意を決して彼の瞳をまっすぐに見つめた。


「パーティで。遠目からでしたので、私の事はご存じないと思います」


 ジョナスは関心なさそうに「そうですか」と言った。アリスは内心生きた心地がしなかった。

 だが、彼の興味はどうにかアリスから遺体に移ったようだ。

 白手袋の手が、遺体の首筋、顔を検める。


「遺体に触れたのは貴女だけですね?」

「え? ええ……」

「何故手袋を脱いで触れたんですか?」


 ジョナスが素手のままのアリスの手を見た。傍らにはシルクの手袋が脱ぎ捨ててそのままになっていた。

 相変わらず目聡い奴だと舌打ちしたくなった。


「……まだ息があるか、脈を見ようと。手袋があるとわからないので」

「ほう。随分と博識ですね。それに胆力もある」


 すう、とジョナスの眼が獲物を捕らえた猛禽のように細くなる。アリスは知っていた。それは捜査会議の時、捜査員の報告を聞き、有力な情報だと判断した時の彼の癖だ。

 これはまずい、とアリスが思った時、後ろの野次馬がどよめいた。

 ライラック色のドレスの貴婦人が、両手を口元にあて、夫の無惨な姿を眼にして戦慄くように震えている。


「あなた……!」


 か細い悲鳴を上げると、ルイーズはばたり、と崩れ落ちた。「奥様!」という声と共に使用人たちが彼女を運んでゆく。

 その様子を冷めた目で見つめていたジョナスは、その視線をアリスに移した。

 灰銀色の瞳が、厳しい色を湛えてこちらを見下ろしていた。


「少しお話を聞かせていただけますかな。ミス……」

「ガーフィールド。アリス・ガーフィールドです」


 アリスは毅然と言って、立ち上がった。澄んだ青空色の瞳がジョナスを見つめ返す。

 ジョナスは少し驚いたように眼を見開いたが、すぐに立ち上がってくるりと背を向け、いつもの冷たい声で言った。


「よろしい。ミス・ガーフィールド。では、こちらへ」


 ジョナスは歩きながら「紳士淑女の皆さま。誰も会場から出ないようお願いします。ここはスコットランドヤードが指揮を執ります」と言い放ち、正装姿の部下らしき人間達が慌ただしくバタバタと温室内に駆けて行く。中には寛げたズボンを慌てて直しながら来るものもいる始末だ。

 アリスから見たら、『酷くお粗末な初動捜査』としか言えなかった。


「ロンドン警視庁も質が落ちたもんだ」


 わざと聞こえるように小さく呟いたが、前を歩く細身の背中は微動だにしない。分かり切っていた事であるが。

 そして、人混みから離れてゆく二人の背中を、給仕姿のテディが心配そうに見つめていた。

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